市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第18講

X 福音書ところどころ

6 神の国と復活

貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。

(ルカ福音書 六章二〇節)

神の国とキリスト

 イエスは「神の国」を宣べ伝えられた。けれども使徒たちは「キリスト」を宣べ伝えた。「神の国」と「キリスト」は別のものではない。同じ現実である。イエスの「神の国」の宣教においてはまだ隠されていたものが、復活されたキリストの事実の中に顕されたのである。イエスの中には聖霊によって終末の事態が到来していた。イエスはそれを「神の国」、「神の支配」というイスラエルに伝統的な表現で言い表し、数々の力ある業で指し示し、その隠された内容を多くの譬で語られたのであった。ところが、イエスが死者の中から復活してキリストとして立てられた時、イエスの中に隠されて来ていた終末の事態があらわになったのである。すなわち、この方の十字架上の死は人間の罪に対する神の終末的な裁きであり、同時にそこで罪からの贖いが成し遂げられていること、そしてイエスの復活は、神が人間を死から復活させて完成されるみ業の初穂であり、原型であり、約束であることが明らかになったのである。
 このように、「キリスト」とは十字架による贖罪と死者の復活という終末的現実の名称である。そして、この「キリスト」においてイエスが語られた「神の国」の内容があらわになっているのであれば、福音書に記されている「神の国」という表現に「キリスト」の内容をこめて理解しなければならないことになる。十字架を復活に至る道として、最終的な到達点である復活に含ませて理解するならば、「キリスト」とはまさに復活という終末的な救いの現実であり、「神の国」は「復活」をその究極的な内容とすると言える。
 表題に掲げたイエスのお言葉は、「神の国」についての代表的なお言葉であるが、今回はこのお言葉を復活の観点から取り上げてみよう。このお言葉を「貧しい人々は幸いである。復活はあなたがたのものである」と受け取れば、その内容が一段と鮮明になるのではなかろうか。           

終末における逆転

 ルカ福音書六章二〇〜二六節に、貧しい者たちの幸いと、富んでいる者たちの不幸が鮮やかに対比されて語られている。この世では富んでいる者たちが幸いであり、貧しい者たちは不幸であるとされるのに、それが見事に逆転している。人生を復活の観点から見れば、当然のことになる。人間にとって死者からの復活に達することが最終的な幸いである。復活にあずからないのであれば、この地上でいかに富を貯え、全世界をもうけても何の益があろうか。それ以上の不幸はない。それは滅びである。
 この観点から見るとき、いま地上で富んでいる者たちは、すでに地上で祝福を受けてしまっており、来るべき「神の国」、すなわち復活に何の分もない。彼らは今自分が持っているものに満ちたりて、神を求めることなく、心楽しく笑っている。しかし神が死者を復活させる時、彼らは神と何の関わりもなく、復活の栄光から閉め出されて嘆き悲しみ、彼らの所有するものはもはやその飢えを満たすことはないであろう。
 それに対して、イエスに従っている弟子たちは「貧しい者たち」である。彼らはいま自分の中には何のよきものも持たず、飢えており、泣いている。彼らはただ神に乞い求めるほかどうすることもできない者たちである。しかし、神が死者を復活させる時、ひたすら神との関わりに生きてきた彼らは、その栄光にあずかり、人間としての最終的な完成と充満に達し、歓喜に溢れることになる。
 この「幸い」章句では、「今・・・・している」という現在と「・・・・するようになる」という将来の反対の状況が明確に対比されている。この逆転はいつ起こるのであろうか。イエスのこの言葉を聞いた民衆は、政治的な変革が起こって、現在の社会的階層が逆転し、現在貧しい階層が富裕な階層になることを期待したかもしれない。もしそうなれば、イエスは新しい富める者たちに、「あなたがた富んでいる者たちは不幸である」と同じ言葉を投げかけられるであろう。イエスが語っておられる逆転は、政治的社会的なものではない。イエスは「新しい世になって、人の子が栄光の座に座る時」(マタイ一九・二八)のことを語っておられるのである。神が死者を復活させる時のことを語っておられるのである。その時「血肉は神の国を受け継ぐことはできない」のである。すなわち、地上でどのような立派な価値あるものも、人を死者からの復活にあずからせる資格にはならないのである。

貧しい者の幸い

 では、神が復活を約束しておられる「貧しい者たち」とは誰か。イエスが「貧しい者たち」と呼んでおられるのは、どういう人たちであるのか。これは語句の意味からではなく、イエスの宣教活動全体から理解しなければならない。イエスは自分に従ってきている弟子たちを見て、「あなたがた貧しい者たちは」と言っておられる。イエスに従ってきた者たちは、無学の(律法の専門学者ではない)漁師や、「罪びと」として排斥されていた取税人や遊女のような人々であつた。イエスはこういう人々と食事を共にして、ご自分の仲間であることを表明し、彼らにご自分がもたらされる祝福を約束されたのである。律法学者やパリサイ派の人たちが、律法を持たないやからとして「地の民」、「罪びと」と呼んでいた人たちを、イエスは「貧しい者たち」と呼ばれたのである。
 イエスはこの表現を預言者から受け継いでおられる。イエスはご自分の宣教活動を、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人々に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」というイザヤの預言を成就する出来事としておられる(ルカ四・一六〜二一)。そのイエスが福音をたずさえて向かわれたのが、当時の宗教の基準からは「罪びと」として断罪されていた人々であった。このような人々に神の祝福が与えられていることこそ、盲人が見えるようになり、らい病人が清められ、死人が生き返ることに並ぶ終末時の出来事である。「来るべき方はあなたですか」と尋ねるヨハネの使いの者たちに、イエスは様々な力ある業を列挙された後、「貧しい者たちは福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない者は幸いである」と言っておられる。
 「貧しい者たち」とは、神に差し出すことができる立派なものが自分の中に何もなくて、ただ胸を叩いて「罪びとのわたしを憐れんでください」と、ひたすらに神の慈愛に縋るほかない者のことである。それに対して「富んでいる者たち」とは、律法にかなった立派な業績を自分の中にたくさん持っている者たちのことである。神に義とされて復活の栄光にあずかるのは、立派な業績をたくさん持っている「富んでいる者」ではなく、自分に何も持っていない「貧しい者」である(ルカ一八・九〜一四)。こうして、「貧しい者」とは「霊において貧しい者」であり、自分の罪に泣き、神からの義に飢え渇いている者ということになる(マタイ五・三、六参照)。そうであれば、「貧しい者」として復活にあずかるには、財産があるかないかは関係ないことになるが、実際には財産のある者は地上の幸福に満ち足りてしまって、ひたすら神からのものに飢え渇く「貧しい者」になることはきわめて難しい。「財産のある者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」ということになる。実際にイエスに従ってきた人たちは大部分貧しい階層の人々であつた。
 これは大逆転である。宗教の根本原理を覆すように見える。しかしイエスは大胆に宣言される。「あなたがた貧しい者たちは幸いである。神の国、復活はあなたがたのものである」。それは、イエスご自身がその現実に生きておられるからである。イエスご自身貧しい者の極限の姿になる、すなわち自分を無とすることによって神の御霊を受け、「神の国」を身に宿す者となっておられるからである。この逆転はすでにイエスの身に起こっているのである。そこには律法が介入する余地はない。むしろ律法の基準からすれば立派なものを多く持つ者は、そのような立派な自分に依り頼むので、神から恩恵として賜る聖霊を受けることができない。そういう立派なものが何もなくて、自分を無として全存在を神の恩恵に投げ込む者だけが、聖霊を受けて「神の国」の現実に生きる者になることを、イエスは身をもって知っておられるのである。そして十字架の死に自分を引き渡すまでに徹底的に無の場に生きぬかれたイエスを、神は死者の中から復活させて、「貧しい者」が受ける「神の国」がどのようなものかを、世界に公示されたのである。
 ルカ福音書の「幸い」の章句は四組の対比から成り立っているが、第一の「貧しい者と富んでいる者」の対比が基本的な対比の提示であり、第二の「飢えている者と満腹している者」、および第三の「泣いている者と笑っている者」の対比は、第一の対比の展開であると考えられる。ところが第四の「憎まれる者と誉められる者」の対比は、第三までのものと比べると文体も異なり、内容も具体的になっている。イエスは特にここでご自分のことを語っておられるように見える。イエスは終末的現実をすでに宿す者としてご自分を「人の子」とされたために、会堂から追い出され、異端とか神聖冒涜の汚名を着せられて、ついには十字架の処刑に至るのである。その苦難の道をイエスは復活という天にある大きな報いを見つめて、喜びの中に歩まれる。やがて弟子たちも「人の子のために」、すなわち復活して栄光の座におられるキリストを告白する者として、この世の体制から締め出されたり、様々な汚名を着せられて裁判にかけられたりするであろう。しかし恐れることはない。むしろ喜び踊るべきである。信仰のゆえの苦難は、復活という天における大きな報いを確実にするのである。
 「すべての人に誉められるとき」、すなわち体制的な宗教の優等生となるとき、それは先の「富んでいる者」の部類に入ることになり、来るべき栄光と関わりのない者になる。イエスはご自分を預言者の系列に立つ者としておられる。主の民であることを誇りにしたイスラエルは、昔から神の霊によって語った預言者たちを迫害してきた。今すべての預言を成就する方として来られた預言者以上の方を殺そうとしている。「神の国」を宿す「貧しい者」は、イエスも弟子たちも「富んでいる者たち」からの激しい憎悪にさらされる。
 このように、イエスはこの「幸い」の章句を、何よりもまず、ご自分の身に起こる終末的な大逆転の告白として語っておられる。イエスはみずからご自分を無として神の御霊に満たされて、「神の国」を宿し、その現実に生きぬかれた。それは十字架を通して復活に至る道であつた。イエスご自身の告白として、この「幸い」章句の対比の言葉は十字架・復活の道を指し示している。
 イエスの身に起こることは、イエスに結ばれて生きる弟子たちにも起こる。ただ、われわれ人間は本性的に自分の価値を誇る者であって、みずから自分を無とすることができない。自分を立てて神に反抗してやまないわたしのためにキリストが死んでくださった、あの十字架の愛に捉えられる時はじめて、自己が打ち砕かれ、無とされるのである。そして、無とされ死んだ自分の中に神の御霊が宿り、その御霊によって生きるようになる時、それは復活に至る生命であることを確信させられるのである。こうして、十字架に合わせられて死に、イエスと共に十字架を負って生きる時、この十字架という貧しさの極みの場で、復活が現実の希望となり、イエスが語られたあの「幸い」の御言葉が成就していることを知るのである。
(アレーテイア 34号  一九八九年)