市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第12講

W 永遠の命への道




補講二 救済史の構造

            ―― 復活信仰の聖書的基礎 ――

第一講 時は満ちた

            ―― イスラエルの時とイエスの時 ――

救済史とは

 復活は福音の始めであり終わりである。福音はイエスの復活の事実から始まる。イエスが復活しておられなかったら、福音はなかった。その意味で、復活は福音の出発点である。そして、福音は復活者の共同体の完成を究極目標とする。イエスの復活は初穂として死者たちの復活をその中に含んでおり、福音はキリストに属する者たちの復活を神の確かな約束として宣べ伝える。その意味で、復活は福音の到達点である。
 この究極目標である復活に至る神の働きの全体を救済史と言う。神のこの働きは、神に背いて滅びに向かう人間を救う業として、人間の歴史の中で成し遂げられているからである。聖書全体が神のこの御業を証言している。聖書は救済史の証言である。
 今回の集会では、聖書が全体として語る救済史の内容と構造を少しでも明確に受け止め、われわれの復活信仰を神の御旨という確かな土台の上に置くことを願いとしている。

旧約の成就としての福音

 イエスがガリラヤに現れて神の福音を宣べ伝えられた時、その第一声は「時は満ちた」であった(マルコ一・一五)。それは、世界の歴史的状況が熟して福音を宣べ伝えるのに好都合な時期になった、ということではない。その意味をイエス御自身がこう語っておられる。ナザレの会堂で、預言者イザヤの言葉を引いて、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と言われた(ルカ四・二一)。すなわち、イエスの出現は旧約預言の成就である、ということである。マタイはイエスの生涯の一つ一つの出来事に、「預言者によって言われていたことが成就するためである」と書き加えることによって、同じことを語っている。しかしこれは、イエスの生涯の個々の出来事が預言の成就であるというのではなく、イエスの全体、とくに十字架と復活が旧約全体の成就である、という意味である。
 十字架につけられて死に、三日目に復活したナザレのイエスの事実こそ、アブラハムからイエスに至る全旧約聖書の歴史の目標であり、その成就であり、その意義である(旧約聖書の正典はイエス出現の前後に完結した)。イエス復活後、使徒たちは福音を宣べ伝えるにあたって、イエス・キリストの出来事をいつも旧約聖書の成就として宣べ伝えている(使徒二・二四〜三一、八・二六〜四〇、一三・一六〜四一など)。このことは、福音が要約され定式化されるとき、いつも第一項目として現れる。

 「この福音は、神が預言者たちにより聖書(旧約聖書のこと)の中であらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。・・・・・・」(ローマ一・二〜三)。

 「キリストは聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと・・・・・」(コリントT一五・三〜四)。

 では、イエスの出来事がイスラエル全歴史の成就である、または、新約(福音)は旧約の成就であるとは何を意味するのか。本講はこの問いを主題とする。

アブラハムの生涯

 イスラエルの民は、神が地上に救いの御業を成し遂げるために、特別に選ばれた民である。そのために、イスラエルは他の古代諸民族と共通の宗教形態を持ちつつも、他の民族には見られない独自の質の信仰を持っていた。イスラエルはその質を、民族の祖アブラハムの生涯を記す物語の中に端的に表現した。
 アブラハムの生涯は、神の約束を受け、それに反するあらゆる現実にもかかわらず、ただ神の約束だけに基づいて生きる生涯であった。
 彼は主なる神の約束だけに基づき、故郷を離れ、何の保証もないまだ見ぬ地に向かって旅立った。
 彼と妻は子を持つことができない体でありながら、「あなたの子孫は空の星のようになる」との主の約束を信じた。
 彼は約束によって与えられた子イサクを犠牲として捧げるように命じられたとき、神は約束を嗣ぐ子を生き返らせてくださると信じて、御言葉に従った。
 アブラハムは、見えるところによらず、ただ約束だけに基づいて生きる生涯を貫いて、ついに「無から有を呼び出し、死人を生かす神」を信じる信仰を持つに至った。これは、イスラエルがその全歴史を貫いて、ついに到達すべき創造と復活の信仰を指し示している。
 アブラハムは「来年、男の子が生まれる」との約束を信じて、イサクを与えられている。このように、部分的には約束の成就を受けているが、それはまだ受けていない約束全体の成就を保証するものである。アブラハムはまだ約束のものを受けてはいなかったが、すでに受けたように地上の生涯を生き抜いたのである。
 このように、イスラエルの信仰は約束に関わるものであり、イスラエルの歴史は約束・成就の視点から描かれている。

出エジプト

 イスラエルの歴史の中でもっとも決定的な出来事は出エジプトである。ファラオの権力の下に奴隷の境遇にあったイスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを脱出した出来事が、イスラエルをヤハウェの民としたのであった。その出来事の中で、神の御名が啓示され、契約が結ばれ、律法が与えられて、イスラエルはヤハウェの民として形成されたのであった。
 しかし、小さい流浪の一民族が最強の権力の支配から脱して定住の地を獲得するという歴史のドラマは、どこからそのエネルギーを得ているのであろうか。この場合、それは自由を求める民族の情熱だけではない。それは、約束を果たそうとする神の誠意と力、またその神への信頼が源になっている。「神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約(約束)を覚え」、モーセを遣わして解放の力ある業を成し遂げられたのである。
 では、イスラエルが約束の地カナンを獲得したとき、神の約束は成就してしまい、それ以上に成就を待つべき約束は無くなったのであろうか。そうではない。聖書の歴史においては、ある約束の成就はさらに大いなる約束を構成し、その成就を保証するのである。出エジプト(カナンの地の獲得を含む)の出来事は、神の約束の成就であると同時に、予型として、やがて神が成し遂げようとされている、さらに大いなる解放の御業を指し示し、かつ約束しているのである。
 「予型」《テュポス》とは、やがて到来するより大いなる出来事や人物を、それと共通点のある型を持つことによって指し示す事物、人物、出来事である。予型によって指し示されている本体を「対型」《アンティテュポス》というが、後者《アンティテュポス》が前者《テュポス》の原型であり、本体である。出エジプトにおけるモーセへの神の顕現と聖名の啓示、ファラオの権力に対する神の力ある業としるし、紅海での奇跡、シナイ山での契約、律法の授与、荒野の旅、カナンの地の占領、これらはすべて終わりの時に神が成し遂げられる大いなる解放の御業の予型である。

予言と予型

 カナンの地に定住し、王国を成立させ、壮大な神殿を建て、自分たちこそ主なる神の民であると誇るイスラエルに対して、出エジプトもダビデの王国もソロモンの神殿も、それ自体が神の目的ではなく、来るべき御業の予型に過ぎないことを示したのは、バビロン捕囚前後に輩出した預言者たちであった。
 バビロン捕囚は、イスラエルがその不信仰と心の頑なさの故に裁かれ、シナイでの契約は破棄され、王も民も異教の地に投げ捨てられるという、神の民イスラエル存立の最大の危機であった。この危機にあたって、預言者たちはイスラエルの罪を暴き、神の裁きを宣告しつつ、なお神はその信実の故にイスラエルを救い、保ち、その中に最終的な救いの御業を成し遂げられることを語ったのである。その御業は、もはや出エジプトの時のようなものではありえない。ダビデの王国やソロモンの神殿の復興ではありえない。それらすべてのものを、そして律法すらも予型としてしまう究極的な御業である(エレミヤ三一・三一〜三四、イザヤ四三・一六〜二一)。
 預言者たちは、やがて歴史の中で成し遂げられようとしている神の裁きと救いを、出来事に先立って語った。これが「予言」である。しかし、彼らの「予言」は、たんに当面の歴史的出来事を予告するだけではなかった。それまでの神の民の歴史が破局を迎える危機の中で、否定された過去の歴史を予型として、究極的な将来の神の御業を語ったのである。破局を梃子にして、過去の歴史が終末の約束に転化した。彼らの予言は終末的約束となった。これは神の信実による。

聖書が成就するために

 このようにして、イスラエルの歴史全体が予型となり約束となって、その成就を待つことになった。「時が満ちた」とは、まさにこの成就の時が来たということである。イエスこそ旧約聖書全体が約束していた「来るべき方」であり、イスラエルの全歴史が予型として指し示していた本体である。イエスの出現によってイスラエルの歴史はその目標に到達し、その存在の意義は全うされた。
 イエス御自身このことを自覚し、聖書全体を自分に関わる神の御旨として受け止め、それを成就されたのであった。とくに「苦しみを受けて復活する人の子」により神は終末の救いの業を成し遂げられるとの聖書理解は前人未踏のものであって、イエスはこの「人の子」として、十字架の死に至るまで神の御旨に従われたのであった。イエスが聖書をこのように受け止めておられたことは、復活後のイエスが弟子たちに言われたとされる言葉がよく示している。

 「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉はこうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇(全旧約聖書)に、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。・・・・こう記してある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から復活する」。
(ルカ二四・四四〜四六)

 このように、イエスの業と生涯、とくにその十字架の死と復活が旧約聖書の成就であるということは、それがある一人の宗教的天才とか霊能者の孤立した業ではなく、イスラエルの中で為された一連の神の御業の最終局面であり、神が歴史の中で成し遂げられる救済の御業(救済史)の決定的瞬間であることを意味しているのである。

イエスの生涯における復活

 イエスにとっても復活は約束であった。旧約聖書には復活の予言はごく僅かしかないが、イエスは旧約聖書全体から御自身の復活の約束を聞いておられたと考えられる。預言者たちが予言した「来るべき者」は、ダニエルが言う「人の子」として神の右の栄光の座につく者であるが、その「人の子」がイザヤ書五三章の「主の僕」として多くの者の罪を負って死ななければならない。そうであれば、人の子の栄光は死人の中からの復活という形でのみ実現する。イエスは、このような形で旧約聖書に約束されている復活を信じ、十字架に至る苦難の道を歩まれたのであった。
 このような歩みは、父への完全な信頼と聖霊の御力によるものであった。復活の約束に自分の人生や命を賭けるのは、人間的な意志や決意でできることではない。約束の背後にある神の信(信実、誠)だけがその成就を保証し、神の命である聖霊だけが、将来の復活を現在の霊的体験とする。この意味でも、イエスの生涯は、復活を信じて生きる多くの者たちの原型である。
 イエスが聖霊の力により病気を癒し、死んだ者をも生き返らされたのは、イエスの中に働く力が復活に至る生命であることを示す「しるし」である。イエスは復活の生命の力に満ち溢れ、力ある業を為し、力ある言葉を語り、十字架の死を突き破り、ついに復活に達したのである。

カイロスの充満

 以上見てきたように、救済史は約束・成就の構造を持つ神の救済の御業の歴史である。神が地上で何か御業を成し遂げられる時、それは必ずあらかじめ語られていた御言葉を成就する行為である(アモス三・七、エレミヤ一・一二)。それが人間の業ではなく、神の業であることが明らかになるためである。そして、一つの約束が成就されると、その成就の御業が次のより大いなる御業の約束を形成し、その成就を保証するという形で、救済史は約束・成就の重層構造をなしている。
 神の民イスラエルにおいては、時は等分な目盛りで測れる均質な流れではなく、神が決定的な行為をされる時点であり、内容のある時である。このような時を「カイロス」と言う。そして、神の御業が約束の成就として為される救済史の場では、「カイロス」とは、事態が熟して約束を成し遂げるのにふさわしいとして神が行為される時である、と言える。「カイロス」という語をこのように理解すると、救済史とはカイロスの重層的連続である、と言うこともできる。
 イスラエルの歴史は諸々のカイロスから成り立っているが、先に見たように、イスラエルの全歴史が予型として神の最終的で決定的な御業を待ち望んでいるのであるから、その最終的な御業が成し遂げられる時こそ「ホ・カイロス」(定冠詞付き大文字のカイロス、究極のカイロス)である。イエスが「時は満ちた」と言われたとき、この究極のカイロスが到来したことを宣言されたのである。そして、イエスが復活されたとき、このカイロスの充満が完成したのである。
 しかもイエスの復活は、終末の死者たちの復活を約束し保証する出来事なのである。イスラエルの時の充満としてのイエスの復活は、全人類に対する創造者の究極の約束を形成している。これが第二講の主題となる。

第二講 創造と復活

       ―― アダムとキリスト ――

はじめに神は

 「はじめに神は天と地を創造された」。聖書はこの壮大にして深遠な信仰告白で始まる。そして、それに天地創造の物語が続く。それによると、神は六日間で天と地と、その中にある一切のものを創造し、最後にその御業の冠として人を創造された。そして、すべて造られたものを見てよしとされ、七日目に休まれた、とある。
 どの民族にも宇宙開闢の神話がある。イスラエルの天地創造の物語は、彼らの捕囚の地バビロニアの創造神話から影響を受けていると言われている。そうかもしれない。しかし重要なことは、イスラエルはそれを自分たちの神の「はじめの業」として信じ告白したことである。すなわち、神の救いの御業の歴史、救済史の最初の業としたことである。天地と人類の実在の事実そのものが、救済史の「アルケー」(始原、元初)とされたのである。
 イスラエルの民の信仰告白は、その原初の形が申命記二六章五〜一〇節にあるとされている。そこでは、出エジプトという歴史的出来事こそ、彼らの神の啓示であり、彼らの存在の土台であると告白されている。イスラエルがカナンの地に定住して農耕生活を始めたとき、土地の生産力を神とする周囲のバール信仰に対して、歴史の中に自身を啓示されるヤハウェを信じるように、預言者たちは戦った。この歴史化の過程は捕囚期の預言者において頂点に達したと思われる。とくに第二イザヤ(イザヤ書四〇〜五五章)の預言、天地の創造者が歴史の主宰者であって、イスラエルを解放される方であるという預言は壮大である。
 このように、すべてを神の救済の働きの歴史であると受け取るイスラエルの信仰が、天地の実在と人類の存在そのものが神の救済史のはじめの業であるとの啓示を見させ、冒頭の信仰告白をさせたのであった。そして、はじめの御業を見る信仰は、終わりの御業をも見る信仰である。始めがあれば、必ず終わりがある。「はじめに神は天と地を創造された」と告白する信仰は、必然的に終わりの御業を待ち望む。聖書の創造信仰は終末的である。では、天地の創造というはじめの業に対応する終わりの業は何であろうか。これが本講の主題である。

はじめのアダム

 創造の御業の頂点は人の創造である。神は人だけを神のかたちに創造された。それは、人を御自身との交わりの対象とされたということである。人の体は土の塵で造られているが、神の命の息、すなわち神の霊を吹き込まれて生きた者になった。この霊によって、人は神と交わり、神と同じ生命に生きる存在であった。
 ところが、人は蛇にそそのかされて、「それを食べると必ず死ぬ」と言われていた善悪を知る木の実を食べてしまった。それは、神に敵対する霊サタンの誘惑に負けて、自ら神であろうとする高ぶりに陥り、背神という根元的な罪を犯したのである。その結果、神との交わりは断たれ、その霊は死に、自らを恥じて神の前から隠れるようになってしまった。
 この人の創造と神からの離反は、神話的な形式で語られているが、これは現実の人間そのものの姿を啓示する言葉である。この物語で「人」と訳されているヘブライ語原語が「アダム」である。本来アダムとは人自身のことであり、アダムの姿は人間そのものの姿なのである。
 そして、人の背神とその結果である死によって、神のはじめの業である天地の万物も死の影を宿し、滅びの相をもつものとなった。神の御業の歴史はすべてこの事実から始まる。この死と滅びの中から人類と天地万物を救い出して、神の栄光にあずかるものとして完成すること、これが救済史の究極目標となる。これは、背く人間に対する神の限りない愛から出るのである。そして、はじめ死と滅びが人によって来たように、終末の完成も人によって来ることになる。

終わりのアダム

 イエスが十字架上に死に復活して天にあげられ、主(キュリオス)またキリストとして宣べ伝えられたとき、前講で見たように、時は満ち、神の約束は成就し、決定的な救いの御業が成し遂げられたのであった。イエスこそイスラエルの全歴史が待ち望んでいた「来るべき方」キリストであった。では、キリストであるイエスはイスラエルの望みだけを満たす方であろうか。決してそうではない。キリストはイスラエルへの約束を成就することによって、地上の諸々の民、全人類への神の約束を成就し、救いをもたらす方となられたのである。
 そもそもアブラハムが選ばれたのは、彼の子孫によって地上の諸民族が神の祝福を受けるようになるためであった(創世記一二・三、二二・一八)。キリストこそイスラエルの歴史を成就する方であるから、彼の子孫とはキリストを指すことになる。多くの人ではなく、ひとりの人キリストによって世界の諸民族は神の祝福を受けることになる。預言者たちも、終末時の神の救いの御業はイスラエルだけではなく、世界の諸民族に及ぶことを、繰り返し預言している。
 はじめ人によって死と滅びが来たように、約束が成就する終わりの時も、人によって命と栄光が来る。キリストは終わりのアダム(人)である。アダムとキリストは、予型と対型として対応する。ただし、方向が逆である。はじめのアダムにより死と滅びがすべての人に及び、終わりのアダムにより命と栄光が全世界に来るのである。
 アダムが生まれながらの人間を代表する頭(かしら)であるように、キリストは終わりのアダムとして、終末時に創造される新しい人間を代表する頭(かしら)である。頭は代表する全員を自分の中に含んでいる。アダムにあってすべての人が罪の支配下にあり、死に定められているように、復活者キリストにある者はすべて、彼の復活の命に生きるのである。したがって、救済史とははじめの人によって死と滅びに陥った人類と天地の万象を、終わりの人キリストによって復活の命と栄光に回復される神の御業である、と言うことができる。このように、アダムとキリストの対比は救済史の基本的枠組みをなす。
 使徒パウロは、このような救済史の枠組みを、彼の手紙の二カ所で詳しく展開している(ローマ書五章とコリントT一五章)。

ひとりの人により
 まず、ローマ書五章(一二〜二一節)では、はじめ一人の人の背神の行為により罪が世界に入り込み、罪によって死が万人を支配するに至ったように、終わりの時にも一人の人キリストの義なる行為により、多くの人が義とされて命に至るという消息が示されている。死を克服して命に至るためには、死の根である罪が処理され、義が与えられなければならない。神への反逆が取り除かれ、神との交わりが回復しなければならない。それ故、終わりのアダムたるキリストの第一の業は罪の贖いである。
 キリストはこの業を、十字架の死に至るまで父なる神の御旨に従う従順の行為によって成し遂げられた。十字架こそキリストの義の業である。キリストは犠牲の子羊として多くの人の罪を負い、彼らのために、彼らを代表して打たれ、砕かれ、死なれたのであった(イザヤ書五三章)。それは、頭なるキリストにあって、すべての人の罪が裁かれ、彼の死に合わせられて神に敵対する古い我が死に、それにより罪とサタンの支配力が打ち砕かれ、復活された方が内に生きることができるようになるためである。
 ここで、一人の人がどうして多くの人の罪を負うことができようか、という反論を見ておこう。キリストはもはや私的個人ではない。復活により終わりのアダムとなった方である。すなわち、終末時に創造される新しい人類の頭になられたのである。キリストは新しい人類そのものである。それ故、キリストに為されたことは、彼に代表される全員に為されたのである。十字架のキリストにあってすべての者が裁かれて死に、復活者キリストにあってすべての者が復活の命を生きる。
 このようなわけで、人が滅びに至るか復活に至るかは、ただその人がアダムに属するかキリストに属するかだけによって決まる。人はみな生まれながらのままではアダムに属する者である。イエスが復活されたと心に信じ、口でイエスを主(キュリオス)と言い表す者(ローマ一〇・九)は、彼に属する者として、頭なるキリストにおいて成し遂げられた神の救いの御業にあずかるのである。
 さらに、アダムとキリストとの対比において注目すべき点がある。アダムにおいては罪と死の間に因果関係があった。すなわち、わたしたちが罪に陥ったので、罪が原因となって死が支配するようになった。それに対して、キリストにおいては神の恩恵が溢れるように支配している。すなわち、わたしたちの側にそれを受ける理由も資格も無いのに、賜物として無条件に義と命が与えられているのである。この点においてアダムとキリストの対応は破れる。因果の法則が支配する古い世界に、別種・別次元の恩恵の支配が突入してきているのである。

初穂なるキリスト

 次に、コリント書簡Tの一五章では、死人の復活という神の究極の御業がアダムとキリストとの対比構造の中で示されている。

 「しかし今や、キリストは死人の中から復活した。それは眠っている者たちの初穂としての復活である。というのは、死が人によって来たのだから、死人の復活も人によって来るからである。それは、アダムにあってすべての人が死ぬように、キリストにあってはすべての人が生かされるからである。ただ、各自はそれぞれの順序に従う。まず初穂なるキリスト、次にキリストに属する者たちがキリストの来臨にさいして復活する。それから、この最終の時に、・・・・キリストは国を父なる神に引き渡される」(コリントT一五・二〇〜二四 私訳)。

 キリストの復活は、キリストだけに起こった孤立した出来事ではない。頭(かしら)であるキリストの復活は、その中にキリストに属するすべての者たちの復活を含んでいる。だが、彼らが時間の中にいる限り、キリストの復活は彼らの将来の復活の約束となり、その成就の保証となる。ここで、救済史の約束と成就の重層構造が最終局面を迎えている。キリストの復活はイスラエルの時の充満であり、約束としての全旧約聖書の成就であると同時に、キリストを頭とする新しい人類に対する復活の約束となる。そして、アダムがはじめの創造において人間そのものであったように、キリストは終わりのアダムとして終末における神の創造において人間そのものであるのだから、この死人の復活の約束は創造者の最終の約束となる。神はキリストを死人の中から復活させて、全人類に「わたしはすべての者を復活させる」と約束しておられる。これが福音である。
 この約束は全人類に与えられている。しかし、すべての人がイエスの復活を信じ、キリストと告白してキリストに属する者となり、この約束の受取人になるかどうかは別問題である。いま福音によりこの神の究極の約束が宣べ伝えられている。人類の前に二つの道が置かれている。アダムにあるままで死と滅びに至るか、キリストにあって命と復活に至るか、人類は選択しなければならない。そして、この選択は今、福音の前に立つわたしたち一人ひとりの選択でもある。

終わりに神は

 いったい復活とはどういう事態なのか。復活されたイエスに出会った弟子たちの証言によれば、たしかにイエスは体を持っておられ、食べ物を取り、彼らが理解できる言葉で語りかけ、一緒に歩かれた。しかし、その体はわれわれの地上の体とはまったく違ったもので、閉じられた部屋に突然現れたり、見えなくなったり、天に昇ったりする体であった。人類がそれまでに経験したことのない事態であるから、それを正確に表現する言葉もないわけである。しかし、イエスは元の体に生き返られたのではなく、全然別次元の体をもって生きるようになられたことは確かである。
 死んで土に帰った人間が復活するとは信じられない、想像すらできない、と多くの人は言う。それは創造者なる神を信じていないからである。復活は神の創造の業なのである。この天地万物を創造された方の新しい創造の業である。神は、キリストにあって与えられる新しい生命にふさわしい体を創造して与えられるのである。コリント書T一五章の三五〜四九節を見よう。
 死人の復活とは、「朽ちるもので蒔かれ朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ力あるものに復活し、魂の体で蒔かれ霊の体に復活する」ことである。聖書は、生まれながらの自然性の中の人間あるいはその命を「プシュケー」と呼ぶ。最初の人アダムは土の塵で造られ、命の息を吹き込まれて、生きた「プシュケー」となった。それに対して、終わりのアダムであるキリストは、復活により「命を与える霊(プニューマ)」となった。アダムに属する人間には「プシュケー」にふさわしい体が与えられているように、キリストに属する人間には、賜っている御霊(プニューマ)にふさわしい体が与えられる。それは神の新しい創造の御業である。
 第一の人アダムは土から出て土に属し、第二の人キリストは天から出て天に属す。この救済史の枠組みは人間存在の枠組みである。人はまずアダムにある者として、土に属する形をとっている。それが現実であるのと同様に、キリストにある者は天に属する形をとることになる。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活する。プシュケーの体で蒔かれ、プニューマの体に復活する。はじめにこの体を創造された方は、終わりの時には「霊の体」を創造される。
 「はじめに神は天と地を創造された」。このはじめの創造の御業に対応する終わりの御業、それが復活である。神は御自分の民を死人の中から復活させ、復活者にふさわしい新しい天と地を創造して、その御業を完成される。旧約は創造信仰を形成することによって新約の復活信仰への道備えをし、新約の復活信仰は旧約預言者たちの創造信仰形成の労苦の実を収穫する。復活は創造の冠である。救済史は創造に始まり復活に至る。
 この終わりの日の創造の御業は、初穂なるキリストの復活に始まり、死者たちの復活に至って完成する。この二つのカイロスの間にいる神の民の歩み、これが次講、第三講の主題となる。

第三講 十字架・聖霊・復活

       ―― エクレシアの時 ――

エクレシアの時

 神はイスラエルの歴史の中で約束してこられたことをキリストにおいて成し遂げられた。キリストはわれらの罪のために死に、彼に属する者たちの初穂として復活された。このキリストにおける神の決定的な救いの御業と約束を告知するのが福音である。復活されたキリストは選ばれた者たちに現れ、聖霊の力を与えて復活の証人として世界に遣わし、彼らによって福音を宣べ伝えさせられた。
 この福音を信じてキリストを告白する者に、神は約束の聖霊を与え、御自身に属する者として証印し、新しい神の民を地上に形成された。これがエクレシアである。エクレシアとは、福音によって呼び集められた終末時の神の民である。この新しい神の民は、イスラエルの中の信じる者を含むが、もはやイスラエルの宗教の枠(律法)に限定されず、それと何の関係もない異教の諸民族によって形成されることになった。それは福音の本質から結果することである。
 イエスを十字架につけた後のイスラエルの歴史は、救済者メシアの出現を期待してローマへの武力反抗が続き、ついにローマの軍勢によって聖都エルサレムと神殿が徹底的に破壊されるに至る。この間の約四十年は、使徒たちが福音を広くローマ世界に宣べ伝えて、エクレシアが形成される時期であった。この四十年は、古い神の民イスラエルから新しい神の民エクレシアへのバトンタッチの時期であったと言える。そして、救済史のバトンをイスラエルからエクレシアに渡したのは、選ばれたイスラエル人である使徒たちであり、中でも特に異邦人への使徒として選ばれたパウロである。
 キリストの出現を境として、救済史の担い手はイスラエルからエクレシアに引き継がれた。今や神の御業はエクレシアの中で、エクレシアを通して世界に成し遂げられる。神の栄光と恩恵はエクレシアの中に、エクレシアを通して世界に顕される。今や救済史は異邦諸民族から成るエクレシアによって担われる。これを聖書は「異邦人の時」と呼んでいる(ルカ二一・二四)。しかし、イスラエルに対する神の選びと真実は変わることなく、イスラエルが神の憐れみを受けて救われる時が必ず来る(ローマ書九〜一一章)。救済史は、イスラエルの時とエクレシアの時(異邦人の時)を経て、全人類を神の憐れみの中に包み、神の栄光を顕すことになる。まことに、神の裁きは究め難く、その道は測り難い。

聖霊の保証

 エクレシアを形成するのは福音の言葉と聖霊の力である。宣べ伝えられた福音を信じ、主イエス・キリストの御名を告白する者に、神は御自身の霊、聖霊を注ぎ与えて、御自身に属する者であると証印される。聖霊によって復活者キリストを啓示され、復活者キリストと結ばれて生きる者たちが形成する群れ、それがエクレシアである。水のバプテスマが人をエクレシアに加えるのではない。復活の主キリスト御自身が授ける聖霊のバプテスマが、人をエクレシアの一員とする。
 聖霊が働かれるとき、予言や異言が出たり、病気が癒されたり、不思議な現象を体験することがある。これも確かにエクレシアを形成するために与えられている神の賜物である。しかし、聖霊の本来の働きはキリストの栄光と奥義を啓示することである。聖霊は、キリストが復活された栄光の主(キュリオス)であることを啓示し、その十字架の死が万民の罪の贖いであるとの奥義を魂に刻みこむ。
 イエスが復活されたことは、証拠や理論に訴えて説得できるような性質のものではない。あるのは使徒たちの証言だけであり、その証言を信じることだけが求められている。しかし、信じる者には聖霊が与えられて、聖霊がイエスの復活を確かなものとして心に刻印する。それは、聖霊とはイエスを死人の中から復活させた方の霊であるからである。イエスの中に宿り、力ある業をなし、ついに死を突破して復活させた霊と同じ質の霊がわれらの内に宿るとき、イエス復活の証言はわれわれの内からあふれ出る証言となる。
 さらに、聖霊はイエスを復活させた方の霊であるから、聖霊は福音が約束する将来の復活の保証(手付け)であり、最初の実である。キリストに属する者は、この死すべき命と朽ちるべき体の中に、復活に至る命を宿して生きる。この命の現実が、人間の理解と想像を超えた「死人の復活」を確かな希望とする。そして、この希望は死に定められた体の中にあって、また滅びの縄目につながれている世界の中で、深いうめきにならざるをえないが、御霊の確かさが忍耐をもって復活という見えざる将来を待ち望む力を与えてくださる。
 このように、エクレシアは二つの復活の間に生きる。一つは既に起こった初穂なるキリストの復活、もう一つはやがて起こるキリストに属する者たちの復活である。この二つの復活は一体である。一方を否定して他方を肯定することはできない。復活は終わりの日における神の創造の御業である。それはキリストの復活において既に始まり、死人の復活によって完成しようとしている。エクレシアはこの二つの復活という決定的なカイロスの間で、聖霊により復活の命を現実に生きることを通して、キリストの復活を告白・証言し、死人の復活という究極の神の約束を世界に告知する。

十字架の奥義

 聖霊はさらに、キリストの十字架が神の贖罪の御業であることを啓示する。福音の言葉がすでに「キリストはわれらの罪のために死に」と告げているが、これは人の思いをはるかに超える秘義であり、聖霊だけがよく人の心の奥底に真意を示すことができる。
 ユダヤ教指導層とローマの権力がイエスを十字架上に処刑した。これは信仰の有無に関係なく報告できる歴史的事実である。ところがこの十字架の出来事は、神が人間の罪を取り除き、天地のすべての存在を御自身と和解させられる永遠の御業であることは、神の霊だけが知り、人に啓示することができる。そして、聖霊によって生きるエクレシアの場で、この啓示を受けた人たちがこれを伝え、エクレシアはこれを保持して証言した。これが新約聖書である。
 聖霊は十字架が神の永遠の贖罪の御業であることを啓示するだけではない。同時に、それを受ける魂に圧倒的な神の愛を注ぐ。キリストはわたしのために死なれた。わたしはキリストにあって裁かれ、キリストと共に死んだ。生きているのはもはやわたしではない、キリストがわたしの内に生きておられるのである。それは、反逆してやまないわたしへの限りない神の愛から出たことである。このように、圧倒的な神の愛がわたしを捉える。十字架の奥義を示された魂はキリストの愛の囚人となる。
 救済史とは創造から復活に至る神の御業の総体であるが、その全体を支えるのは実にこの十字架なのである。人はみな、それを自覚しなくても、神への反逆という根元的な罪の中にある。この罪の故に命の源泉なる神から切り離されて、死の支配下にある。そして、人間はどうしても自分でこの罪から逃れて、神との交わりを回復し、命に至ることができない。それを神が成し遂げてくださった。それが十字架である。神は御子を罪の肉の様で罪のために遣わし、彼の肉において罪を罰し、罪の支配を打ち破られた。それは、御子キリストにある者が、もはや罪の力の下にいることなく、神との交わりを与えられ(これを義とされるという)、神の命と栄光を受けるようになるためである。
 命と言い復活と言っても、人が罪から離れ、神との交わりを持つことができなくては不可能である。それで、救済史は罪との神の戦いの歴史であり、人を罪から救い出す働きの総体となる。そして、神は御子の十字架において決定的な業を成し遂げ、罪に勝利された。このように、十字架はそれなくしては救済史の全体が成立しなくなる土台である。救済史の構造を空間的に表現するならば、十字架を土台とし、復活を冠とする、聖霊の働きという柱で支えられたカイロスの重層構造である、と言うことができるであろう。
 イエスの十字架は全歴史、全世界を支えている! 十字架は救済史の全体を支えることによって、人類の存在を支えているのである。

キリストの体(からだ)

 このように、わたしたちはキリストにあって神の贖罪の御業にあずかり義とされ、聖霊を受けて復活の命に生き、来るべき復活を望み見て歩む者である。このキリストはナザレのイエスとして地上に現れた方であるが、その本質からすれば「見えない神のかたち」であり、復活により永遠の神の御子と定められた方である。そして、御子は天地の創造に先立って「最初に生まれた方」であり、天にあるもの地にあるもの一切は御子にあって造られた。すなわち、御子を原型として、御子の中に秩序づけられて創造された。万物は御子を通して造られ、御子のために造られた。創造において、御子がすべてを統合する頭(かしら)であった(コロサイ一・一四〜二〇)。
 ところが人が神に背いたために死が入り込んできた。死はその中に、闇、虚無、無秩序、亀裂、闘争、滅びを伴い、被造世界を混沌に陥れ、本来被造界に刻印されていた御子の像(かたち)は破砕されて飛び散ってしまった。この天地の存在すべてを「御子を頭として再統合すること」が、神の御旨の奥義、隠された御計画に他ならない(エフェソ一・一〇)。神はこの御計画を諸々のカイロスの充満・完成の形で導かれ、ついに御子御自身を世界に遣わし、その十字架によって罪を贖い、死人の中から復活させて終わりの日の創造を開始されたのである。
 この終わりの日の創造である復活において、御子キリストは死人の中から「最初に生まれた方」であり、復活の命に生きる新しい人類の「アルケー」(初めの者、頭)となられた。御子を頭としてすべてを再統合しようとされる神の御計画は、御子の復活によりその実現が始まり、死人の復活によって完成しようとしている。そして、この新しい創造において、人類と世界の存在の根底は、御子の十字架によって与えられている神との和解である。
 このように、創造においても復活においても最初に生まれた方であり頭である方が、エクレシアの頭としてエクレシアに満ちておられるのである。エクレシアは、御子を頭とする統合の地上における具体化である。エクレシアはキリストの体(からだ)である。たんなる信者の集団ではない。救済史の目標である「キリストを頭とする統合」を、二つの復活の間で地上に体現し世界に示すために、聖霊によって形成された有機体である(エフェソ一〜三章)。
 エクレシアの頭たるキリストと、体を生かす生命である聖霊は新しいアイオーンに属するが、体を構成する肢体である人間はなお肉として古いアイオーンに属している。この二面性がエクレシアの栄光と悲惨、使命と苦闘を形成する。栄光とはエクレシアだけが御霊によって受けている神の啓示、命、力であり、悲惨とは肉の働きの故に生じる分裂、紛争、誤謬などである。使命とはこの世にある故に受けた啓示と恩恵を世に伝える責任であり、苦闘とは自身の中にある矛盾や弱さと戦いながら、敵対的な世に働きかける労苦である。

ただこの一事を

 使徒たちの書簡はいつも、まずキリストにおける神の救いの御業と恩恵を述べた後、キリストにある者たちに実際にどのように行動し生活すべきかを教えている。しかし、それらの実践訓はもはや、それを行うことによって救われる資格(義)を与えるためのものではない。キリストにある者は恩恵と信仰によりすでに義とされているのであるから。それらの実践訓はすべて「勧め」である。それに従うことは祝福であり、従わないことは損失である。勧めとはすべて聖霊が欲したもう歩み方であって、それに従う者には聖霊の働きがますます盛んになり、聖霊がもたらされる良いものがさらに深く身についてくるが、それに従わないときは聖霊の働きを妨げ、霊の生命が枯渇するに至るからである。すべての勧めは結局、「御霊に従って歩め」という勧めに帰着する。それは祝福の道である。
 わたしたちは聖霊により「アッバ、父よ」と祈り、神の子の実質を宿して生きる。聖霊によって神の愛は心に注がれ、愛に生きる力を与えられる。聖霊によってキリストの十字架に合わせられて死に、復活のキリストが内に生きてくださる。聖霊は真理の霊であって、神の言葉を信じる者の内に現実にする力である。聖霊の働きが無ければ、御言葉は観念とか理念になってしまう。
 復活信仰はとくにそうである。死人が復活するというようなことは、人間の思いではどうしても納得することができないことである。聖霊の働きを失っている教会では、教義や信条として復活を掲げていても、真剣に死人の復活に達することを人生の土台または目標として生きる者はない。イエスを復活させた方の霊によって生きる時はじめて、イエスの復活は全存在をもって告白できる事実となり、キリストは復活者として共にいてくださる方であり、死人の復活という人の思いをはるかに超えた約束が自分の人生を決定する圧倒的な現実となる。
 今回の講話では、旧約新約の全聖書が証言している救済史の構造を明らかにし、救済史は復活を究極の目標としていること、復活こそ人類に対する神の究極の約束であることを示してきた。それが真理・現実であるならば(聖書は偽りではありえない!)、この地上でいかに大きな栄光を築いても、復活に至らない生は滅びであり、地上の生涯がいかに苦難の中にあろうが死人の中からの復活に到達するならば、それは勝利の人生である。
 最後に、使徒パウロと共にわたしもこう告白して、今回の講話を終わる。
 「キリストのゆえにわたしはすべてを失ったが、それらのものを糞土のように思っている。それはわたしがキリストを得るためである。・・・・・・すなわち、キリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかってその死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」。
(ピリピ三・八〜一一)

( 本稿「救済史の構造」の発表年については、
                          本書「あとがき」を参照してください。)