市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第15講

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3 わたしたちも赦しましたように 

「父よ、わたしたちの負債をお赦しください、
 わたしたちもわたしたちに負債のある者を赦しましたように」。

(マタイ福音書 六章一二節)

決算 ― 裁きと責任

 これは、主イエスがわたしたちにこのように祈りなさいと教えてくださいました祈りの中の一節です。この祈りは負債をゆるすことが中心になっています。今回はこの祈りが何を意味しているのかについてお話ししようと思います。
 ここには言葉としては出てきませんが、「負債」を取り扱う前提として、同じ譬の延長上で言うと、「決算」が必要です。決算がないのであれば、負債は借りっ放しでよいことになり、何も悩むことはありません。しかし世の中の負債は必ず決算しなければならないから辛いのです。決算しなければならない立場とは、責任があるということです。わたしたちひとりひとりの人間は、この決算において責任ある者として債務を支払わなければならない立場にあるのです。この決算や責任についてイエスは繰り返し語っておられます。  たとえばルカ福音書一六章に「不正な管理人の譬」があります。主人から膨大な資産の運用を任されていた管理人が、その資産を私腹を肥すために使っているという噂がたって、主人に決算報告を求められます。主人の求めに対して管理人は答えなくてはならない立場なのです。それで管理人は主人の債務者たちの債務額を減らしてやり、自分が解雇されたとき、その恩義で自分が良く迎えられようにしようとしたのです。ここで申し上げたいことは、主人の財産を委ねられた者は、主人の求めに対して決算書を提出しなくてはならない立場にあるということです。この立場のことを「責任」といいます。英語でもドイツ語でも、「責任」という語は「答えなければならない立場」という意味の語です。
 決算という表現で神に対する人間の責任を語っている譬はほかにも多くあります。たとえば、旅に出る主人が自分の資産を使って商売をするように家来に運用を任せます。そして旅から帰ってきて家来たちと決算をします(マタイ二五・一九)。また神の国は王が家臣と決算をするようなものだという譬も出てきます(マタイ一八・二三)。こういう譬の中で主イエスは、「おまえはわたしが与えた能力とさまざまな賜物を、どれだけ忠実に神の栄光のために使ったのか」と問われるならば、わたしたちはそれに対して自分の生きざまそのものをもって答えなくてはならない立場にあるということを教えておられるのです。このように「答えなくてはならない立場」のことを、人間の神に対する責任と言ってよいと思います。イエスは「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならない」と言っておられます(マタイ一二・三六)。「言い開きをする」という訳が使われていますが、これはさきほどから出てきている「決算書を提出する」するというのと同じ用語です。すべて人は審判の日に、語った言葉も含めて自分の生涯の決算報告書を出さなくてはならないと、イエスは人間の責任を明確に語っておられます。
 だから、決算というのは本来神の裁きを象徴していますが、裁きの前に立つ人間の姿に即して言えば、人間の責任の問題になります。イエスの宣教においては、この「決算のときは迫っている」ということがいろいろなところで語られています。そのときはいつ来るか分かりません。ちょうど稲妻が突然に暗闇を照らし出すように、神の子の裁きの日が、あるいは人の子の現れる日が来る、と主イエスは言っておられます。それだけではなく、人間は自分が死ぬときがいつであるか誰も分からないのです。まだもう少し間があるだろうから、そのうちにもっと良い生活をして、善行を積んで決算書を出すときまでに備えようと考えていても、突如として召されてしまうかも知れません。この両方の意味で、わたしたちは日々決算のときに直面して生きていると言えます。

負債 ― 罪の問題

 「決算」は人間社会のことを譬としたものですが、その決算を前提にして「負債」が問題になるわけです。では負債というのは何でしょうか。決算がもし神の前での責任、神に対してわたしたちがどのような生き方をしたかを答えなければならない立場だとするならば、負債も当然そういう関係でのことです。わたしたちが神との関わりにおいてどのようなあり方をしたかという内容が、責任をとらなければならない中身です。
 その神との関わり方がどうなのかというと、生まれながらの人間はみな一様に、自分を存在させている方、自分の命の根源である方、聖書が神と呼んでいる方と何の関わりももたないで、自分だけで存在し、自分だけで自分であるというあり方をしています。わたしは本来神から存在を与えられて存在しているのに、わたしがわたしだけで存在しているとして生きている、それを「自我」と呼びます。自我は神との関わりをもっていない自分です。このような人間のあり方は、神の側から見れば裏切りです。本来神によって造られ、神の祝福のもとに真実の姿を完成するはずの人間が、神を必要としないで自分だけで生きていこうとするあり方は、裏切りであり背信であります。こういう神との関係における人間のあり方が、じつはわたしたちが神に対して負っている負債であり、神に答えなくてはならない責任の内容なのです。聖書はこういう人間のあり方を「罪」と呼んでいます。
 ところが、このような罪の本質は、神とわたしの関わりの問題を扱う宗教の世界で、いつも誤解されています。これは人間が自我である限り必然的な誤解なのです。自我になってしまった人間は、神との関わりにおいて、必然的に自我が行うこと、自分が律法や規範を実行することによって神との関わりを形成しようとするのです。
 ですから、こういう世界での罪というのは、神の戒めを行おうとして行えなかったことになってきます。まず神の戒めや律法があって、それに背いたことが罪だというのです。罪があれば神との関わりが傷つけられ、祝福にあずかることができなくなるから、この罪を解決しなくてはなりません。そのためにいろいろな方法が考え出されます。罪は神を怒らせることだから、神をなだめる供え物をし、祭儀を行って神の怒りを和らげるとか、ある面では律法を守らなかったけれども、神の戒めが求めている以上のことをして、それによってマイナスの面を埋め合わせるという考え方、あるいは神の憐れみにすがってお赦しを願うなどがあります。いろいろなやり方がありますが、とにかく宗教は罪を清算するいろいろなシステムを提供します。
 しかし、これは律法主義の罪の理解の仕方です。「律法」と呼ばれようが、「キリスト教」と呼ばれようが、人間を外から規制する神からの規範がまず先にあって、それに背くことが罪だという理解です。だから、その規範に背いた分を何らかの方法で自分の行為によって埋め合せをするのが、この立場の罪の問題の処理の仕方であります。イエスの時代のパリサイ派の人たちは典型的にそういう考え方をしておりました。
 しかしよく考えてみますと、本来人間の罪というのは規範に背くか背かないかという問題ではなくて、自分が自分だけで自分であろうとする自我のあり方そのものが神に対する背きであり、それが罪なのですから、いくら自分の行為をよくしても、それがどんな立派なものであっても、全然次元が違うのですから、この違うもので埋め合せをすることはとうていできないのです。
 われわれの罪は神に対して支払いきれないほど大きな負債だから十字架が必要だ、とよく言われます。この「支払いきれない」ということで間違ってはいけないことは、わたしたちの律法違反があまりに多すぎて、ちょっとくらいの善行では足りないから支払いができないというのではないのです。そうではなく、たとえわたしたちが律法を欠けるところなく全部きっちり守ったとしても、それで神とわたしとの関係を正しい本来の関係にすることはできないということです。自分だけで自分であろうとする、そういう自我のあり方そのものが根本的に神への裏切り行為なのですから、それをそのままにしておいて、個々の行為をいくら足しても埋め合せをすることができるようなものではありません。

赦し ― 恩恵の場

 だからもしわたしたちが罪の問題を清算することができるとするならば、それはただ一つ、人間が自我であるというあり方を止めて、本来神によって存在させられているわたしという場所に帰ってくる以外にありません。その転換を聖書は「メタノイア」と呼んでいます。「悔い改め」と訳されますが、どうしてもこの「悔い改める」という用語は、律法に背く悪を行うことを止めて、律法にかなう善いことをするようになるという感じがしますので、「立ち帰り」と訳した方がよいでしょう。この「立ち帰り」は、人間が自分が自分だけであろうとするあり方から、方向を変えて神によってあらしめられている者としての自分に目覚めることだと言ってもいいでしょう。これを典型的に語るのが「放蕩息子の譬」でしょう。弟息子は父からの財産を全部持って父のもとから離れ、自分だけで幸せになろうとしたのですが、その結果は悲惨な境遇でした。その悲惨な境遇の中でふと本心にたち帰ったのです。「そうだ、わたしには立派なお父さんがいる、この父のもとにおいてこそわたしは本来の幸福を得るのだ」と、子としての心に立ち帰ったのです。父は戻ってきた放蕩息子の姿を遠くから見つけて、走り寄って迎えたのです。
 人間にとって必要なのは、自我であることを止めて神に立ち帰ることですが、その神に向かった人間に、神が裏切りの責任を問われるならば、わたしたちはその責任を果しようがないのです。しかし、このように自分に向かって帰って来る子供を走り寄って迎える父親のように、神はその責任を問わないで無条件で受け入れてくださっています。こういう人間に対する神の扱い方を「恩恵」と呼んでいます。わたしたちが本来神との関わりをもつことができるのは、神が恩恵をもって無条件に受け入れてくださっているからです。人間は自我という殻を突き破って神のもとに立ち帰り、神の恩恵によって神と結ばれるようになって、初めて本来のわたしになるのです。決してわたしがわたしでなくなるのではありません。わたしはもはやわたしだけでわたしであるのではなく、神と共にあって生きているわたし、神によってわたしとならされているわたしになって現れてきます。
 このように本当のわたしというのは神の恩寵の場でしか見えないのです。だから、わたし以外の人に対するときも、この本来のわたしの姿で対さないではおれません。もしわたしが人に対するときに、赦さないで裁く態度で対するならば、それはわたしが恩恵の場から出て、再び自我の中に閉じ込もってしまったことになります。わたしが恩寵の世界によって初めてわたしである以上は、同じ人格関係にある隣人の一人一人に対してもまた同じ恩恵の態度で、無条件に相手を受け入れる態度で対さざるをえなくなってくるのです。そうでなければわたしたちは本当に神の恩恵の場にいるということができなくなります。
 イエスもこのことをマタイ福音書十八章の「家臣と決算をする王の譬」で語っておられます。ある家臣が王から多額の借金をして返すことができなかったとき、家臣は王に憐れみを乞うて赦してもらったが、その後で同僚に出会って、自分が貸しているわずかの金を取り立てました。それを聞いた王は怒って、「わたしが憐れんだように、あなたも憐れむべきではなかったか」と言って、その家臣を牢に入れてしまいました。
 ここで「赦す」ということをもう少し詳しく考えてみます。赦すということは、何か損害を与えたとか、悪いことをしたとかをとがめないで赦してあげるというのが狭い意味の赦しでありますが、もっと広い意味の赦しがあります。先の譬が指し示している事実を霊的な現実にまで遡って考えてみますと、ちょうど神とわたしとの関係においてそうであったように、自分が自我という立場から他人を扱わないことです。具体的に言いますと、自我の立場で他人を扱うということは、あくまでも自分が中心ですから、自分を物差しにして相手を測るのです。自分ほど正しい者はないのですから、そこから見て違ったものや低いものはすべてけしからぬものであり、赦せないものなのです。自分を物差しにして相手を測って、その違いのゆえに相手を退けることです。これが赦さないことです。これは人間が神の恩寵の世界にいないことからくるのです。自我を原則として生きていることから出てくる必然的な人間のあり方なのです。逆に、人間が自我の殻を打ち破って、神の恩恵のもとで自分となって生きているときには、他者もまた同じようにあるがまま無条件に自分に受け入れていくことになります。それが「赦し」です。
 ですから、わたしたちはすでにこの地上で隣人を赦すことができる場にきているのです。みずから立ち帰って神との関わりのもとに戻ってきている、神との関わりの中でわたしである、そういう恩恵の世界に生きているときに初めて、わたしたちはこの地上の歩みの中で隣人を赦すことができるのです。そこで初めて「わたしたちも赦しましたように」と祈ることができるようになります。

和 ― 終末的事態の現成

 今日こういうことを改めて取り上げましたのは、赦しあうあり方が人間としての一番基本に関わる大事なものだということを申し上げたかったのです。というのは、人間のあり方を根本的に区別するのは、人間が自我というあり方をしているか、それを乗り越えているかの違いであります。自我を乗り越えたときには必ず、神と自分、そして他人と自分との統合が目指されるようになります。ですから、主の祈り「わたしたちがわたしたちに負債のある者を赦しましたように、わたしたちの負債を赦してください」を祈りますときに、それはじつに自分が本来の自分であること、すなわち神と共にある自分となることによって、他者との交わり、人間としての一体化を切実に求めている祈りになります。
 神のわたしたちに対する救いのみ業を、わたしはしばしば「救済史」という言葉で表現してきました。その救済史が完成した姿はどんなものかというと、「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エペソ一・一〇)。これが歴史を貫く神の働きの究極の目標であります。それが終末において完成するのです。神と人、人と人、天使たちも含めたすべての人格的な存在が最後に大きな一つの交わりとして完成する、この終末的和合、終末的統合を目指しているのです。それを目指す動きを、今地上で最も端的に願い実践する祈りがこの祈りなのです。
 人間は本性的に自我でありますから、こういう自我のぶつかり合う人間の世界の中でこの祈りを祈っていくことは、神からの力、神の霊の働きなくしては実現できません。そのためには、わたしたちは自分の罪のために死なれたキリストを自分の救い主としてお受けし、この方の死に合わせられて自我が打ち砕かれる必要があります。自我が打ち砕かれたところに神が約束の御霊を注いでくださる、その御霊によって神とのつながりの中に生きるわたしが実現します。新しい命に生きるわたしが生まれ出てきます。
 そこで起こっていることは、人間の自我としてのあり方が打ち砕かれて、新しい本来のわたしが生まれ出て、神と人、人と人との一つなる交わりが実現しつつあることです。それは終末の時に完成する事態ですが、この地上でもすでに実現し始めます。そのことを最も端的に示すわたしたちの姿がこの祈りです。「わたしたちも赦しましたように」と祈るとき、わたしたちはあの終末の統合をこの地上で体現しつつ、この身をもってその完成を祈っているのです。
(天旅 一九九〇年7号)