市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第16講

X 福音書ところどころ

4 人を生かすものは霊である

人を生かすものは霊であつて、肉はなんの役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

(ヨハネ福音書 六章六三節)

言葉の場

 人を人にしているもの、それは言葉である。からだの器官やその能力について言えば他の動物もほとんど同じものをもっているし、ある種の能力については人よりもはるかに勝れている。人にだけあって他の動物にはないもの、それは言葉だけである。
 人は言葉によって知識や情報を伝え、気持ちや考えを表現し、相手との関わりを造り出していく。文化とか文明とか呼ばれる人間独自の存在様式を形成するのは、すべて言葉による。
 それで、人が人としてどのような内容のものになるかは、人がどのような性質・内容の言葉を持っているかによって決定されることになる。言葉にはもちろん内容がある。ある言葉がどのような内容を表現しているのかは重要である。しかし、その言葉の質とか次元はさらに大切な要素である。たとえば、同じ「彼は死んだ」という言葉であっても、ある歴史上の出来事を記録するだけの場合と、その人の死によって致命的な打撃を受ける人に伝える場合とでは、言葉としての質が全然違ってくる。先の場合は聞いた人の頭脳の片偶に情報の一片を増やすだけであるが、後の場合は聞いた人の魂の奥底に突き刺さり、その人の生死を左右しかねない。その言葉がそれを受ける人のどこに、どのような力をもって働くのか、これはその言葉が用いられる「場」の性質による。

権威ある言葉

 この間の消息を、福音書に伝えられている実例で説明しよう。マタイ福音書八章(五〜一三節)に、中風の僕を癒していただいたローマの百卒長のことが記されている。「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われるイエスに対して、彼は「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と言っている。彼はイエスが発せられる言葉がどのような質のものであるかを理解しているのである。彼はそれを理論ではなく、自分の生活の中で身をもって体験して理解している。彼はこう言っている。
 「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『来い』と言えば来ますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
 彼はローマの軍人として、軍隊という場で発する自分の言葉がどのような権威をもっているかを知っている。それを受けた部下は生命を賭けてもそれを実行しなければならない。彼は自分の言葉が空しいものではなく、必ず実行され実現されるものであることを毎日体験している。彼はこの理解をもってイエスの言葉を受け止める。イエスは神と人との関わりの場で、神からの言葉を持っているかたである。だから、イエスが言葉を発せられる時、その言葉は必ず神の業を成し遂げ、実現されるのである。イエスの言葉の質についての彼のこの理解に、彼の信仰がある。イエスは彼の理解を感心され、「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」と言われたのである。

霊の言葉

 さて、イエスが地上で人々に語られた言葉は、ある事柄についての情報を伝える言葉、すなわち知識の場での言葉ではない。それはいつも、霊なる神と霊なる人間との関わりの場、すなわち霊の場における言葉である。イエスが語られる言葉がこのように霊の言葉になるのは、イエスが霊なる神とひとつになっておられ、そこから語っておられるからである。
 イエスは霊の言葉を語られる。それで、霊の世界の住人はその言葉に反応して、あるいは抵抗し、あるいは従う。イエスの言葉に汚れた霊は叫び、悪霊は追い出される。イエスは病人に癒しの言葉を与え、罪びとに罪の赦しを語られる。苦悩する者に平安の言葉を注ぎ、絶望している魂に希望の言葉を刻みこまれる。それは霊なる神から人の霊への直接の語りかけである。それは学者のように説明する言葉ではなく、権威ある者として人の霊に直接働きかける言葉である。このような質の言葉だけが、死んでいる霊を生かす力になるのである。
 だから、イエスの言葉は頭で理解しようとしても意味がない。人間の経験や理解の枠の中で、知識として蓄えてみても、霊を生かすのにはなんの役にも立たない。イエスの言葉は、霊の言葉として霊において聴かなければならない。霊において聴くとは、霊なる神から自分への直接の語りかけの言葉として聴く、ということである。たとえば、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の生命があり、わたしはその人を終わりの日に復活させる」というような言葉は、頭で理解しようとしても全く荒唐無稽の言葉であって、意味をなさない。その言葉を今生きておられるかたが、自分と共に死に、自分と共に生きるように語りかけておられる言葉として聴く時、人の霊は復活の質の生命に生きるようになることを体験するのである。

十字架の言葉

 今わたしたちには福音が宜べ伝えられている。福音とはキリストの十字架と復活とを宜べ伝える言葉である。「キリストは十字架にかけられて死なれた」という言葉が、歴史上の事実を報告する言葉として止まっている限り、それはわたしたちの霊を生かすのになんの役にも立たない。その言葉が「キリストはわたしの罪のために死なれた」となって、わたしの存在に関わる言葉になる時、わたしの魂が神との関わりの場で聴くようになる時、それは霊の言葉となってわたしの在り方を根本から変え、霊を神のいのちに生かすものになる。その言葉は霊の場では「わたしはあなたのために死んだ」という神の愛の注ぎの言葉となる。
 キリストが復活された事実は直接に証明することはできない。「キリストは復活された」という弟子たちの証言があるだけである。この証言の言葉をいくら歴史的に吟味しても、人の霊を生かす力にはならない。わたしの魂が神との関わりの場で、神からの語りかけとして聴く時はじめて、この言葉は復活して生きておられるキリストの臨在そのものとなる。こうして、復活されたキリストと共に生きるようになった霊は、このキリストの中に「わたしは死人を復活させる神である」との語りかけを聴き、「わたしはあなたを復活させる」という約束の言葉が自分に与えられていることを知るに至る。
 人に永遠の生命を与えるのは神からの霊であって、人間の内側から出て来るものは、どのように立派なものであつても、この点については何の役にも立たない。そして神からの霊が人を生かすのは、あの百卒長のように、イエス・キリストを通して語られる言葉が、神との関わりの場で、神からの言葉として受け取られている時である。
(アレーテイア 19号 一九八八年)