市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第17講

X 福音書ところどころ

5 神の訪れの時

「もしこの日に、お前も平和の道をわきまえていたなら・・・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに保塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかつたからである」。

(ルカ福音書一九章四一〜四四節)

旧約における神の訪れ

 イエスは地上の御生涯の最後の週、子ろばに乗って受難の地エルサレムに入ろうとされた。エルサレムに近づき都が見えてきたとき、その都のために泣いてこう言われた、と福音書は伝えている。
 イエスは御自身の苦しみではなく、神の民イスラエルに臨む大いなる患難と滅びを思って泣かれます。その滅びは、「この日に」、すなわちイエスがイスラエルに現れ働かれた時に、それが自分たちの神の決定的な訪れの時であることを悟らなかったからです。イエスの働きの中にイスラエルの神が御自身の民を訪れておられるのです。この訪れは、長い歴史の中でイスラエルが体験した一連の神の訪れの出来事の中の、最後の、そして決定的なものでした。
 旧約には「神の訪れの時」という表現が用いられていることはごく少ないのですが、その事実は多くあります。まず、イスラエルの父祖アブラハムには神の訪れがあったことが伝えられています。たとえば、創世記一八〜一九章のソドム・ゴモラの裁きの出来事の時、アブラハムは神の訪れを受けています。主は三人の旅人の姿でアブラハムを訪れ、彼の歓待を受けて、翌年には男の子が生まれるという祝福の約束を与えています。その後ソドムを訪れ、そこでひどい仕打ちを受けて、その罪が溢れている実態を確認し、裁きが実行されることになります。このように神の訪れは、信仰をもって迎える者には祝福、傲慢な心をもってこれを拒む者には裁きとなることが語られています。
 しかし何と言っても、イスラエルの歴史の中で最大の「神の訪れの時」は出エジプトの時です。エジプトの圧政の下で苦しんでいるイスラエルの嘆きは神に届き、「神はイスラエルの人々を顧み」、彼らを奴隷の家から救おうとされました。そこでモーセに現れ、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」と言っておられます(出エジプト記三・七〜一〇)。民のところまで「降って行き」、救出の業をなそうというのです。事実、神は栄光の玉座に座すパロの所にではなく、卑しい奴隷の境遇にある民の所に下って行き、そこで多くの力ある業を行い、御自分の民をエジプトの王の手から救い出されるのです。その神の訪れはイスラエルには救いでしたが、傲慢にもモーセを通して働かれる神に敵対したエジプトの王には厳しい裁きとなり、国中の長男は死に、軍勢は海に沈むことになりました。
 預言者たちも「訪れの時」を語りましたが、それは「裁きの日」、「刑罰の日」になっていました(イザヤ一〇・三、エレミヤ六・一、一〇、一五など)。神がこの世界を訪れる時、それは自分の意のままに世界を動かそうとする権力者にとって裁きの日となるだけでなく、ダビデの大帝国以来傲慢な心で主との契約を軽んじてきたイスラエルにとっても刑罰の日となるのだ、と預言者たちは叫んだのです。しかし、その刑罰の日がきてバビロンに捕え移されるどん底の状況で、神が再びイスラエルの羊飼いとして民のところに来てくださるとの希望が語られることになります(イザヤ四〇・一〇〜一一、エゼキエル三四章)。
 捕囚後の後期の知恵文学では「訪れの時」は、赦し、恵み、平和の時として望まれるようになり、黙示的な文書でもイスラエルヘの顧みと慰めの時として待ち望まれるようになります。とにかく旧約全体としては、第二イザヤが「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られる」と叫んだように、主が苦難の中にいる民を顧みて訪れてくださる時を待ち望んでいた、と言えます。

イエスにおける神の訪れ

 イエスがイスラエルに現れて「神の国」を宣べ伝え、力ある業をもってその到来のしるしとされた時、イスラエルが待ち望んでいた「神の訪れの時」が来たのでした。しかしイスラエルの民、とくに指導層である律法学者やパリサイ人たちはこれを信じないで、イエスになお「天からのしるし」を求めました。メシヤの時代はモーセの時代に勝る神の大能が現れる時とされていたので、一般の霊能者が行う病気の癒しのような地上の奇跡ではなく、モーセが天からマナを降らせたような、「天からのしるし」を求めたのでした。
 イエスは彼らの不信仰を嘆き、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言っておられます(マタイ一六・一〜四)。ヨナというのは旧約の預言書の一つヨナ書の主人公で、預言者として召されたのに逃れようとして乗った船が難破し、海に落ち、大魚に呑まれて三日三晩その腹の中にいましたが、再び陸地に吐き出されて、ニネベヘの宣教に赴いたとされています。イエスが「ヨナのしるし」と言われたのは、三日目に死人の中から復活されることを指しておられるのです。復活こそイエスが神から来られたかたであり、イエスにおいて神が世界を訪れておられることの最終的な、そして決定的なしるしです。 
 だから、イエスが復活された主であることを信じない者たちには、イエスがなされたどのような力ある業も「神の訪れの時」のしるしにはならない。彼らは見るには見るが「神の訪れの時」を悟らず、立ち帰って癒されることがないのです。逆に、復活の光の下で見る時、イエスの働きはすべて「神の訪れの時」のしるしとなります。イエスの時はモーセの時に勝る神の大能の現れの時となります。
 福音書に記されているイエスの生涯は、この復活の光の下で語られる生涯です。イエスにおいて神が世界を訪れておられるのです。だから、イエスの誕生は神が人となって生まれたもうた出来事になります。ルカの降誕物語には「主の顧みの時」がついに来たことが賛美され、イスラエルの希望の成就が感謝されていますが、イエスの誕生はイスラエルの民の枠をはるかに超えています。「万民のために整えてくださった救い、異邦人を照らす啓示の光」が到来したのです(ルカ二・三一〜三二)。神が人になって、人間の世界を訪れておられるのです。初めに神と共にあつた永遠の「言(ことば)」、天地の万物がそれによって成ったあの「言(ことば)」、「神であった」と言われる「言(ことば)」、この「言(ことば)が肉体となり、わたしたちのうちに宿った」のです(ヨハネ福音書一・一四)。

「この人を見よ、この人にぞ、
こよなき愛は、あらわれたる、
この人を見よ、この人こそ、
人となりたる 活ける神なれ」(賛美歌一二一番四節)

「なぜ神は人になったか」。これは中世の大神学者アンセルムスの代表的著作の題名ですが、彼だけでなく古来多くの敬虔な魂がこの問の前に立ちすくみ、この奥義の理解を求めて挌闘してきました。今この問題の全体に立ち入ることは到底できませんが、この一つのことは言えます。神が人になったのは、罪と死の支配の下にある人間を救う業を成し遂げるために、神が人間の所まで下って来られたのです。それは最終的・決定的な「神の訪れの時」です。モーセの時にイスラエルを救うためにエジプトに下られた出来事が型として指し示していたことが、終末時に成就したのです。神は遠くから人間に働きかけて救いの業をされるのではありません。人間の所まで下ってきてその業をされるのです。人間が背負っている重荷をみずから背負って下さり、十字架と復活により、人間を閉じ込めていた罪と死の壁を突き破って、人間を永遠の生命の次元に導き出して下さるのです。

福音による神の訪れ

 ナザレ人イエスの姿で御自分の民イスラエルを訪れ、それによって一度決定的に人類を訪れてくださった神は、いま使者たちによって宣べ伝えられているキリストの福音によって世界を訪れておられます。人間の罪のために十字架され、死人の中から復活されたキリストの福音は、エルサレムから始まり、世界の諸民族に伝えられ、地の果てに及ぼうとしています。終わりの時に臨んで、神はこのような形で諸民族のもとを訪れ、その扉を叩いておられるのです。
 福音の宣教という形での「神の訪れ」は、まず何よりも「和解の訪れ」です(コリントU五・一八〜二一)。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく」、誰でもありのままの姿で神のもとに帰ることができるようにして下さっています。わたしたちはみな、自分の存在の源である神から離れ、自分の思いのままに歩み、神を求めることなく、神に敵対して生きていたのですが、神はこの背きの罪の責任を問うことなく、わたしたちに帰ってくるように呼びかけておられるのです。そのために「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪とされた」のです。このキリストの十字架こそわたしたちが神に帰ることができる唯一の門です。
 今この福音を聴いているあなたのところに神は訪れてきておられるのです。この福音の言葉によって、神があなたの心の扉をたたいておられるのです。いま神はキリストを通してあなたのところに来ておられる。復活されたキリストが神を現す方として、あなたの心の扉をたたいておられるのです。

 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう」。
(ヨハネ黙示録 三章二〇節)

 あなたが心の戸を開いてキリストを迎え入れるならば、復活者キリストは中に入って来て食事を共にしてくださる。「食事を共にする」というのは人と人との交わりの最も具体的な姿です。弟子たちも復活されたイエスと食事を共にすることによって、イエスの復活が単なる心霊的な現象ではなく、具体的な出来事であることを体験することができたのでした。今でもこの福音の言葉を聴いて心を開くならば、復活されたキリストが入ってきて、「食事を共にする」というほどの現実的な交わりを与えてくださるのです。
 この復活されたキリストとの交わりは、聖霊によって与えられるのです。福音を聴いて、自分の罪のために死なれたキリストの十字架の下にひれ伏し、復活されたキリストを主と告白する者には、神は約束の聖霊を注いでくださる。この聖霊が復活されたキリスト、霊なる活けるキリストとの交わりを与えてくださる。この弱くて卑しい体の中にありながら、「わたしはキリストの中に、キリストはわたしの中に生きておられる」という現実が始まるのです。ここまできて初めて「神の訪れ」はその意義を全うすると言えます。
 いま福音によって神が訪れて来ておられます。この機会を空しくしないでください。心を閉ざして門前払いにするのではなく、扉を開いて復活者キリストに入ってきていただき、食事を一緒にするようになるまで、現実的な交わりをもって生きてください。この方を拒むならば、わたしたちは自分の命だけで生きなければなりません。その命は死に勝つことはできず、やがて滅びます。復活者キリストと共に生きる命は死を突破して、栄光の体に復活します。この希望の生涯は、今キリストと共に食事をする者だけが生きることができる生涯です。
(アレーテイア 28号  一九八九年)