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W 永遠の命への道 

第二講 命(いのち) の パ ン

            ―― 御霊のキリストとの合一(ヨハネ福音書 第六章) ――

ヨハネ福音書の性格

 今回はヨハネ福音書を取り上げて、永遠の命の道を主題として講じていますが、このヨハネ福音書は新約聖書の中で特別の位置を占めています。この福音書は新約聖書の主要文書の中では最後に成立したものです。そのことは、時期的に特別な位置であるだけでなく、その性格についても特別の位置を占めています。
 イエスの復活後、イエスを復活者キリストとして告知する福音は地中海世界に広く宜べ伝えられましたが、大雑把に言うと、その宣教に二つの流れがありました。一つは、使徒パウロの宣教に代表されるように、イエス・キリストの十字架と復活とに集中して、その事実の意味と、それを信受する者の救いの体験に重点を置く傾向です。ここではキリストはいつも復活された霊なるキリストです。このタイプの福音宣教では、地上のイエスの言葉や働きはほとんど語られません。新約聖書の大半を占めるバウロ書簡には、イエスのお言葉はほとんど引用されていません。もう一つの流れは、イエスを復活者として宜べ伝えることは同じですが、その福音の内容をあくまで地上のイエスが語られた言葉と為されたわざとによって語ろうとする傾向です。それは、共観福音書と呼ばれているマルコ、マタイ、ルカの三福音書がしていることです。これらの福音書の著者たちは、イエスの地上での言葉や働きの目撃者たち(ペテロを代表とする弟子たち)が伝え、信じる者たちの群れが語り伝えてきた伝承を、かなり忠実に用いて福音書を書いております。
 この二つの流れがお互いにどのように関わりながら、初期の福音宣教が進展したのか、これは興味深い問題ですが、ここでは立ち入ることはできません。ヨハネ福音書は新約聖書時代の最後に、この二つの流れを一つに統合するような性格のものとして成立したと見ることができます。
 「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じてイエスの名によって命を得るためである」(二〇・三一)という福音書著述の目的は他の福音書と同じです。そして、それをイエスの言葉と働きを語り伝えることによってしようとするのも同じです。しかし、ヨハネ福音書は共観福音書とは異なり、イエスの言葉を伝えるのに伝承を忠実に用いることに限定していません。むしろ、ヨハネとその群れが現在信仰によって聞いている霊なるキリストの言葉を、地上のイエスの言葉として書いている場合が多くあります。どこまでが伝承によって伝えられたイエスの言葉か、どこからがヨハネが信仰によって聞いている霊なるキリストの言葉であるのか、区別できないことがよくあります。しかし、この福音書の目的に従って読もうとするのであれば、無理にこの区別をする必要はありません。すべて復活された霊なるキリストが、いまわれわれに語りかけておられる言葉として受け取ればよいのです。この福音書では、地上のイエスの言葉の伝承と、主なるキリストの告白とが一つに溶け合っているのです。この面がこの福音書に独特の性格を与えているわけです。
 ヨハネ福音書は、序説ともいうべき第一章を別にすると、全体は明確に二つの部分に分かたれます。第一部は、イエスがされた力あるわざ(しるし)と、それに伴う啓示説話を集めたもの(二〜一二章)で、「しるしの書」と称することができます。第二部は、イエスの受難と復活を語る部分(一三〜二一章)で、「受難の書」ということができます。そして、第一部の「しるしの書」にこの福音書の独自性がよく出ています。共観福音書とは異なり、イエスの奇跡のわざの中から代表的なものだけを選び、その後にそのわざをめぐって弟子たちや批判者たちとの対話が続き、その対話を通してイエスが啓示の言葉を語られる、という構成になっています。しかもそのイエスの啓示の言葉は、地上のイエスの言葉に復活された霊なるキリストの言葉が溶け込んだような語り方です。このような形で、著者ヨハネは地上のイエスのわざと言葉を、霊なる復活者キリストの啓示として用いていくのです。
 今回の集会では、この「しるしの書」の初めと中程と最後にある三つの場面を取り上げて、主題である「永遠の命への道」を語ることになります。

わたしが命のパンである

 第六章の初めに、イエスが五つのパンと二匹の魚とで、男だけでも五千人という大勢の群衆に食物を与えられるという驚くべきわざが記されています。この事実は他の三つの福音書にもほば同じ内容で伝えられています。ところがヨハネ福音書では、このわざについてのユダヤ人との対話を通して、イエスは永遠の命に関する重大な真理を啓示されるのです。
 群衆はこの奇跡を見て、イエスに迫って王として立てようとします。イエスはそれを知って、群衆から逃れ、山へ退かれます。そして弟子たちとガリラヤ湖を渡って、向こう岸のカペナウムに行かれます。翌日、数そうの小舟にのって人々がイエスを捜しにきて、ついにイエスに出会います。その時、イエスは彼らにこう言われます。

 「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれを委ねられたのである」。(ヨハネ福音書 六章二六〜二七節)

 いつの時代にも、人が神に求めるものは自分の願望が満たされることです。バンを食べて満腹することです。神や信仰はそのための手段であり道具です。彼らはイエスが多くの人にパンを与えたのを見て、自分たちの欲求の充足を保障してくれる方として歓呼し、王としようとしたのです。イエスがされたことを「しるし」と見て、それが何を意味し、自分たちに神が何を求めておられるのかを知ろうとしているのではないのです。神が今この方を通して世に与えようとしておられるのは、結局は朽ちるほかないこの地上の命を養うための糧ではないのです。それは「永遠の命に至る朽ちない食物」なのです。イエスがされた奇跡はそのことを指し示す「しるし」なのです。神はその「しるし」を通して、人々が「永遠の命に至る朽ちない食物」を追い求めるように、そして、それをどこで得ることができるかを指し示しておられるのです。
 朽ちる食物を得るためにわたしたちは熱心に働きます。それは必要なことです。しかし、人間にとって、朽ちない食物のために熱心に働くことは、さらに必要なことです。では神からのものを得るのに必要な働きとは何か、彼らはイエスに尋ねます、「神のわざを行うためには、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。それに対しイエスはこう答えられます。

 「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。(ヨハネ福音書 六章二九節)

 彼らは多くのわざ(複数形)について尋ねます。それに対してイエスはただ一つのわざ(単数形)で答えられます。これはきわめて大胆で重要な宣言です。人間が神に受け入れられ、神からのものを受けるのに必要なものはただ一つ、信じることだけ、具体的には神がご自身を啓示するために世につかわされた方を信じることだけだ、というのです。わたしたちも信仰生活を続けていると、いつのまにか神のわざをするためにはこれもしなければ、あれもしなければならない、と多くの事に心を砕き、この根本原理を忘れてしまっています。なくてはならぬものは多くないのです。ただ一つです。信じること、これだけです。信じることは究極のわざです。自分の人生がどんなに失敗だらけであろうが、人からどんなに批判されようが、信じぬくのです。そのような生涯には、信実なる神のわざが一筋貫くようになるのです。
 そこで彼らはイエスに言いました、「わたしたちが見て、あなたが神からつかわされた方であることを信じるために、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。
 ユダヤ人たちはモーセこそ神を啓示するために神からつかわされた者であると信じ、モーセが荒野で民にマナを与えたことは天よりのしるしであるとしていました。そのモーセを超える啓示者であるというのであれば、どのような天からのしるしを行ってくれるのか、というわけです。彼らはすぐ前にイエスがされたしるしを見ているのです。けれども、かたくなで信じない心にはそれがしるしとして見えないのです。見れども見えずです。信じない者たちには、もはやしるしは与えられません。モーセを誇るユダヤ人には驚くべき答えが与えられます。イエスは彼らに言われました。

 「よくよく言っておく。天からのパンを与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンを与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。(ヨハネ福音書 六章三二〜三三節)

 モーセはマナを与えたが、それはまだ天からのパンではない。終わりの時に神が天から与えようとされている「まことのバン」の型(予型 )である。その本体である「まことのパン」は、わたしをつかわされた
方、すなわちわたしの父が与えるものなのである。この「まことのパン」こそ、天から下ってきて、この世にまことの命を与えるのである、とイエスは言っておられるのです。そして、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」というユダヤ人にイエスは明言されます。

 「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない」。(ヨハネ福音書 六章三五節)

 これはユダヤ人には驚くべき言葉、理解できない言葉です。イエスがこのように「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、彼らはつまずきました。彼らは「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。どうして彼は今、わたしは天から下ってきたと言うのか」と言って、イエスを拒みました。ユダヤ人でなくても、わたしたちも目の前にいるひとりの人間がこう言うのを聞けば、馬鹿げたこととして一笑に付すでしょう。

二種類の命

 ここで、最初に述べたヨハネ福音書の性格を思い起こしていただきたいのです。ここで「わたしが命のパンである」という言葉は、ナザレ人イエスがユダヤ人たちに言っておられるだけではないのです。霊なる復活者キリストが世界に向かって言っておられる言葉でもあるのです。むしろ、この「わたし」は本来霊なる復活者キリストを指す「わたし」なのです。復活して天に上げられた方であるからこそ、地上のイエスが天から下ってきた人の子であると言えるように、復活して今も生きたもう霊なるキリストが、信仰によって彼に結び付くすべての人にとって、命の源泉となってくださる方であるからこそ、地上のイエスが「わたしが命のパンである」と言うことができるのです。イエスを天から下り、天に上げられる人の子であると信じることができなかったユダヤ人たちが、イエスのこの言葉につまずいたのは当然です。わたしたちも、イエスが死人の中から復活され、今も生きたもう霊なるキリストであると信じなければ、「わたしが命のパンである」という言葉は全く無意味な言葉になります。イエスはさらにこう言われます。

 「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きる」。(ヨハネ福音書 六章四七〜五一節)

 イエスは「信じる者はいま現に永遠の命を持っている」と断言されます。そして「信じる」とは天から下ってきた命のパンであるイエス・キリストを食べることだとし、「永遠の命を持つ」ことを端的に「決して死ぬことはない」、「いつまでも生きる」と表現されます。
 イエスを信じる者も、信じない者と同じように死ぬではないか。どうして「決して死ぬことはない」とか「いつまでも生きる」とか言えようか、という反論があります。それは、霊から生まれる者が上より与えられている命は、生まれながらの命とは全然別のものであることを知らないからです。ヨハネ福音書はこの二種類の命を区別して語っております。人が生まれながらに持っており、やがて死んでいく地上の命は《プシュケー》と呼ばれ、霊から生まれる者が上より与えられる命は《ゾーエー》と呼ばれています。たとえば、有名な「一粒の麦」のたとえの後、イエスはこう言われます、「自分の《プシュケー》を愛する者はそれを失い、この世で自分の《プシュケー》を憎む者は、それを保って永遠の《ゾーエー》に至る」(一二・二五)。「永遠の」という語句がつく時も、つかないで単独で用いられる時も、霊から生まれる者が持つ命はいつも《ゾーエー》という語で表されています。
 《プシュケー》は信じる者も信じない者も同じように死にます。けれども、信じる者が持っ《ゾーエー》は別のものですから、《プシュケー》の死とかかわりなく生きています。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」というのはこのことです。《プシュケー》は死んでも《ゾーエー》は生きています。そして、この《ゾーエー》によって霊なる復活者キリストとの交わりにある者は、その《ゾーエー》はいつまでも死ぬことはありません。復活者キリストによって生きているからです。「生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死ぬことはない」というのはこのことです。
 それでは、ギリシャ人が信奉していた霊魂不滅説と同じではないか、彼らも肉体が死んでも霊魂は永遠に存在すると信じていたではないか、という批判に答えておきましょう。
 福音が啓示する永遠の命は、次の二点で霊魂不滅とは根本的に違います。第一点は、霊魂不滅説の霊魂は、人が生まれながらに持っているもの、自然なるものですが、それに対して、《ゾーエー》は生まれながらの人にはないもの、上より新たに与えられるものであるという点です。第二点は、霊魂不滅説では霊魂は肉体から離れて肉体の死後も存在するのですが、福音の光の下では、人間は霊魂と肉体は分けることができない一体であり、その全体が《プシュケー》に属する存在として滅ぶべきもの、死すべきものなのです。ですから、《ゾーエー》もからだを離れた命ではなく、からだを含む全体としての人間の存在様式です。しかし滅ぶべき《プシュケー》に属するからだの中では、その命の質を成就することはできません。それで創造者なる神が《ゾーエー》にふさわしいからだを創造して与えてくださる、それが復活です。ですから、《ゾーエー》は復活に至る質の命である、と言えます。
 ギリシヤ人だけでなく世界の民族のほとんどは、永遠の次元を求める時、霊魂不滅説によっております。このような世界に、ヨハネ福音書は永遠の命《ゾーエー》を告げ知らせようとします。それで、永遠の命を語る時には、同時に復活を語らないではおれないのです。イエスは繰り返し言われます。

 「わたしを遣わされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終わりの日に復活させることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終わりの日に復活させる」。
(ヨハネ福音書 六章三九〜四〇節)

 復活こそ永遠の命の具体化(体を具えた完成態)であります。復活に至らない命は結局滅びに至る命にすぎません。わたしたち信じる者は、現在すでにこのような質の命を上より賜り、それを内に宿し、それによって生きているのです。けれども、それを滅ぶべき《プシュケー》に属するからだの中に宿し、《プシュケー》に属する生まれながらの人間性(聖書はこれを肉と呼びます)との戦いの中でうめきながら、《ゾーエー》にふさわしいからだが与えられる日を待ち望んでいます。復活は第三講の主題ですから、詳細は次講に譲りますが、ここでは復活への望みこそ《ゾーエー》の基本的な標識(メルクマール)であることを申し上げておきます。

人の子の肉を食べる者

 パンは食べなければ、命を養う糧にはなりません。「わたしは天から下ってきた生きたパンである」と言われるイエスは、つづいて「それを食べる者は、いつまでも生きる」と語られます。そしてさらに、「わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」と言われます。地上のイエスの姿しか見えないユダヤ人たちはこの言葉につまずき、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」と言います。そこでイエスは彼らにこう言われます。

 「よくよく言っておく.人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたの内には命《ゾーエー》はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命がある。わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物であるからである」。(ヨハネ福音書 六章五三〜五五節)

 ここで「人の子の肉」、「人の子の血」と言われていることに注意してください。さきに見たように、「人の子」とは復活して天に上げられることによって、天から下ってきた者であることが確証されたイエスを指しています。その方の肉とか血というのは、その方が十字架の上で肉を裂き、血を流されたことを指しています。「人の子の肉を食べ、その血を飲む」とは、復活された霊なるキリストを信じ、その方に自己の全存在を投げ入れて委ねることにより、キリストの十字架の死を自分の死と受け止め、キリストの十字架の死に自分も合わせられて死ぬことです。それだけが永遠の命を受け、復活に至る道なのです。イエスはさらにこう言われます。

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」。(ヨハネ福音書 六章五六〜五七節)

 このようにキリストの十字架に合わせられてキリストと共に死ぬ者は、復活されたキリストの中に生きるようになるのです。もはや自分が生きているのではなく、復活されたキリストがわが内に生きておられるのです。キリストは神によって死人の中から復活して生きておられます。キリストにある者も、キリストによってこの復活の命を生きるのです。
 これは、パウロがガラテヤ人への手紙の中で、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのである」(二・一九〜二〇)と言っているのと同じ消息です。
 キリストを信じるとは、キリストを食べること以下ではありません。キリストを離れた所から眺めて、キリストに向かって自分から何かをしていくというようなものではありません。キリストに自分を明け渡し、「主よ!」の一言の祈りに自己の全存在を投げ入れ、キリストとひとつに合わせられて、一緒に生きていくことなのです。バンを食べると、バンは体内で消化され、わたしのからだの一部になります。そのように、キリストを食べ、キリストと合わせられて生きるのです。パンを食べ、葡萄洒を飲む聖餐式も、本来この意味でキリストを食べることを象徴する行為であるわけです。わたしの罪のために十字架され、復活された霊なるキリスト、この方こそ「まことの命のパン」です。このパンを食べる、すなわちこのキリストを信じ、一つに合わせられて生きる以外に、永遠の命を得ることはできません。霊なる復活者キリストとの合一、これこそ永遠の命の実質・中身であります。
 イエスのこのような言葉を聞いて、弟子たちすら多くの者が、「これはひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と言ってつぶやきました。そこでイエスは言われます。

 「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、また命である」。(ヨハネ福音書 六章六一〜六三節)

 弟子たちがつまずいたのは、彼らも地上のイエスしか見えていなかったからです。彼らもイエスが復活して天に上られるのを見て、その方の言葉として「わたしを食べる者は生きる」という言葉を聞けば、信じることができたかもしれません。このようなイエスの言葉を肉の言葉として聞く、すなわち地上のイエスだけを見て聞いている限り、なんの役にも立ちません。復活されたキリストこそ「命を与える霊」となられた方です。このキリストを信じ、キリストに合わせられることが、まことの命なのです。そして、イエスがこの福音書で語っておられる言葉は、このような霊の次元のことを語る言葉なのです。たとえば、イエスが語られる「わたし」は霊なる復活者キリストが語られる「わたし」なのです。イエスの言葉をそのような霊の次元の言葉として受け取る時、その言葉は命の言葉となるのです。
 この時以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしませんでした。そこでイエスは十二弟子に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われました。するとペテロが答えました、「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。
 よく若い時には熱心な信仰を持っていたのに、いつのまにか信仰から離れてしまう人があります。そのようにイエスから去っていく人は、霊のことが分からず、結局イエスを肉の次元でしか知っていなかったのでしょう。この時のペテロもまだ霊のことは十分理解していなかったかもしれません。しかし彼はイエスを信じて、最後までイエスについて行きました。そして遂に、復活されたイエスに会い、生かす霊となられたキリストを体験しました。最後までイエスに従って行く者は幸いです。その人は永遠の命の言葉を聴いて、永遠の命を得るに至ります。
(天旅 一九八六年2号)