市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第6講

V 福音書の福音 

第一講 あなたこそキリストです

            ―― 復活者イエスの告知 ――

はじめに

 御霊の力に溢れた初期の宣教活動の中から、「福音書」と呼ばれる稀有の文書が生み出されました。わたしたちに伝えられた四つの福音書はそれぞれ特色をもっていますが、十字架の死に至るイエスの生涯を描くことによって「キリストの福音」を語るという点で共通しています。今回は福音書が告げ知らせる「福音」に耳を傾けたいと願います。

福音書の成立

イエス伝承

 イエスが地上を去られた後、残された弟子たちが第一にしたことは、自分たちが聴いたイエスの言葉と、自分たちが見たイエスの力ある業(奇跡)を語り伝えることでした。イエスを通して癒しなどの神の恵みを受け、新しい生き方に入ったガリラヤの庶民たちは、共同の食事を核として仲間を形成し、周りの人たちに仲間になるように呼びかけて、イエスによって始まった運動を継承しました。そのような運動と交わりの中で、イエスの言葉と業を語り伝える「イエス伝承」が形成されます。
 イエスの力ある業が語り伝えられる中で、ただ不思議な業を見たという事実だけでなく、その業の意味を明らかにする宣言句を頂点とする物語が形成されます。たとえば、足なえの人が癒された出来事は、「あなたの罪は赦されている」というイエスの宣言を頂点とする物語になっています(マルコ二・一〜一二)。このような物語を集めた文書が後に成立した可能性もあります。ヨハネ福音書の著者はこのような「しるしの書」を資料として利用したと学者は推定しています。
 また、新しい生き方について語るイエスの短い言葉が語り伝えられ、イエスの「語録集」となりました。イエスの語録も後にまとめられて文書になり、「語録資料Q」とか「トマス福音書」を生み出しました。「トマス福音書」は今世紀半ばに発見されたナグ・ハマディ文書によってその存在と全容が明らかになりましが、それは、ややグノーシス的な傾向の解釈を含むイエスの語録集です。「語録資料Q」は、マタイとルカが資料として用いたと推定される共通のイエス語録集で、その成立と性格についてはなお論議があります。このような「語録集」では、イエスは知恵の教師として弟子に新しい生き方を教えるという性格が目立ちます。このような「語録集」ではイエスをキリストと告白することはなく、また、イエスの受難物語もありません。このような「語録集」では「福音」という用語や考え方は出てきません。
 イエスの宣教の特色として、イエスは「たとえ」を多く用いて教えられたので、イエスのたとえを集めた「たとえ集」が成立していたと見られます。さらに重要な伝承として、イエスの十字架の死に至る受難の物語が語り伝えられましたが、この物語はたんに実際の出来事を物語るのではなく、その出来事を聖書の成就として解釈して、その出来事の意義、とくに神による贖罪の出来事として語る「受難物語」伝承が形成されます。

キリスト伝承

 一方、復活されたイエスの顕現に接した弟子たちは、イエスを復活者キリストとして宣べ伝え始めました。使徒言行録によりますと、十字架につけられたイエスを復活者キリストとして宣べ伝える宣教活動はエルサレムから始まったとされています。ペトロを代表とするイエスの弟子たちは、聖霊によって復活されたイエスとの出会いを体験し、ユダヤ人に向かって「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させてメシア(キリスト)としてお立てになった」と宣べ伝え始めました。このようなユダヤ人にキリストを宣べ伝える宣教の言葉が、エルサレムやアンティオキアで定型化されて語り伝えられるようになります。その代表的な実例がパウロの手紙にあります。
 パウロはコリントの集会に向かって、「福音」をこのように要約しています。

 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。(コリントT一五・三〜五)

 この内容は、パウロも「受けて伝えた」と言っているように、メシア・キリスト(イエスではないことに注意)の身に起こった出来事とその意義を語り伝える伝承、すなわち「キリスト伝承」を形成していました(学者はこれを「ケリュグマ」と呼んでいます)。この伝承は、内容と用語から見て、ユダヤ人の間で形成されたものと見られます。ユダヤ人に約束されていたメシア(キリスト)たる方の死は、「わたしたちの罪のため」の死であったこと、また、その方が復活によってメシアとして上げられたのは証人によって確証されていること、さらにメシアの死と復活は聖書に預言されていたことの成就であることが、簡潔に語られています。ユダヤ人の間で形成されたキリスト伝承は、パウロが「ローマの信徒への手紙」(一・二〜四)に引用している箇所にも見られます。
 「福音」がユダヤ人以外の諸民族に伝えられるにいたって、メシア(ギリシャ語でキリスト)という称号の意味が理解されなくなり、代わりに《キュリオス》(主)という称号が用いられるようになります。イエスが復活して万物の支配者としての《キュリオス》として立てられたという告知が福音の要約となります(ローマ一〇・九、コリントT一二・三、フィリピ二・六〜一一)。イエス・キリスト(異邦人の間では一人の人物の名前)が《キュリオス》であると告知、告白する「主イエス・キリスト」が福音の標識になります。

四福音書の成立

 初期においては、イエス伝承を用いる宣教運動とキリスト伝承を用いる宣教運動は別の流れを形成したようです。たとえば、イエスの「語録集」を拠り所とする宣教運動(Qやトマス福音書を生みだした運動)では、イエスの受難の意義や復活によるキリスト宣言などは出てきません。一方、キリスト伝承に基づく宣教においては、パウロの場合に代表されるように、イエス伝承はほとんど用いられていません。もっとも、ペトロのようにイエスの直弟子であった使徒が、キリスト伝承をもって「福音」を宣教するときには、地上のイエスの働きが福音の基本的な構成要素となっていたことがうかがえます(使徒一〇・三四〜四三)。
 イエスの死から四十年近く経ったころ、すなわちエルサレム神殿がローマの軍勢によって破壊される七〇年前後の激動期に、最初の福音書であるマルコ福音書が書かれます。この福音書において初めて、キリスト伝承に基づいてキリストを告知するさいにイエス伝承を用いること、すなわちキリスト伝承とイエス伝承の融合が行われます。著者はたんに、イエス伝承を用いて地上のイエスの生涯を描こうとしているのではありません。イエスの伝記を書いているのではありません。イエス伝承を素材として「キリストの福音」を告知しようとしているのです。すなわち、地上のイエスの働きと生涯を物語ることによって、わたしたちの罪のために死に、復活してキリストとされた方を世界に告知しているのです。表題の「イエス・キリストの福音のはじめ」がその内容を表示しています。
 この福音書の著者が誰であるかは確実には分かりません。教会の伝承は「ペトロの通訳であるマルコ」が書いたとしています。そして、このマルコは使徒言行録に出てくるヨハネ・マルコのことであるとされています。そうすると、このマルコはペトロが代表するイエス伝承の担い手たちと親しく(エルサレムのマルコの家が弟子たちの集まる場所であったとされている)、また、助手としてパウロの伝道旅行に同伴して、パウロが宣べ伝える「キリストの福音」に理解が深い人物であったことになります。著者をマルコとする伝承は、イエス伝承とキリスト伝承の最初の合流であるこの福音書の性格をよく指し示しています。また、福音書の成立場所としては、イエス伝承とキリスト伝承が交差するアンティオキアを含むシリア地方が有力候補になります。
 おそらく同じシリア地方で八〇年代にマタイ福音書が成立します。この福音書は、「語録資料Q」を生みだしたユダヤ人の信仰運動の流れにある集団で、指導的なユダヤ人学者がユダヤ教会堂と対抗してイエス・キリストの福音を提示するために書いたものと見られます。著者はマルコ福音書をイエスの生涯を語る物語の枠組みとして受け入れ、「語録資料Q」を自分の観点からまとめて組み込んでこの福音書を書いたようです。著者はユダヤ人に福音を弁証するために、イエスを律法(聖書)の成就者として、また、ダビデの子として告知しています。
 ルカ福音書は、パウロが伝道した小アジア・ギリシャ地方で、八〇年代以降に(かなり遅く二世紀初頭と見る学者もあります)、異邦人のための福音書として成立しました。ルカもマタイと同じく、マルコ福音書を物語の枠組みとし、「語録資料Q」とルカ固有の資料を用いて、この福音書を構成しました。ルカが執筆した時代は、最初期に熱烈に待ち望まれていたキリストの来臨が実現せず、キリストの民は歴史の中を相当期間歩む覚悟をしなければならない状況にあり、著者はそのような民のモデルとして地上のイエスの歩みを描いたと見られます。
 以上のマルコ、マタイ、ルカの三福音書は、基本的には同じ枠組みでイエスの物語を語っているので「共観福音書」と呼ばれます。それに対して、ヨハネ福音書はかなり違った視点(かなり強い二元論的な視点)で、また違った独特の仕方で、イエスが神の子であることを示そうとしています。著者は、「しるしの書」など独自の資料を用いて構成されたイエスとの対話という形式で、キリストの福音を語ります。ヨハネ福音書がいつどこで成立したかは謎で、いまだに議論が続いていますが、おそらくパレスチナとシリアの境界あたりの地域のユダヤ人宗団で、会堂からの迫害が強くなった九〇年代に書かれたとする説が有力です。しかし、後に宗団(または指導的人物)がエフェソに移住して、そこで成立した可能性も否定できません。
 このように四つの福音書は異なった状況で成立しているので、それぞれ違った特徴をもっていますが、基本的な性格は同じです。すなわち、福音書は地上のイエスを語ることによって「キリストの福音」を世に告知する文書です。ですから、もしわたしたちが福音書を読んでも、そこに語られているイエスを復活者キリストと告白し、そのキリストがわたしの罪のために十字架につけられて死なれたことを受け入れ、このキリストに合わせられることによって自分が死に、約束の御霊を受けて新しい命に生きるようになるのでなければ、福音書は「福音」を告げる書とならないわけです。

復活者キリストとしてのイエス

復活者の登場

 福音書では、イエスの物語は本来ヨハネのバプテスマ運動から始まります(使徒言行録一〇章、マルコ福音書、ヨハネ福音書参照。マタイとルカが誕生物語で始めるのは特別な意図から)。イエスがガリラヤから出てきてヨハネからバプテスマを受け、ヨハネのバプテスマ運動に加わり、そこから出て独自の宣教活動を開始されたことは周知の事実であったからです。マタイとルカは、バプテスマのヨハネに関する伝承を保存した「語録資料Q」を用いて、「裁きが迫っている」という終末的なヨハネの宣教内容を伝えていますが、マルコ(一・二〜一一)は歴史的な詳細は省略して、ヨハネの宣教を、「わたしは水でバプテスマしたが、その方は聖霊でバプテスマされる」という、「後から来られる方」(キリスト)についての預言だけにまとめています。そして、イエスがバプテスマをお受けになった事実を、水の中から上がられると天が裂けて聖霊が鳩のように降り、「これはわたしの子」という上よりの宣言の言葉があったという象徴的な語り方で描きます。
 この語り方が象徴的だというのは、マルコは、イエスがバプテスマをお受けになったという歴史的事実を用いて、実は、聖霊の力により死から復活して神の子として立てられたキリスト(ローマ一・四)の出現を描いているからです。この記事(マルコ一・九〜一一)は、福音書の主役が舞台に登場する光景を描く記事になるわけですが、その主役は登場の時から、ナザレのイエスという地上の人間と、復活されたキリストが重なっているのです。福音書のイエスは初めから復活者キリストとして登場されるのですから、福音書記者マルコは人間としてのイエスの姿(家族、年齢、容姿、職業など)に関心を示しません。
 マルコがヨハネの宣教を「聖霊によってバプテスマする方」の予告だけにしているのも、ヨハネの後に来る方を復活者として紹介するためです。というのは、聖霊でバプテスマすることができるのは、復活して神の右に上げられた方だけですから。
 ヨハネ福音書(一章)も、バプテスマのヨハネの預言を、「世の罪を負う神の子羊」の預言と「聖霊でバプテスマする方」の預言だけにまとめています。そうすることでヨハネ福音書も、初めからイエスの贖罪の死と復活を告知しているのです。

復活者との出会い

 マルコによると、ガリラヤで宣教を開始されたイエスに最初に出会うのは、ガリラヤの漁師シモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネの四人です。四人はイエスの召しに応えて、直ちに網を捨て家を出て、イエスに従って巡回伝道に従事します。このマルコの記事(一・一六〜二〇)はあまりにも唐突な印象を与えます。四人はまだイエスの奇跡も見ていませんし、教えの言葉も聞いていません。しかし、他の福音書の記事を総合しますと、シモンたちはヨハネのバプテスマ運動の中でイエスと出会い、ガリラヤに戻ってから在宅のままイエスと交わりをもち、イエスの教えを聴き、力ある業を見て、イエスの宣教活動に協力していくようになった期間があったことがうかがわれます。この記事は、弟子たちがイエスの十字架刑の後、落胆してエルサレムからガリラヤへ帰り、再び漁師としての仕事に戻っていたときに、ガリラヤ湖畔に立つ復活者イエスと出会い、福音の宣教に立つようになった弟子たちの体験を描く記事として読むと、よく理解できます。ここでマルコはガリラヤ湖畔で復活者イエスに出会った弟子たちの体験を伝える伝承を用いて、地上のイエスの働きを物語っているのです。
 同じことがルカ福音書にも見られます。ルカ福音書五章(一〜一一節)にシモンとその仲間ヤコブ、ヨハネが、ガリラヤ湖で漁をしているときイエスに出会い、イエスに従っていく記事があります。ところが、これとほぼ同じ記事がヨハネ福音書二一章に復活者イエスが弟子たちに現れた出来事として伝えられています。おそらく、ガリラヤ湖での復活者の顕現を語る伝承があり、ヨハネはそれをそのまま福音書の附加部分で伝え、ルカはそれを地上のイエスのガリラヤ伝道の出来事として語り、マルコはさらに凝縮した形で用いたものと見られます。
 こうして、福音書は地上のイエスの働きを語りながら、そのイエスが復活して神の右に上げられた方としての権威を持つ方であることを告知しようとします。たしかに、イエスは地上におられたときすでに、神の霊の力によって悪霊を追い出し病気を癒されました。福音書はその出来事を語ることによって、復活された方の権威をそれに重ねて告知しているのです。その権威を最初に認めたのは霊界の住人である悪霊たちでした(マルコ一・二一〜二八)。福音書は、本来神に属す罪を赦す権威がイエスにあることを告知します(マルコ二・一〜一二)。異邦人の百卒長のように、その権威を認めることが信仰として賞賛されるのです(マタイ八・八〜九)。ところが、身近な弟子たちはイエスの権威を認めることができず、イエスがその権威によって嵐を静められると、ただ驚き怖じ惑うばかりです(マルコ四・三五〜四一)。そして最後に、福音書はイエスが死んだ人間を生き返らせたという「しるし」を語ることによって、イエスが死者を復活させる権威を持つ方であることを告知しているのです(マルコ五・三五〜四三、ヨハネ一一・一〜四四)。わたしたちは、福音書のイエスの物語において、復活者と出会っているのです。

復活者の顕現

 福音書は復活者を告知することを目的としながらも、人間としてのイエスの姿を語るという枠をきびしく守っている面があります。その抑制は、外典福音書と比べるとよく分かります。ところがその福音書にも、地上のイエスの限界を超えて、復活者の顕現伝承が直接用いられていると見ざるを得ない記事があります。それは食卓での顕現を語る「五千人に食べ物を与えるイエス」(マルコ六・三〇〜四四)、湖上での顕現を語る「水の上を歩くイエス」(マルコ六・四五〜五二)、山上での顕現を語る「イエスの変容」(九・二〜一三)の三つの記事です。
 イエスが人里離れた荒野で男ばかり(マルコ六・四四)の群衆と集まり、食事を共にされたことは、実際にあったことでしょう。この出来事は、ヨハネ福音書(六・一四〜一五)が言っているように、イエスを慕う群衆がイエスを王としてイスラエルの復興を図ったメシア運動であったと見られます。イエスがそれを拒否して、全然別の道を指し示されたので、多くの民は失望してイエスから離れ去り、イエスの宣教活動の転機となりました(ヨハネ六・六六)。
 福音書はこの荒野での食事の出来事を、復活者イエスが食卓の交わりの中に顕現された出来事に重ねて語ります。その重なりは、イエスがパンを裂いて渡されるときの様子が、最後の晩餐のときと同じ表現で語られていることからもうかがわれます(マルコ六・四一と一四・二二)。復活されたイエスが弟子たちと食事を共にされたという伝承(使徒一〇・四一、ルカ二四・三〇〜三一、四二〜四三、ヨハネ二一・一二〜一三)は、最後の晩餐の伝承と共に、初期のエクレシアが共同の食事を中心に集会を形成する原動力となりました。イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人たちに食物を与えられたという福音書の物語は、荒野での食事を素材として、復活者イエスが信じる者に御自身を命のパンとして分かち与える方であることを告知する物語になっているのです(ヨハネ福音書六章)。
 この荒野での食事の後、弟子たちがガリラヤで逆風に遭い、漕ぎ悩んでいるとき、イエスが水の上を歩いて来られたという記事が続きます(マルコ六・四五〜五二)。これも、イエスの死後ガリラヤの漁に戻っていた弟子たちが体験した復活者の顕現を、地上のイエスの働きを語る物語の中に置いたものと理解できます。この記事は、現れた方が初めは誰か分からなかったが、その方の語りかけでイエスだと分かったこと、そして顕現した方が神的な宣言をされるという、典型的な復活顕現物語の構造をもっています。この記事を復活者の顕現物語として受け取ると、イエスが水の上を歩いて来られたことも、復活という終末的な出来事の中に吸収されて、つまずきではなくなります。
 この物語でイエスは弟子たちに、「安心しなさい。わたしである。恐れることはない」と語りかけておられます(マルコ六・五〇)。この「わたしである」という言葉は、ギリシャ語原典では《エゴー・エイミ》で、これは(ギリシャ語訳旧約聖書で)神が現れるとき自分を名乗られるときの定まった形でした。これは、復活された方の中に神が御自身を現し、名乗られる言葉としてふさわしいものです。ところが、もしこの言葉を地上の人間が口にするならば、ユダヤ人の間では、それは自分を神とする者だとして、ただちに断罪されます(ヨハネ八・二四、二八、五八〜五九)。イエスは最高法院の裁判で、この宣言をされたので、神を冒?する者として死刑の宣告を受けたのです(マルコ一四・六二)。
 湖上で復活者の顕現に接して、弟子たちはただ恐れ、驚くだけであったと、マルコは弟子たちの無理解を強調しています(マルコ六・五〇〜五二)。これは、復活者の顕現を地上の出来事の形で語ろうとするマルコの工夫の一つです。それに対して、マタイはこの出来事をはっきりと復活者の顕現の物語として扱い、弟子たちはイエスを「拝んだ」と言っています(マタイ一四・三三)。この語は、復活後ガリラヤの山で弟子たちに現れたイエスに「ひれ伏した」というのと同じ用語です(マタイ二八・一七)。

あなたはキリストです

 こうして福音書は地上のイエスを物語りながら、復活者キリストを告知しているのです。そして、このイエスの物語はわたしたちに「あなたはわたしを何者と言うのか」と問いかけているのです。ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはキリストです」と言い表したとき(マルコ八・二九と並行箇所)、福音書の物語は一つの頂点に達したのです。
 ところで、このペトロの告白を「あなたはメシアです」と訳す翻訳が最近増えています(NRSV、新共同訳など)。わたしも『天旅』に連載した「マルコ福音書講解」ではそう訳しました。ギリシャ語原典では《クリストス》ですから、ここを「あなたはキリストです」と訳すのは自然なことです。しかし、この《クリストス》は「メシア」というヘブライ語のギリシャ語訳ですから、ペトロがイエスに告白した言葉に戻して訳せば、「あなたはメシアです」ということになります。
 「キリスト」という称号は、先にも述べましたように、新約聖書ではわたしたちの罪のために死に三日目に復活された救済者の称号ですから、イエスがまだ地上におられるときに、ペトロがイエスをこのような「キリスト」として理解し告白したことはありえないことです。たしかに、ペトロはイエスの中に神が働いておられることを見て、イエスを預言者以上の方、すなわちイスラエルに約束されていた油注がれた王であるメシアと信じて、そう告白したのでした。ところが、イエスはペトロの理解と告白を訂正するかのように、誰にも話さないようにと厳命した上で、「人の子は苦しみを受け、殺され、三日の後に復活する」という秘密を打ち明けられます。この「人の子」こそ福音が告知する「キリスト」に他なりません。ペトロたちが期待していた「メシア」と、福音が告知する「キリスト」は違うのです。この違いは、イエスが語り出された「人の子」、すなわち「キリスト」の啓示に対して、ペトロが「そんなことはあってはなりません」と反対し、イエスから「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しく叱責されることで明らかになります(マルコ八・二九〜三三)。
 ところで、マルコを資料として福音書を書いたマタイの並行箇所(マタイ一六・一五〜二三)を見ますと、ペトロの告白に対してイエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と誉め、「この岩の上にわたしのエクレシアを建てる」と言われた、となっています。ここでマタイは明らかにペトロの告白を福音が告知する「キリスト」告白として扱っているのですから、ペトロの告白は「あなたはキリストです」と訳されなければなりません。もし「メシア」という用語を、イエスが地上におられたときにペトロたちが期待していたイスラエルの解放者という意味に限定するならば、ここのペトロの告白を「あなたはメシアです」と訳すと、続くイエスの言葉と矛盾します。
 この翻訳上の困難は、地上のイエスの出来事を物語ることによって復活者キリストを告知しようとする、福音書の二重性から来ます。地上のイエスと弟子たちの物語として読む限りは、ペトロは「あなたはメシアです」と告白したことになります。しかし、福音書を復活者キリストを告知する文書として読み、ペトロの告白にわたしたちの復活者キリストへの告白を重ねるときは(マタイがしているように)、「あなたはキリストです」と言わなければなりません。
 わたしたちはイエスを復活者キリストと信じ告白します。福音書のイエスの物語の中に復活者キリストを認めます。しかし、「あなたはキリストです」という告白だけでは、イエスがペトロの告白を訂正し、その理解を叱責されたというマルコの物語(マタイもその物語を保存しています)は意味を持ちません。そのキリストが苦しみを受けて殺されるという秘義が含まれて初めて、「イエスは復活者キリストである」という告白は福音となるのです。福音書は、このペトロの告白を分水嶺として、後半はこの「苦しみを受ける人の子(キリスト)」の秘義を語る物語となります。
(天旅 一九九八年5号)