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W 永遠の命への道

補講一 永遠の命と復活

「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである。」

(ヨハネ福音書 六章四〇節)

死の問題と永遠の命

 最近のテレビで死の問題が二つの形で大きく取り上げられました。これは、できるだけ死の問題に触れようとしない現代社会においては異例のことです。その一つは脳死の問題です。脳死が問題として取り上げられるようになったのは、人工呼吸器など医療技術の発達によって脳死と心臓死の間に時間のずれが生じるようになり、それによって臓器移植の可能性が広がったからでしょう。臓器移植という目的がなければ脳死は問題にならないはずです。脳死の人は必ず心臓死にいたるのですから、それまでに生きている臓器を取り出す必要がなければ、なにも脳死を人の死と認めるかどうかは問題にしなくてもよいはずです。死がこのような形で問題になるところに現代社会の人間観がよく表れています。現代は人間をもはや霊と身体の統一体とは見ないで、身体が生きることだけを至上の価値として追求しているのです。そして、その身体は機械の部品を取り替えるように、一部を取り替えて生きることができる生物体と見られています。アメリカで肝臓から指の骨にいたるまで人間のあらゆる臓器が値段をつけて売買されている光景をテレビで見て衝撃を受けました。人間の死がこのような形で取り扱われるようになったのは、何万年という人間の歴史の中でごく最近の数年間のことです。人類はこれまで死を全然別の形で取り扱ってきたのです。このような脳死をめぐる状況は、現代人に改めて死とは何か、その反面の生とは何か、人間とは何か、を問いかけてきます。
 もう一つは臨死体験の問題です。人は死ぬ瞬間にどのようなことを体験するのかの問題です。人はみな死ぬ瞬間に死という現象に特有の何事かを体験するのでしょうが、普通は当人が死んでしまって、それを人に語り伝えることはできないわけです。ところがごくまれに、死の瞬間を体験した後、生き返ってその時の体験を語る人があります。自分が自分の遺体を外から眺めるとか、暗いトンネルを抜けて花園に至るとか、生前に身近であった人に会うというようなことが語られています。最近このような珍しい事例を集めて客観的に観察し、死とは何かという問題が学問的に真剣に討議されています。それがテレビによって一般社会においても話題になるようになったのです。その討議の中で重要な問題の一つは、このような臨死体験は人間の死後の存在を証明するものであるかどうかの問題です。現代は科学が至上の権威をもっていて、科学が認めるものしか認めないという時代です。それで現代人は死後の存在などは無視して、目に見える地上の生活だけが現実であるとして生きてきました。そのような生き方に対して科学そのものが疑問を提出することになったのです。死の瞬間の体験が科学的に明らかにされたからといって、それで生と死という人間の根源的矛盾が解決するわけではありません。それは別の問題です。しかし、臨死体験が問題にされることによって、すくなくとも地上の生だけを見てきたこれまでの生き方が問い直されていることは確かでしょう。
 この二つの問題は現代の死生観に問いを突きつけただけで、死の問題を解決したわけではありません。太古の昔から現代にいたるまで、死は人間にとって最も根源的な問題であり、最大の矛盾であり続けてきました。生を肯定すれば、その絶対の否定である死は認めることができません。生において活動してきた自己は、死によってその存在そのものが否定されます。自分がなくなるのです。あるがまま死を受け入れることは、生を否定すること、現在の自己を否定することになります。しかも、生と死はともにもっとも確かな現実です。この矛盾を解決するために、人間はあらゆる努力をしてきました。人間の根源的な営みである宗教も大部分この問題から出てきたと言っても言い過ぎではないでしょう。古来、人間は死をどのように見、その矛盾をどのように解決しようとしたかは、死者を葬る儀礼によく表れています。その儀礼の形はさまざまですが、共通していることは、死後の存在を前提にして、被葬者が死後も幸福であるように祈って、この世から送りだしている点です。死は生の否定であり、生が含むあらゆる幸福の終わりです。葬祭の儀礼はこの矛盾を乗り越えようとするのです。儀礼によって現在の生の幸福を死後の幸福に結びつけるのです。神話の世界に生き、儀礼が神話の出来事を成就する力であると素直に信じていた古代人は、この葬送の儀礼によって神話が語るとおりの死後の存在と幸福を保証するのです。そして、自分の死後も儀礼によって保証されているから安心という形で、生と死の矛盾を克服していたのです。ところが、文明が進んで人間が神話も儀礼の力も信じることができなくなってきた時、生と死の矛盾は各人が自分の心の中だけで解決しなければならない問題になったのです。そこに、優れた個人が獲得した解決を多数の人が奉じて従う創唱宗教や、哲学ないし哲学的宗教が生まれてくるのです。
 ところで、現代は科学の時代であると言われています。人間の問題も科学的知識によって解明され解決されると信じられており、神話はもちろん伝統的な宗教の権威はもはや認められなくなっております。たしかに自然科学だけでなく人間や社会に関する科学は大いに進歩して、人間に多くの新しい認識や問題解決をもたらしました。しかし、それによって生と死の矛盾そのものが解決したわけではありません。むしろ、神話や伝統的宗教のドグマが否定されることによって、その矛盾が白日のもとに曝されるようになったのです。現代においては、人間はもはや神話の揺り篭に安眠することはできず、社会の伝統宗教の要塞というような保護も奪われて、各人が裸で生と死の矛盾に投げ出されているのです。ひとりひとりが自分でこの問題に立ち向かわなければならないのです。
 このような状況の人間に向かって、福音は神による解決を告げ知らせるのです。福音は神がイエスを死者の中から復活させたことを告げ知らせるのです。十字架につけられて殺されたひとりのイスラエル人イエスを、神が復活させてキリストとして立てたと宣べ伝えるのです。そして、このイエス・キリストの十字架の死と復活の出来事こそ、神が人間に与えられた救いであると宣言するのです。誰でもこの福音を信じる者、すなわち十字架につけられて復活したイエス・キリストを信じる者は救われるのです。救われるとは、いま見たような生と死の根源的矛盾の中にある人間にとっては、この矛盾から救われるということです。救いの内容がこのようなものであることを示すのに、福音は「永遠の命」という語を用いています。「永遠の」というのは、もはや死によって否定されることがないという質を示しています。「永遠の命」とは生と死の矛盾を克服した質の命という意味です。キリストを信じる者はこのような質の命に生きることができるのです。今回は、この「永遠の命」という用語を手がかりにして福音の中身を見ていきたいと思います。
 「永遠の命」という用語は、福音が初めて用いたのではありません。旧約聖書では最も後期の黙示文書であるダニエル書に一箇所(一二・二)用いられているだけですが、イエスの時代のユダヤ教では、主流のパリサイ派において重要な用語になっていました。パリサイ派は当時の黙示思想の信仰である「二つの世(アイオーン)」の枠組みを受け入れていました。すなわち、悪が支配し義人が苦しむ「この世」と、神の支配が実現して義人が栄光を受ける「来るべき世」です。終わりの日の神の審判によって、「この世」は裁かれ、「来るべき世」が到来します。パリサイ派の教義では、「この世」において神の律法を守り義人となることによって、「来るべき世」の栄光に与ることが個人の救いです。この「来るべき世」における命が「永遠の命」と呼ばれているのです。ですから、パリサイ派のユダヤ教徒にとって、「永遠の命を得る」とか「永遠の命を受け継ぐ」とは、「神の国に入る」ことと同じく終末的な出来事であって、人間の究極の目標であり、最大の関心事です。パリサイ派だけでなく、さらに強烈な終末信仰と厳格な律法遵守に生きたクムランのエッセネ教徒にとっても、光の子らに約束されているのは「来るべき世」における「永遠の命」でした(宗規要覧W七)。「永遠の命」を熱心に追い求める当時の宗教的雰囲気を窺うことができます。それで、宗教熱心な青年は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」とイエスに尋ねるのです(マルコ一〇・一七、なおルカ一〇・二五も参照)。青年が去った後、弟子たちに「神の国に入る」ことを語られたお言葉の最後で、イエスが「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ一〇・二九〜三〇)と言われたのも、「この世」と「後の世」の二つの世の枠組みの中で「永遠の命」を語っておられるわけです。
 ここで新共同訳は「後の世」と訳していますが、原文は「来るべき世」です(口語訳参照)。日本語には「後生(ごしょう)」という言葉があります。これは仏教の用語で、現在の生を指す「今生」に対して、死後の世界を意味しています。死後ふたたび生まれかわることとか、死後の安楽を指す言葉です。日本人は「後生大事」に生きてきました。すなわち、死後の世界での幸福を大切に考えて、この世の生き方を決めてきたわけです。聖書の「後の世」とか「来るべき世」は、神がこの世の歴史の終局にもたらされる新しい時代であって、死後の世界とは意味が違います。しかし、この「後生大事」の生き方と、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という問う姿勢には共通点があります。両方とも地上の現在の生を、さらに優る次の世の生の準備として生きようとしています。そういう形で死を克服しようとしているのです。これはどの民族にも見られる共通の宗教性の表れでしょう。人間はなんとしても生と死の矛盾を克服したいのです。この現実の生と現実の死の両方を包摂する高次元の生に生きたいのです。

パウロにおける永遠の命

 では、この人間の根源的な願いに対して福音が与える解決はどのようなものでしょうか。一言で言えば、復活です。神はイエスを死者の中から復活させて、死の問題に最終的な解決を与えられたのです。しかし、この福音の告知に対して、復活されたのはイエス一人であって、わたしたちはみな依然として死ぬではないか、どうしてイエスが復活されたことがわたしたちにとって死の問題の解決になるのか、という反論が聞こえてきます。たしかに、この問いは大切な問題を含んでいます。新約聖書の各書は、さまざまな形でこの問いに答えようとしているのです。
 イエスが死者の中から復活されたことは、神の力による奇跡的な、最高に奇跡的な出来事が起こったというだけではありません。それは、神が預言者たちによって語っておられた終わりの日の救済の出来事なのです。復活者キリストは神の終末的救済の成就なのです。このことは福音が告知していることですが、とくに使徒パウロによって明らかにされました。パウロは復活者キリストを「初穂」と呼んでいます。復活者キリストは、「死者の中から最初に生まれた方」として、終わりの時に復活する者たちを代表しておられるのです。アダムがこの世の人類を代表するように、キリストは「終わりの人」として、来るべき世において復活する新しい人類を代表しておられるのです。神はイエスを死者の中から復活させたように、キリストに属する者たちを復活させて、救済の業を完成されるのです。イエスの復活はその開始であり、その保証です。神はイエスを復活させて始められた業を、終わりの日にキリストに属する者を復活させて完成されるのです(コリントT一五章)。キリストの福音は復活を約束し、この約束に与るためにキリストを信じるように、すべての人を招いているのです。
 このように、福音が宣べ伝える永遠の命はまず何よりも復活に与ることであって、来るべき永遠の世における命のことです。たしかに、それは将来のことです。しかし、復活者キリストを信じるとは将来の復活を待ち望むことだけではありません。現在この地上で永遠の命を生きることなのです。死に限定された存在の中で、死を克服した命を持つことなのです。この命の消息を最も明確に語っているのは、やはり使徒パウロです。パウロは自らのキリスト体験と、キリストに結ばれて生きている現実から、この命の消息を語り出しているのです。それは教理ではなく、現実の生の消息です。パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語っています(ガラテヤ二・二〇)。わたしはキリストと共に死に、キリストが自分の中に生きておられるというのです。今この地上の生において生きているのは、死に定められたわたしではなく、死を突破して復活されたキリストであるというのです。今すでに復活されたキリストが生きておられるのですから、自分が死ぬか生きているかはどちらでもよい問題になります。地上の生と死はもはや絶対的な矛盾ではなく、相対的な問題になります。すなわち、復活者キリストと共に生きるという絶対的な価値のゆえに、地上の生と死は「生きるもよし、死ぬるもよし」というように相対的なものになるのです。この境地から、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」というような言葉が出てきます(ピリピ一・二一)。
 イエスを死者の中から復活させたのは神の命の力です。それは神の霊の働きです。復活者キリストと共に生きるとは、このイエスを復活させた神の命、神の霊によって生きることです。そのような生が実現するためには、わたしたちを神から引き離している罪が処理されねばなりません。以前「キリスト信仰の原点」(前著『キリスト信仰の諸相』の序章「キリスト信仰の原点」参照)でお話ししたように、罪とは人間を神から引き離す支配力です。この罪の支配力から解放されなければ、神の命に生きることはできません。罪の支配から解放されて神との正しい関わりに入ることが義ですから、パウロの福音においては義の問題が中心になるのです。救いとは罪人を義とする神の働きとされるのです(ローマ書)。この義はキリストの十字架によって与えられます。そこで見ましたように、わたしたちがキリストの十字架に合わせられて死ぬことによって罪の支配力から解放され、義とされて神に生きるようになります。それは、キリストの十字架において成し遂げられた神の贖いの業によります。神に生きるとは、具体的にはイエスを復活させた命をもって生きることです。復活に至る質の命に生きることです。それは神の御霊の命です。この現在の御霊の命の消息は、ローマ書六章以下、とくに八章において豊かに語られています。
 このように、パウロの福音においては将来の復活の希望と現在の命の事実が同じように強調されています。パウロは「永遠の命」という表現を用いるのは比較的少ないようですが(ローマ五・二一、六・二二〜二三、ガラテヤ六・八)、パウロが「永遠の命」というときには、将来の復活と現在の命という両面が不可分のものとして含まれていると考えられます。ところが、パウロの手紙が書かれた時から四十年ほど後のヨハネ福音書になりますと、他のなによりも「永遠の命」が福音の主題となり、しかもその「永遠の命」は現在の事実であるということが中心的位置を占めて、将来の復活は背後に退いているように見えます。わたしたちはこのヨハネ福音書の使信をどのように受け取ればよいのでしょうか。ここで改めて復活との関連でヨハネ福音書の使信を見ようと思います。

ヨハネ福音書における永遠の命と復活 

 ヨハネ福音書が書かれた目的は、この福音書自身が明確に述べているように、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(ゾーエー)を受けるため」(二〇・三一)です。ここでは「永遠の」という形容詞なしで、ただ「命」とだけ言われていますが、これが「永遠の命」と同じであることは、この福音書全体の用例からして明かです。しかも、この「ゾーエー」は、人間の生まれながらの命である「プシュケー」と厳密に区別して用いられています。「プシュケー」はすべての人間が生まれながらに生きている命ですが、「ゾーエー」は信仰によって神から新たに与えられる別種の命です。ヨハネにおいては、福音とはイエス・キリストを信じる者にこの「ゾーエー」を与える神からの使信なのです。しかも、この「永遠の命」は将来のことではなく、現在の事実であることが強調されます。「永遠の命」に関してこの福音書が語るところを聴いてみましょう。
まず三章のニコデモとの対話のところで、モーセが荒野で青銅の蛇を上げたことを予型として、イエスが人の子として十字架に上げられることが語られ、「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と、十字架の出来事の意義が語られます(三・一五)。そのことをヨハネは改めて神の愛の現れとして語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(三・一六)。しかも、賜る永遠の命は現在のことなのです。「御子を信じる人は永遠の命を得ている」のです(三・三六)。このことは五章でさらに明確な言葉で表現されます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(五・二四)。その他、四章のサマリアの女との対話では「永遠の命に至る水の泉」(一四節)として、十章の訓話では「羊に永遠の命を与える」よい羊飼い(二八節)として、イエスのことが語られています。弟子たちがイエスから離れることができないのは、何よりもイエスが「永遠の命の言葉を持っておられる」からです(六・六八)。
 ところで、六章に五千人の群衆に満腹するほどのパンを与えられたイエスを捜しにきたユダヤ人との対話があります。イエスは彼らに、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われます(六・二七)。「そのパンをわたしたちにください」と求める群衆に、イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない」と言われます(六・三五)。イエスが命のパンであり、イエスを信じることがそのパンを食べて命を受けることだというのです。それは現在の事実です。「信じる者は永遠の命を得ている」(六・四七)のです。
 ところが、この対話においてイエスは同時に終わりの日の復活を約束しておられます。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(六・四〇、他にも三九、四四節参照)と語り、さらに「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(六・五四)と言っておられます。ここでは永遠の命を得ることと終わりの日の復活は切り離せないこととして語られています。しかし、この対話全体の流れは、イエスを信じることによって受ける永遠の命が現在の事実であることを主張しており、終わりの日の復活ついての言及は、たしかにとってつけたような感じがします。それで、この復活の約束を二次的な挿入であると見る学者が多くあります。すなわち、この句は本来のヨハネ福音書にはなかったのであるが、終わりの日の死者の復活を基本的な教義とする一般のキリスト教会との調和を図るために、後にこの福音書を編集したさいに編集者(おそらくヨハネの手紙の著者)によって挿入されたものであるというのです。それで、この部分の翻訳にあたって、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」という言葉をすべて取り除いて訳す人があります。たとえば、八木誠一氏訳の「ヨハネによる福音書」(講談社版「聖書の世界」第5巻)はそうしています。このような態度はヨハネ福音書の成立過程についての学問的批判としては意味がありますが、もしそれが終わりの日の死者の復活を否定することの表明であるならば、そのように訳された福音書はもはや福音書でなくなります。死者の復活こそ福音の核心だからです。
 永遠の命と復活との関係をヨハネ福音書がどう見ているかについては、十一章のラザロの記事が重要です。イエスは死んで四日もたつラザロを生き返らせました。これはイエスがなされた「しるし」の最後の、そして最大のものです。もし、ヨハネが言う永遠の命が復活と関係のないものであれば、このような「しるし」を最後の重要な位置で語る必要はないはずです。この「しるし」が何を意味するのかは、二五節と二六節のイエスの言葉が明白に語っています。「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。これは、イエスが兄弟の死を嘆くマルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われたところ、マルタが「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えますが、このマルタの答えに対するイエスの言葉です。マルタは信心深いユダヤ人として、当時のユダヤ教の信仰を言い表しているのです。当時のユダヤ教はパリサイ派の教えが主流となっていましたから、彼らの教えに従って人々は神の律法を守るイスラエルの民は終わりの日の復活に与ることを信じていました。このように復活は信じるが、それを将来のこととして待ち望むだけのユダヤ教の信仰に対して、イエスは「わたしが復活である」と宣言されるのです。これはユダヤ教の復活信仰に対する福音の宣言です。この言葉によって、福音はユダヤ人に対して、「あなたがたが遠い将来に待ち望んでいる死者の復活は、いますでにこの方において到来している」と宣言しているのです。ヨハネ福音書において地上のイエスが語られる「わたし」は、復活者キリストと分かちがたく重なっています。ユダヤ人の目の前で語られる地上のイエスと、福音が告知する復活者キリストが重なって、この方こそユダヤ人が神の約束によって待ち望み、そしてすべての民が心のうめきの中で待望していた死者の復活そのものである、と宣言しているのです。これは、パウロが復活者キリストを終わりの日に復活する死者たちの初穂であるとしているのを、ぎりぎりまで煮つめた表現なのです。パウロは復活者キリストを指して、この方こそわたしたちの復活であると語ったのです。それをヨハネはこの一言にこめているのです。人類が死の問題の最終的な解決として待ち望んでいた復活が、いまイエス・キリストにおいて到来している、この方が復活そのものであるというのです。ですから、終わりの日の死者の復活を否定すれば、この「わたしが復活である」という言葉は中身を失ってしまいます。それは、わたしたちの復活とは関わりのない、ただ「わたしは復活した者である」というだけの意味になってしまいます。
 「わたしが復活である」は、直ちに「わたしが命である」となります。来るべき世で与えられる命ではなく、いまわたしたちの前にいますイエス・キリストが死を克服した永遠の命そのものなのです。このイエス・キリストを信じて結ばれる者は「死んでも生きる」のです。この死に定められた存在の中で、死を克服して復活したキリストの命を生きるのです。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。この地上でキリストとの交わりに生きる者は、復活してもはや死ぬことのないキリストの命を生きるので、その自分は死ぬことはないのです。こうして、「わたしが復活であり、命である」と一息に語られることによって、復活はたんなる将来の希望ではなく、現在すでに死を克服して生きることであることがさらに強調されます。しかし、この言葉を一般的な命題としてではなく、マルタの言葉に言い表されているユダヤ教の復活信仰に対して福音の復活信仰を提示しているという文脈において理解する時、すなわち終わりの日の死者の復活を前提にして理解する時はじめて、この言葉は、現在わたしたちが体験するキリストがその終末的復活そのものであり、わたしたちはキリストに結ばれて現在その復活の命を生きるのであるという力強い告白になるのです。
 こうして、ヨハネ福音書の現在の「永遠の命」は、終わりの日の復活を否定するものではなく、それを含み、それと一体であることが分かります。永遠の命を語るところで、終わりの日の復活が語られるのは当然のことになります。永遠の命とは復活に至る命であると言えます。ですから、ヨハネ福音書のイエスは、「信じる者は永遠の命を得ている」と語られると同時に、「わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われるのです。ここで、「わたしが復活させる」と言われていることが注目されます。普通は、神が死者を復活させると言われます。ところが、ヨハネ福音書ではキリストが死者を復活させる方として示されています。ラザロの場合も、イエスが「ラザロよ、出て来なさい」と命じて、生き返らせておられます。これも、キリストが死者を復活させる方であることのしるしとなっています。これは、キリストは御子として父なる神の裁きも命も一切を委ねられておられるというこの福音書の立場(五・一九〜三〇)の一つの表現であり、また、著者が命を与える復活者キリストの働きを深く体験しているところから出てくる表現だと考えられます。
 実に、イエスは復活されました。イエスを葬った墓は空になっていました。ラザロの墓を空にし、自分の墓を空にしたイエスの出来事を語るヨハネ福音書が、死者の復活を否定して、復活をただ信じる者の現在の内面の変化に限っていると、どうして言えましょうか。ヨハネ福音書においても、復活者キリストはわたしたちの復活の初穂なのです。
(天旅 一九九二年2号)