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U 聖書と人生

第二講 愛の場に生きる人生

「父が慈愛深い方であるように、あなたがたも慈愛深い者であれ」。

(ルカ福音書 六章三六節)

人間関係に対する神の求め

 聖書はひとつの有機体でありますから、どこをとってもそこに聖書全体の生命が溢れています。その意味で、たった一節の言葉がほんとうに大きな人生の力になりますが、それはあくまでも全体の中の一節だからそういう力があるのです。そうでなかったら、聖書の言葉は内容が全く相反するものがありまして、読む人によって自分の都合のよいように語る言葉として受け取ることもできるのです。やはり聖書が全体として語りかけているところを、わたしたちがまた人生全体をもって聴いていくという姿勢が大切です。
 聖書はじつに多方面の内容を含んでいまして、法律や祭儀の規定、文学作品や歴史の記録など色々なものがありますが、その全体を通して流れています神の語りかけの言葉は非常に単純なものなのだと思います。ややもすると学者は聖書の成立や字句の細かい詮索に明け暮れるあまり、全体として何を言っているのか分からなくなってしまっていることが多いのです。わたしたちは素直な心と全人生を貫いての聖書への取り組みを通して、この単純な聖書の語りかけの言葉を聴き取っていかなくてはならないと思います。
 今回は人生ということを焦点にしてお話を進めていますが、考えてみますと人生の中身の大部分は人間関係ではないかと思います。わたしたちが人生を生きていくうえで、幸せだと思ったり、辛いと思ったりする内容を考えますと、それはたいてい人間関係から生じています。人間関係というとき、いちばん広い意味で使っています。親子もまた一種の人間関係であり、夫婦も兄弟も同僚も友人もそうです。いろいろの意味の人と人との関わりを広く人間関係と言いますと、人生のほとんどの内容は人間関係であると言えると思います。だいたい人間というのは、ほかの人間と一緒に生きることによって初めて人間でありうるのです。人間が他の人との関わりにおいてのみ真実に人間である以上は、人間関係が人生の中身をなすというのも当然であります。ですからわたしたちをこのようにお造りになった神がわたしたちに語りかけられるときに、この人間関係についてどう語っておられるかが非常に重要な内容になります。
 神は全ての人間に語る前に一つの準備として、ご自分に属する民、イスラエルの民を選び、まずこの民に働きかけ語りかけてくださいました。その歴史を記録したものが旧約聖書であります。神はこのイスラエルの民と特別の関係を持たれました。それが契約関係です。具体的にはイスラエルと神との契約関係は、十戒と呼ばれる十の言葉に集約されています。この十戒は二枚の板に書き記されたと言い伝えられています。最初の板には神と人との関係、二枚目の板には人と人との関係に関する神の御旨が語られていると言われています。十戒の前半で、神はご自分と人間との関係について語り、人間が神を神として敬い、信頼することを求めておられます。その後半の人間の関係において神が求めておられるのは、人間関係における正義の実現であります。正しい隣人関係を築くように、他人を傷つける行いを戒めています。その典型的な行為が殺人です。それは他人の存在を根本的に否定する行為でありますが、そういうことはわたしの民であるあなたがたの間では無いはずだと言って、神はご自分の民の中での人間関係の在り方の基本を明らかにされました。  だから神が求めておられることは、人が神を神として敬うことと、もう一つは人と人との関係で神が求めておられる在り方を実現すること、この二つに尽きるのです。そしてこの二つは根元で深く結びついているのです。ですから、歴史の中でイスラエルの神への離反は、対人関係における神の戒めを破るという形で起こります。イスラエルの民の在り方を批判して神に立ち帰るように叫んだ預言者たちは、おもに人間関係において生じている神のみ心への違反を激しく批判したのです。もちろん第一には神との関係において、ヤハウェだけを神としないで偶像を拝むことが根本問題でありますから、それを厳しく批判しましたが、その結果生じる事態については、彼らは決して神への供え物が足りないとか、祭り方が足りないとか、そういうことを批判してはいません。むしろそういうことには熱心であるが、正義や憐れみという人間関係において大事なことを失っている民を激しく批判して、イスラエルの民に悔い改めを求めたのです。

父が慈愛深いように

 このイスラエルの歴史を完成する方として出現されたイエスは、神の求め給うことをお語りになるときに、イスラエルの長く複雑な歴史の中で啓示されてきた多様な神の言葉をこの観点から明確に要約しておられます。ある律法学者がイエスに向かって、「すべての戒めの中でいちばん大切なものはどれでしょうか」と尋ねたときに、イエスははっきりと、ためらうことなく「第一はこれである、心をつくし、思いをつくし、精神をつくし、力をつくして主なるあなたの神を愛せよ」と言われました。そして「第二もこれと同じである、自分自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われました(マルコ一二・二九〜三一)。イエスご自身が膨大な聖書の内容をまとめておられるのです。神が人間に求めておられることは何かというと、この二つにして一つの戒めであって、これより大いなる戒めはないと言っておられるのです。これはたくさんある戒めを段階的に分けて、その中で相対的な重要さがいちばん大きい戒めであるというのではなくて、この戒めが絶対であって、その他のものはみなこれにあずかる限りにおいてその重要性をもつという意味です。他の戒めはすべて相対化されているのです。
 しかし主イエスが弟子たちに求めておられるところを見てまいりますと、ここで止まっていません。確かに今引用しました言葉は旧約聖書全体の要約としてはまことに的確な要約でありますが、イエスはさらにそれを超えて、「昔の人にはこう言われていた。けれどもわたしは言う、あなたがたは敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい」と言っておられます(マタイ五章)。これはすでに第一講で申しましたように、主イエスご自身は聖霊によって父の生命を受けて生きておられる方でありますから、この父の生命がおのずから発するところに従って生きておられるのです。その上で、あなたがたも父の慈愛を受けて、そのように生きなさいと求めておられるのです。こういう消息をいちばん典型的に語る言葉として、イエスは「父が慈愛深い方であるように、あなたがたも慈愛深い者であれ」と言っておられます(ルカ六・三六)。父がわたしたちを愛してくださっている、そのような質の愛をもってあなたがたも愛しなさいと言っておられるのです。
 ところがこれは、それを聴く人間にとってほんとうに不可能なことを求めているように感じる言葉であります。確かに、敵を愛するというのは素晴らしい教えであり、麗しい言葉である。けれども人間の本性から見てそれはできない相談だとして、実際には棚上げしているというのが実状ではないかと思います。それはこの言葉の後半の部分、「あなたがたも慈愛深い者であれ」という要求の言葉だけを受け取って、その前半を受け損なっているからなのです。「父が慈愛深い方であるように」と主は言っておられますが、この父が慈愛深いという事実を事実として受け損なっているから、後半の「そのようにあなたがたも慈愛深い者でありなさい」という神の要求が受け取れないのです。
 神が人間関係について求めておられるのは、神ご自身が人間を慈しみ、愛されるような愛をもって人間が相互に愛し合うことなのです。これがじつは、聖書全体を要約されたイエスが、ご自分の中に来ておられる神の求め給うところを一言で表現されたものだと思います。先に申しましたように、なぜこの言葉が棚の上に祭り上げられて、人間の間に現実にならないのかと言いますと、イエスがこの世界に与えようとされていた「父が慈愛深い」という事実を受け損なっているから、「のように」という言葉が生きてこないのです。現実にわたしたちが父の慈愛を受けて初めて、その父の慈愛をもってお互いに慈愛深い者として交わりを造っていくことができるのです。そうして初めて、このイエスの言葉は現実のものとなっていきます。主イエスは、それまで聖書全体の中で語られてきた神の求めを要約されただけではなくて、じつはそれを実現する生命と力をもってきてくださったのです。そこが旧約の世界と全然違うところです。律法はモーセをとおしてきました。旧約は律法の世界です。神の求めは正確にわたしたちに伝えてくれました。しかし恵みとまこととはイエス・キリストを通してきたのです。神の求め給うところを実現するための力は、神が恩寵としてわたしたちに与えてくださるものでありますが、それはこのキリストを通してきたのです。

恩恵の場と律法の場

 イエスがこの地上でそのわざをなされましたときに、当時の人たちをいちばん驚かしたものは、いろいろな奇蹟的なわざではなく、律法の基準から言えば罪人とされている人たちをそのまま、「神はあなたがたを招いておられる、あなたがたは赦されている、神の国はあなたがたのものだ」と断言して、その人たちを受け入れ、ご自分の仲間として交わりを持たれたことです。これはほんとうに驚くべき行動でありました。じつはその中に神の慈愛がどのような質のものであるかがよく表されているのです。それは無条件の愛、相手に何の条件もつけないでありのまま受け入れる愛です。そういう質の愛、それは確かに今まで人間が知らなかった愛です。自分たちこそ神の前に正しく歩んでいるという自信のある人たちは、イエスが示された世界はあまりにも驚きであり、自分たちの価値や立場を否定する世界であったので、放っておくことはできなかったのです。
 ここで、使っている言葉について少し説明を加えておかなくてはなりません。「父が慈愛深いように」というところで、「慈愛」という言葉を使っています。罪人をそのまま受け入れておられるイエスのふるまいの中に、父の慈愛が示されていると申しました。しかし普通聖書の用語では、このように罪人を赦して受け入れてくださる神の働きは「恩寵」とか「恩恵」と言われています。では愛と恩恵はどのような関係になるのでしょうか。
 わたしたちはよく「愛」という言葉を使いますが、では愛とは何かと言われますと、愛とはこういうものだと明確な定義をもって答えることができないのです。わたしは愛とはひとつの生命の在り方だと思います。生命というものはなかなか定義できない不思議なものですから、生命のひとつの姿であります愛も定義や説明ができないのです。だから強いて愛を語ろうとしますならば、その愛という生命が働くときにどういう姿をとるかを語らざるをえないのです。例えば、パウロがアガペーと呼ばれる愛を語るときに、コリント人への第一の手紙十三章で「愛は慈悲深い、愛は寛容である、愛は非礼を行わない、愛は自分の利益を求めないで他人の利益を求める」と言っていますように、愛という生命が発露するときにどのような姿になるのかを語ることによってかろうじて、わたしたちが愛という名で呼んでいる生命の質を指し示すことができるのです。
 ですから主イエスが「父が慈愛深いように」と言われましても、では神の愛とはどんなものなのか、説明はしておられません。説明はしないで父の愛によって行動しておられます。イエスは律法の基準からすればどのようにできそこないの落第生であってもそのまま受け入れておられます。これが父の愛の働く姿なのです。このように愛が相手の価値にかかわらず無条件に相手を受け入れ、良いものを与えていく働きが恩寵とか恩恵と呼ばれるのです。だから恩恵というのは、神の愛という語りえない生命が、それを受ける資格のない者に向かって働き出すときの姿であると言えると思います。イエスはこのようにご自分の実際の働きを通して愛を示されました。そういう世界にイエスは生きておられました。イエスがもたれる人間関係はすべて愛の場における人間関係ということになります。
 それに対して決定的に対立するのは、当時の宗教家、律法学者たちが生きていた世界です。これを聖書は律法のもとにある人間、あるいは律法の世界と呼んでいます。どの社会にも宗教的戒律や道徳的規範、国の法律などのきまりがあります。それらは人間関係において、こういう関係をもちなさい、こうしなさい、こうしてはいけないと要求します。こういう規範のすべてが法であります。イスラエルの社会ではそのすべてが律法と呼ばれていました。律法は人間に対して外からその遵守を要求します。法は社会の秩序を維持するためになくてはならないものです。しかし律法の世界しか知らない場合は、その律法によって人間を判断して、その律法を守っている人間は善であり、破っている人間は悪ですから、当然そこに価値判断が生まれてきます。善なる者には善い報いを与え、悪に対しては悪の報いを与えることになります。ところが本性的に自己本位の人間は、自分は義であるとして、自分を基準にして相手を秤り、自分と違う分を悪として裁き、差別し、拒否するようになります。律法の下にある人間関係は裁きと差別の世界です。
 イエスの生きておられる世界は恩恵の場でありますから、裁きを超え、差別を克服しています。これは相手の善悪には無関係に自分に受け入れ、それによって自分の中にある良きものを相手に与えるという世界です。このような恩恵として神の愛が働きだすときに、それは「赦し」という具体的な姿を取ります。善に対して善を与え、悪に対して悪を与えるのだったら赦しはいらないのです。ところが悪に対して善をもって報いるとか、自分に敵対する者を受け入れるというときには、悪を赦し、敵を赦すという働きがなければできないことです。赦すということは必ずしも相手の過失を帳消しにするとか、悪を赦すということだけではないのです。人間は自分と違うということだけで相手を裁き拒絶するのです。そういう心もまさに赦す心の反対なのです。とにかく違いがあろうと、価値がなかろうと、利害が相反しようと、無条件に相手を受け入れ、自分の内にある良きものを与えていく、そういう人間関係の原則を平たく言えば「赦し」ということになります。
 こういうわけで恩寵の世界のキーワードは「赦し」です。聖書が「赦し」という言葉を使うときに、じつにそれは聖書が求めている人間関係を端的に表現しているのです。これは人間関係の一部ではなくて、われわれが求められている人間関係のすべてを語っています。内村先生もキリスト教のキリスト教たるゆえんは他人を赦すことができるということだと強調しておられるところがあります。人間にとって赦すことほど難しいことはないのです。律法の世界はやさしいのです。善には善をもって、悪には悪をもって対するということは人間の本性に適っていてやさしいのです。ところが赦すということはなかなか人間にはできないことなのです。おそらく人間は自分が赦されて初めて存在しうる者だという、徹底した神の赦しを体験するまでは、他人を赦すことはできないと思います。
 神が求めておられるところが愛であるということ、これは全宇宙を貫く法則でありまして、それはいささかも変わりはないのです。ただそれを受け取る人間の居場所が二つあるのです。恩寵の場と律法の場です。律法の場はあくまでも相対的で、相手が善ければこちらも善い、悪ければこちらも悪く対するという価値の原理で動いている世界です。そこは裁きと差別の世界ですから、神が求めておられる愛を実現することができないのです。それに対して恩恵の場は赦しの世界です。相手の価値とは無関係に、無条件に受け入れ善きものを与えていきますから、ここで初めて神が求められる愛が実現するのです。恩恵の場で父の慈愛を体験することによって、愛による人間関係が成り立つようになるのです。

十字架の赦しと聖霊の賜物

 恩恵の場に留まる必要をさらに詳細に語ったのが、マタイ福音書十八章にあります王と家臣の決算の譬です。王に膨大な借金があって返すことができない家来がいて、王が妻子を売り払ってでも返せと求めたとき返すことができなかったので、彼は赦してくださいと嘆願しました。王は憐れんでその家来を赦してやりました。ところがその家来は自分から僅かの金を借りている同僚を捕まえて、彼を訴えて牢に入れました。それを聞いた王はその家来を呼んで、「わたしが憐れんだように、あなたもまた自分に負債ある者を憐れむべきではなかったのか」と言って、彼を牢に入れました。他人を赦さない人間は、自分を恩恵の場から追い出しているのですから、その人は神から恩恵の場で扱っていただけないのです。自分の価値によって裁かれるという、裁きの場に自分を置くことになります。イエスはこの譬によって、わたしたちにあくまでも赦しの場、恩恵の場に止まるように求めておられるわけです。
 イエスによって神はわたしたちに赦しを与えてくださった。そのような恩恵の世界が主イエスによってこの世界にやって来たということは、人間関係に全く新しい場が開かれてきたということです。今までわたしたちが知らなかったような、人間が生きうる新しい場が与えられたということです。このような場はわたしたちが主イエスに直接に対面している限り、なかなか分かりません。こういう場が実現するためには、どうしても十字架が必要だったのです。わたしたちが現実に神の赦しの場に生きることができるためには、現実に神への背きという罪の根が取り除かれなければなりません。そのために神の贖いのわざが実現する必要がありました。キリストが十字架について死なれたときに、わたしたちの神への背きという根源的な罪が贖われたのでした。そのことが実現して初めて、わたしたちは神の前に自分の価値を何も主張することもできない者であることがはっきりと示され、その十字架の前でわたしたちは自我が打ち砕かれ、自分が死ぬのです。
 そのように十字架のもとで砕かれている魂に、神は聖霊を注いでくださいます。この聖霊こそじつは神の愛の注ぎなのです。聖霊は神の愛の生命です。神の生命の質をわたしたちは愛と呼んでいるわけですから、聖霊が注がれるときに神の愛の質がわたしたちに注がれるのです。それは時には身体にまで熱いものを感じたり、感激して涙にくれたりするような現象もありますが、しかしその熱さや涙が愛の証明や説明になるわけではありません。愛は生命でありますから、わたしたちに何か大きな変化をもたらしますが、その変化はなかなか口では説明できません。また、そういう自分の体験だけから、愛を語り尽くすことはできません。しかしとにかく、パウロがローマ書五章で言っていますように、「聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれたのである」ということは事実であります。
 このように神の求め給うところに達することのできない、律法を全うすることができない、自分ではどうしようもない罪人に過ぎないわたしに、神は十字架のゆえにわたしを赦して愛を注いでくださっている。これが神の恩恵の働きの、わたしへの実現なのです。何の値打ちもないわたしに、神は御霊を与えてくださっている。その根底には十字架の赦しと贖いがあるからなのですが、この贖いのゆえにわたしに聖霊を与えてくださっているという事実に、神がわたしを恩恵をもって取り扱ってくださっているということが実現しているわけです。この御霊によって神の愛を受けたときに初めて、主が言われた、「父が慈愛深いように」ということがわたしの内に事実になったのです。その御霊によって初めてわたしたちは、今まで知らなかった愛という場で人間関係を形成していくことができるようになってまいります。

聖霊の働きとしての愛

 このように恩恵によって賜った聖霊は、わたしたちの中にあっていろいろな働きをしてくださいます。その働きについてパウロは詳しく述べています。例えばコリント人への第一の手紙を読めば、御霊がどのような驚くべき働きをしてくださるのかということが詳しく述べられています。異言を語ったり、預言を与えたり、病気の人に手を置いてたら癒されるという奇蹟が起こったり、これはすべて神の御霊が働いてくださっているからであります。この神の御霊の働きの中でパウロが最後に、「この御霊の最高の働きを示そう」と言ってコリント人への第一の手紙十三章で神の愛の働きを語っているのです。神がわたしたちに御霊を与えてくださったのは何のためか。それはわたしたちがあの父の愛をもってお互いに愛し合うことができるようになるためであったのです。究極的にはそのことのために、神は聖霊を与えてくださったのです。この御霊の力によって初めてわたしたちも隣人を赦すことができます。この赦すという言葉は先にも申しましたように、人間関係の一部ではなくて、その全体を表す言葉として理解していただきたいのです。すなわち相手の価値に絶して、相手が自分にとって良い人であろうと敵であろうと、そういうことに関わりなく自分を投げ出していって相手のために尽すという、そういう関係が初めて成り立っていくのです。
 パウロはこういうことも言っています、「肉の弱さために律法がなしえなかったことを、神は成し遂げてくださった」(ローマ八・三)。人間は神から離れているために、神の生命の質からすっかり遠ざかり、自我を追求するだけの生き方になり、それが人間の本性になってしまっていて、とうてい神が求めておられるような愛の人間関係をつくることはできませんでした。律法がいくら「あなたがたは愛し合いなさい」と求めても、人間はそれを実現することができなかったのですが、それを神は成し遂げてくださったのです。どうやって成し遂げてくださったかと言うと、それはわたしたちに神の生命、聖霊を与えることによってであります。
 その聖霊を与えるために神は贖いを成し遂げてくださったのです。十字架のあのわざはわたしたち信ずる者が、あるがままで聖霊を受けることができるようになるためにこそ必要であったのです。パウロはガラテヤ書(三・一三〜一四)で「キリストはわれわれが受けるべき呪いを代わって受けてくださった。それは、キリストを信じる者が約束の聖霊を受けることができるようになるためである」と言っています。このように人間の本性が弱くなっているために律法が成しえなかったことを、神は聖霊によって成し遂げてくださったのです。
 ここで最後にもうひとつ。「神の御霊に導かれている者が神の子である」という主題を最初に掲げましたが、御霊によってわたしたちが赦すことができるような場所に生き始めるとき、神の子という姿がいちばん実際的に現れてくるのだと思います。先にも第一回目のお話で申しましたように、神の子についてはさまざまな誤解がつきまとい、道徳的な完全さとか、この世での立派さとか、そういうことがなんとなく物差しになっていますが、もし神の子を見分ける標識というものがあるとしたら、このように徹底的に赦すことができる人間かどうかということです。神の子であるならば御霊に導かれているわけです。この御霊は神の慈愛をわたしたちに注ぎ入れています。この慈愛によって初めて自分が人間として存在しているということを知っている人は、赦さないではおれないようになっています。これが神の子であるかどうかを識別する大きな印であると思います。

愛と自由

 聖霊によって神の子として生まれるときに初めて愛が具体的に生まれてくるのですが、同時に双子のように生まれてくるものがもう一つあります。それが自由です。神の子の自由です。神の子の人生を考えるうえで、この自由は本質的なものだと思います。それがなかったら神の子ではないのです。自由がなければ、子ではなく奴隷です。この場合の自由とは何かというと、それは律法から解放されていることです。パウロが奴隷というときには、律法に繋がれていることです。本来神と人間の命の交わりは、神の恩恵とそれを受けとる信仰によってのみ成り立つものです。ところが人間の自我を立てようとする本性から、宗教はいつのまにか恩恵の土台を抜きにして、その結果である人間の行為だけを要求として突きつけ、その要求(律法)を守ることで神との関係を造りあげようとするようになります。もともと人間を恩恵の中に守るはずの律法が、人間を拘束するものになります。人間の生命は律法という檻の中に閉じこめられているような形になってしまっています。生命というのは自由にのびのびと生きて自らを表現していくものなのですが、それができなくなってしまっています。そういう状態のところに、今申しました十字架の赦しが与えられ、神の恩恵によって御霊が注がれて、われわれは神の慈愛を知るようになったのです。そのとき初めて、わたしたちの内に神の求めておられるところ、すなわち、「わたしが愛したように、あなたがたも愛しなさい」が実現するのです。その時には、もはや外からの、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという規制は必要でなくなるのです。そういうものがなくても内にある神の生命によって自ずから、神が求め給うところを実現するようになるのです。そうしますと、わたしたちはもはや律法の拘束のもとにはいないことになります。わたしたちは自由なのです。神の子は自由なのです。神の子の自由がこの地上に実現して初めて、人間は本来の人間としての栄光を回復することができるのです。その自由が実現するまでは、人間は奴隷の状態です。神から造られたという意味では神の子であっても、後見人のもとで奴隷と同じ扱いをされるような状態でありました。それはガラテヤ書三章(二三〜二五節)でパウロが語っているとおりであります。
 人間の在り方には宗教、道徳、慣習、法律など、じつにさまざまな次元の規制があって、ほんとうに檻のようにわたしたちを拘束しています。それは多分に人間が作り出した規則というのが多いのですが、この規則や戒めに人間がどのように自縄自縛されているか、これも哲学的に分析すればずいぶん興味深いものがあろうかと思いますが、ここでは一つだけ例を挙げてみます。特にキリスト教関係に多いのですが、人間の在り方が神に背いているという命題から、何か人間の自然の在り方そのものが神に背いているという誤解を生んでいることがあります。わたしたちは人間としてこのような身体をもって造られている以上、食べたり寝たり性を営んだりという身体の自然の営みをします。ところがそういう自然の営み自体が神の求め給うところに反しているという誤解が生じますと、神の要求を充たすためには、できるだけそういうものを押し殺していかなくてはならないという考えが生じてきます。自然の欲求をできるだけ押し殺して生きることが神の要求に近づくことだということになってきますと、これはもう人間の在り方を豊かに充たしていくこととは逆の方向で、人間自体をだめにしてしまいます。
 わたしは今回改めて人生という問題を考えていて思ったのですが、この人生を生きている主人公はわたしたちの生まれながらの生命であります。この生まれながらに与えられ生きている生命を、いま「自然の生命」と呼んでおきます。この自然の生命と神の御霊によって与えられる新しい生命、この両者の関係をもう一度考え直してみていますが、それを体系的に説明できる段階ではありません。しかし、この事は言えると思います。この自然の生命そのものは決して悪ではありえないのでして、これも神から与えられている生命であり、神のよき創造物であります。神は全世界をお造りになって、その冠として人間をお造りになった。その意味では、人間の生命もこの世界の一部であります。神はこの全世界を創造されて、それをよしとされたのです。
 このよいとされているはずの生命が、なぜこのように悲惨であるのか。なぜこのように拘束され、押し潰され、あらぬ方向に走っていって自ら身に悲惨を招くのか。そして、すべての人が願いに反して滅んでしまわなければならないのか。生命はよきものでありながら、本性的な悪への傾向を宿していて、それ自体の中に解き難い矛盾を孕んでいるのです。そういう人間の自然の生命の在り方に対して、神の御霊は、それを押し殺すためではなくて、自然の生命を悪の支配から解放して、真実の良き姿に完成するためにわたしたちに与えられているのだと思います。その最終的な姿は復活であり、これについては第三講で詳しく述べますが、この自然の生命が本来の麗しさを発揮して、この地上で神から与えられている限度内ですが、その僅かの期間の中でその麗しさを完成するためにはどうしても自由が必要なのです。
 人間本性の中に巣くう悪を規制するために、社会には様々な規則が必要になるのですが、そのような外からの規則に拘束されて、自然の生命がその本来の姿で生きていけない、ここに人間性の根源的な悲劇があります。そこから具体的にさまざまの人生の悲劇が生まれてきます。今申しましたように、御霊がわたしたちに与えられて、神の生命が働き出すときに、それがどのように小さなものでありましょうとも、確かにここに自由があるということをわたしたちは体験します。「主の霊のあるところには、自由がある」のです(コリントU三・一七)。パウロはガラテヤ書で、あなたがたはキリストにあって律法から解き放たれている、再び奴隷のくびきに繋がれてはならない、そんなことをしたら何のためにキリストが死なれたのか意味がない、と切に説き勧めています。なぜかというと、自由がないとほんとうの愛はありえないからです。そして愛がないところには、人間の生命の完成ということはありえないのです。人間が本来神から与えられている祝福を、この地上の人生において味わうことはできないのです。
 自由の場において初めて人間の命はその充実と麗しさを完成できるものですが、この点に関してもう一つ、芸術のことに触れておきたいと思います。文学や詩、音楽や絵画などの良い作品に接しますと、わたしたちは魂の感動とか命の歓びや充実を感じます。立派な作品を生み出すためには、それぞれの分野での形式や技法に習熟するための厳しい修練が必要でしょう。けれども、ただ形式が美の基準に合っているだけでは、接する者の魂を感動させることはできないでしょう。作者の魂が、外からの規則から解放された自由の場で、存在の根源たる生命に共感共鳴して、その歓びの中から生み出された作品でなければ、それに接する者が命の充実や歓喜を味わうことができるものにはならないでしょう。わたしたちがそのような優れた作品によって命の歓びを与えられる時、わたしたちはそれによって自由の場に導き入れられているのです。わたしたちの人生を豊かにする芸術も、自由の場において成り立つものだと思います。
 このように御霊によって導かれ、御霊によって生きている神の子は、この世の人たちが知らない次元、すなわち隠れたところにいます神との関わりの中で生き、またこの神の無限の恩恵を身一杯に受けて、この世の人たちがうかがい知ることのできない人間関係、無条件の赦しの場、愛の場において生きているのです。御霊が与えてくださる自由の場で、命の歓びと充足を実現しているのです。人間は福音によって、そういう人生を生きるように招かれているのです。
(天旅 一九九〇年3〜4号)