市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第10講

W 永遠の命への道 

第三講 栄光の地に向かって

            ―― 神の道の終局としての死人の復活(ヨハネ福音書 第十一章) ――

命の道への招き

 福音はわたしたちを「命の道」を歩むように招いています。福音とは何か、と言いますと、その中身・実質はキリストです。キリストがわたしたちを永遠の命の道へと招いておられるのです。キリストとは、ナザレのイエスとしてこの世に現れ、神のみこころによりわたしたちの罪を負って十字架の上に死に、復活して天に上げられ、いまも「命を与える霊」として働いておられる霊的実在者です。このキリストが福音の告知を通して招いておられるのです。
 霊なる復活者キリストはまず、出発点になる「門」を通ってその道に旅立つように招かれます。ニコデモとの対話の中で示されたように、復活者キリストを信じることにより、彼の十字架に合わせられて自己が死に、キリストから聖霊のパブテスマを受け、その御霊の中から生まれることによって新しい命に生きるようになるのです。
 霊なる復活者キリストはさらに、このように新しい命の道に旅立った者たちに、ご自身こそその命を養い生かす「命のパン」であることを示し、そのパンを食べて、永遠の命に至るように招かれます。この道は荒野を通る道です。すなわち地上にはこの命を生かし養う糧はありません。天から与えられる糧がなければ、生きていくことはできません。
 この道はどこに至る道でしょうか。その道を歩む者はどこに向かっているのでしょうか。イエスはそれを示すために、地上での働きの最後に最大の「しるし」を行われます。それがラザロになされたわざです。キリストはすでに、「命のパン」の啓示の中でしばしば、「わたしはその人々を終わりの日に復活させる」と語って、目的地を指し示しておられました。いま地上での最後の「しるし」をもって、その目的地の栄光を顕されます。すなわちラザロを墓の中から生き返らせて、この道の最終目的地が「死人の復活」であること、そして彼こそ死人を復活させる方であることを指し示されるのです。

死に至らない死

 イエスが神から来られたこと、「父とひとつである」ことを証しされたので、ユダヤ人たらはイエスを、神を冒涜する者として、石でうち殺そうとしました。イエスは彼らを逃れて、ヨルダン川の向こう側の地に渡り、しばらくそこに滞在されました。そこにおられる時、親しくしておられたベタニヤ村のラザロが病気であるとの知らせが届きました。このラザロは、イエスに香油を塗り、自分の髪の毛でその足をふいたマリヤの兄弟で、その姉妹マルタとともに、イエスはこの三人を愛しておられました。
 この知らせを聞かれた時、イエスは彼をすぐに癒しに行こうとはされませんでした。「この病気は死に至るものではない。それは神の栄光のため、また神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(四節)と言って、なお二日、ヨルダン川の向こう側の地に滞在されました。けれども、イエスはラザロがこの病気のために死ぬことを知っておられたのです。知っておられただけでなく、ラザロの死が確実になるまで、その地を動こうとはされませんでした。すると、「この病気は死に至るものではない」と言われたイエスの言葉は、実質的には、「この死は死に至るものではない」ということになります。
 これは不思議な言葉です。人間の理性も経験も理解することができない矛盾です。ところが、イエスの生きておられる世界では、「死に至らない死」というものがあるのです。イエスの目には二種類の死が見えているようです。ひとつは「死に至る死」、もうひとつは「死に至らない死」です。ひとりの人の現実の死を「死に至らない死」と受け取らせる力とは、いったいどのようなものでしょうか。
 イエスはベタニヤに向かって出発されるにあたって、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く」(一一節)と言っておられます。それに対して弟子たちは、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」と言っております。イエスはラザロが死んだことを言われたのですが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思ったわけです。そこで、イエスはあからさまに言われます。

 「ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである」。(ヨハネ福音書 一一章一四〜一五節)

 眠っている人は必ず目覚めます。イエスのもとでは、死は眠りです。やがて目覚めるまでのしばらくの休みの状態です。ヤイロの娘が死んだ時にも、イエスは「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言っておられます(マルコ福音書 五章三九節)。イエスの中に溢れる《ゾーエー》の命から見れば、死は最終的な事態ではなく、復活によって目覚めるまでのしばしの眠りの期間です。イエスがヤイロの娘やラザロを生き返らされたのは、そのことの「しるし」です。イエスの復活後、彼を信じた者たちは、キリストにあっては死は眠りであることを理解しました。彼らはいつも、死んだ人たちを「眠っている人」と呼んでいました(テサロニケ人への第一の手紙四・一三、五・一〇)。彼らはイエスの言葉からこのような表現法を学んだだけではありません。彼らがキリストを信じて受けた新しい命が、死を実際このように見させたのです。このように、キリストにあっては死は「死に至る死」ではなく、「復活に至る死」であることを、信じる者は知るにいたるのです。
 イエスはラザロが死んだ時そこに居られなかったことを、弟子たちのために喜ぶ、と言っておられます。それは弟子たちが「信じる」ようになるためである、というのです。弟子たちはすでに、イエスが多くの病人を癒し、力あるわざをなされるの見て、イエスが神から遣わされた聖者であることを信じ、告白しておりました。そのうえ何を信じることをイエスは望んでおられるのでしょうか。それは、神が死人を復活させる方であること、しかも復活してキリストとして立てられるこのイエスによって死人を復活させるということを信じることです。
 福音がいう「信仰」とは復活の信仰以下のものではありません。死人の復活の信仰に到達していない信仰は、まだ福音的信仰ではありません。わたしたちの信仰の先祖であるアブラハムも、神の約束を信じることによって義とされましたが、約束の子イサクを捧げよという命令に従うことにより、神は死者を生き返らせてくださる方であるという信仰に到達しました。これによってアブラハムの信仰は完成したのです。イエスは弟子たちが、神がイエスによって死人を復活させることを信じるようになるため、ラザロが死んでからみわざを行い、「しるし」とされたのです。
 イエスは自分を石でうち殺そうとした人たちの所へ、死を覚悟して行こうとされます。弟子たちも、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」といって、出発します。復活に至る命の道をイエスと共に歩もうとする者は、いつの時代でも、イエスと共に死ぬ覚悟が必要です。神の子イエスを憎み、彼を殺そうとするこの世の本質は、いつの時代も変わらないからです。

教条信仰と聖霊の現実

 イエスが到着された時、ラザロが墓に葬られてから四日もたっていました。村はずれまで出てきてイエスをお迎えしたマルタは、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」と言います。ラザロが死んだ今でも、という信仰は重要です。死という事実の前においても、イエスが神に願われることは神が為し遂げて下さるという信仰が、イエスがラザロを生き返らせて神の栄光を現されるこの場面を可能にします。
 この信仰に対し、イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われます。マルタは「終わりの日の復活の時、彼が復活することは存じております」と答えます。マルタは敬虔なユダヤ人のひとりとして、「終わりの日の復活」を信じておりました。サドカイ派の人たちのように復活を信じない人たちもありましたが、パリサイ派やエッセネ派のように民衆に影響力を持っていた人たちは、終わりの日に死者たちが復活して神の裁きの場に立つことを教えていました。マルタもこの信条を受けいれ信じていましたので、イエスが「ラザロは復活するのだ」と言われた時、それを終わりの日に死者たちが復活する一般的な復活を指すと理解したのです。
 信仰は一般化される時、命なき抽象物になってしまいます。教義とか教条というものは信仰内容を一般化して述べたものですから、ただある教義を受け入れて信奉しているというだけの信仰は、頭の中のひとつの観念であって、人を変革し生かす力とはなりえません。復活についても、終わりの日の死人一般の復活を教義として信奉しているだけでは、それは今の現実のわたしと何の具体的な関わりもない一個の抽象観念にすぎません。
 わたしたちの復活信仰とは、最終的には復活されたイエスのように霊のからだを持って生きるようになる、すなわち復活に至る質の命を今現実にこの身に宿して生きることです。この命によってこのわたしが復活するのです。このからだが焼かれて灰になろうが、神は今わたしが生きているこの命に霊のからだを与えてくださるのです。このような信仰は現実に霊なる復活者キリストとの交わりにあることからのみ来るのです。第二講で述べたとおりです。イエスはマルタに言われます。

 「わたしが復活であり、命である。わたし信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死ぬことはない」。(ヨハネ福音書 一一章二五〜二六節)

 イエスは決して終わりの日の復活を否定されているのではありません。イエスご自身しばしば、「わたしはその人々を終わりの日に復活させる」と言っておられます。ただマルタの中にある教条信仰の抽象性を乗り超えさせるために、こう言われるのです、「わたしが復活である。わたしが命である」。
 復活とは教義・教条の中にあるのではない。現にマルタの目の前にいる生ける人格イエス、われわれにとっては、今生きて働きたもう霊なる復活者キリスト、この方こそ復活である、命そのものである、というのです。第二講で見ましたように、信仰とはこのキリストを食べることなのです。「主さま!」の一言の祈りに自分の全存在をキリストに投げ入れ、ひとつに合わせられて生きることなのです。このような質の信仰においては、復活はもはや教義ではなく、自分の中にある命の現実となります。「死んでも生きる」ということが現実となります。この命の現実の中で霊なる復活者との交わりに生きる者は、その命が決して死ぬものでないことを知っています。
 マルタは「主よ、信じます」と言って、自分とラザロの死生をイエスに委ねきりました。そして、マリヤを呼んで、イエスと一緒にラザロの墓に行きました。マルタとマリヤ、そして一緒について来たユダヤ人たちが悲しみ泣くのを見て、イエスは激しく感動し、心を騒がせ、涙を流された、とありますが、これは彼らを愛されたイエスの人間的な心情を伝えるだけでなく、死の力に打ち勝つことができず、その支配の下にただ悲しみ泣く人間の無力と悲惨に対するイエスの激しい感情を示している、とわたしは思っています。
 イエスは墓にはいり、入り口を塞いでいた石を取り除かせ、目を天に向け、祈られました。

 「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞き入れて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしを遣わされたことを、信じさせるためであります」。(ヨハネ福音書 一一章四一〜四二節)

 こう言って、大声で「ラザロよ、出てきなきい!」と言われれました。すると、ラザロが手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、墓の中から出てきたのです! 考えられないことが起こったのです。死んで四日もたった死者が生き返ったのです。

復活のしるし

 死んで四日たつラザロは、イエスの声に応じて墓から出てきました。ラザロは生きかえりました。イエスがなされたわざの中で最大のものです。しかし、これは「復活」ではありません。信仰の中心的な内容である「復活」を正しく受け取るためにも、この区別ははっきりとしておかなければなりません。
 イエスは「復活」されました。そのからだはもはや死ぬことなく、朽ちることのない栄光のからだです。地上の時間と空間の制約を超え、天に上り神と共にいることができるからだです。地上の人間のからだや経験からは想像もできない別次元のからだです。使徒パウロはこれを「霊のからだ」と呼んでいます。死者がこのようなからだを与えられて生き始めることを、聖書は《アナスタシス》(復活)と呼んでいるのです。それは人類史上イエスの身に初めて起こりました。そしてイエス・キリストを信じる者たちに終わりの日に起こることなのです。
 それに対し、ラザロの場合は、この死ぬべき元のからだに生き返ったのです。ラザロの最後は聖書に記されていませんが、わたしたちと同じように死にました。このように、一度死んだ人が生き返ることは、人類は稀にですが経験していたことです。日本ではイザナギ・イザナミの神話、ギリシヤではオルフェウスの神話など、神話の世界にそういう体験の痕跡が残されています。また現代でも蘇生した人の体験が報告されています。昔の日本人はこのような体験を「よみがえり」と言いました。それは、いったん死者の国である黄泉(よみ)に下った魂が呼び戻されて地上の国に戻ってくることでした。このような意味で用いると、ラザロの場合は「よみがえり」であったわけです。
 日本語聖書は《アナスタシス》を「よみがえり」と訳していますが、この言葉の原意を考えますと、この訳語は避けたほうがよいと思います。イエスの身に起こったことは、人類が経験したことがないことですから、それを表現する言葉もないわけです。「復活」も決して十分な言葉ではありませんが、この語をもって十字架後のイエスの身に起こった出来事を指すことにします。
 そうすると、ラザロの場合は「復活」ではなく、「生きかえり」であったわけです。ラザロの「生きかえり」は、イエスがされた多くの病人の癒しと同一線上にあります。その線上にある最大のものです。そして、いったん死んだ人を生きかえらせるのですから、「死人の復活」を指し示すしるしとしては、これ以上のしるしはありません。イエスがラザロを生きかえらせたのは、終わりの日に人の子が死者を復活させることを指し示す「しるし」なのです。
 イエスは墓の前で、大声で、「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は墓から出てきました。これは、バウロが語っている終わりの日の出来事を予示する光景です。

 「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたち皆が眠りにつくのではない。むしろ、わたしたちは皆、姿が変えられるであろう。それは終わりのラッパが響くとき、またたく間に、一瞬にである。というのは、ラッパが響いて、死者たちは朽ちることのないものに復活し、(地上に残っている)わたしたちは姿が変えられるのである」。(コリント人への第一の手紙 一五章五一〜五二節)

神の究極の約束としての復活

 この言葉に続いてパウロはこう言っております、「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」。この「必ず〜することになる」という表現に注意してください。「復活」という人の思いをはるかに超えた未来のことについて、どうしてこんなに確信をもって「必ず」と言えるのでしょうか。
 「復活」はたしかに将来のことです。それが何時であるかは分かりません。それがどのような出来事であるのか、想像もできません。イエスの復活を伝える福音書の記事や、キリストの来臨を語る使徒たちの言葉から、そのイメージを描こうとしても、あまりにも人間の経験を超えたことですから、明確なイメージを得ることができません。わたしたちは見ていないことを望んでいるのです。それにも拘らず、「復活」は確かな将来です。それは、そうなればよいのに、という願望ではありません。それは確実な事実です。ただ時間の中で、まだ来ていないだけです。死ぬものは必ず死なないものを着ることになります。必ず新しい「霊のからだ」を与えられることになります。
 このような復活の希望の確かさには二つの根拠があります。一つは、キリストを信じる者が受け、それによって生きている聖霊がイエスを死人の中から復活させた霊であり、その聖霊によって与えられた命が復活に至る質の命であるという事実です。もう一つは、キリストを初穂として復活させ、それによってキリストに属する者を復活させると約束された、神の約束の確かさです。この二つが呼応して、復活の希望を碓かなものにしているのです。内なる聖霊の証言と、全聖書に記されている神の約束、このふたつは一致します。このふたつは一致して、神がその終局のみわざとして、キリストに属する者を死人の中から復活させて、栄光のみ国を完成されることを証ししています。このふたつの中の第一のもの、すなわち、キリストにあって与えられている命が復活に至る質の命であることについては、第二講と本講で語ってきました。それで最後に、このふたつの中の第二のものについて、すなわち神の究極の約束としての死人の復活について触れておきましょう。
 福音はイエスの復活から始まります。われらの信仰も復活されたイエス・キリストを信じるところから始まります。復活された方の十字架ですから贖罪の力があります。このようにわたしたちの信仰の出発点であるイエスの復活は、それだけの孤立した出来事ではなく、神が選ばれたイスラエルの民の歴史の中で約束し、永年にわたって準備してこられたことの実現なのです。神はイスラエルの歴史の中でなされた働きを通して、また預言者たちの予言を通して、終わりの日に地上に最終的な救いのわざを為し遂げると約束してこられましたが、イエスを復活させることによってその約束を実現されました(使徒行伝一三・三〇、三三)。ですから、イエスの十字架による贖罪と、イエスの身に為された死人からの復活は、神の最終的な救いのわざなのです。
 さて、神の最終的なみわざは死人を復活させて神の栄光にあずからせることであることが、イエスの復活によってあきらかに示されましたが、それはイエスだけに起こることでしょうか。そうではありません。神はイエスを信じる者を復活させることを約束しておられるのです。イエスの復活は、彼を信じるすべての者の初穂なのです。使徒パウロのコリント人への第一の手紙一五章全体が、このことを明確にしようとしています。イエスは復活して、キリストとして立てられ、「命を与える霊」となられたのです。この霊なる復活者キリストこそ、アダムが生まれながらの古い人類のかしら(代表者)であったように、復活にあずかる新しい世の人類のかしらになられたのです。このキリストに属する者を死人の中から復活させることが神の御計画なのです。
 このようにイエスの復活は、それまでの神のみわざと約束の成就であると同時に、キリストを信じる者の復活を約束する神の行為であります。神はイエスを復活させることによって、イスラエルに対する約束を成就すると同時に、全世界に彼を信じる者を復活させると約束しておられるのです。約束の成就がさらに大きい約束を形成することは、神の救済史の構造のひとつです。その点については、昨年の夏期特別集会で語りました「救済史の構造」(本書199頁の補講二)を参照していただきたいと思います。神が人類の救済のために為し遂げられたみわざの歴史、これが救済史です。聖書は創造から復活に至る救済史の証言です。今神はイエスを復活きせて、人類に対する究極の約束をなされたのです。この大いなる約束を無視しては人類に未来はありません。
 神が歴史の中で為された救済のためのみわざ、それが救済史です。それは神が人間の歴史の中に歩まれた足跡であり、道であります。神はイエス・キリストの十字架と復活とにおいて決定的な救いのわざを為し遂げられましたが、神の歩みはなお歴史の中に続いております。この神の道はどこに至るのでしょうか。その最終目的地はどこでしょうか。それは死人の復活です。復活した者たちの栄光の共同体の完成です。復活者キリストをかしらとするすべてのものの再統合です。それが約束の「栄光の地」です。
 神はいま福音によってすべての人をこの「栄光の地」に入るように招いておられます。福音を信じる者、すなわちイエス・キリストを信じる者には、聖霊が注がれ、上より新しい命が与えられ、「栄光の地」に向かって旅する力が与えられています。信じる者は今すでに永遠の命を持ち、「いのちの道」を歩んでいます。信じる者は「死んでも生きる」のです。この復活者キリストとの交わりにある命は「いつまでも死なない」のです。復活に至らない生は滅びです。復活に至って生は完成し、栄光に到達するのです。霊なる復活者キリストを食らって生きていきましょう。復活の希望が溢れるこの道を歩み抜きましょう。

(天旅 一九八六年3号)