市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第2講

T 神の信に生きる

第二講 神の言葉

語りかける神

神は、むかしは預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によってわたしたちに語られたのである。

(ヘブル人への手紙 一章一〜二節)


 聖書の神はわれわれに語りかけたもう神であります。この聖書の神以外の神は何らかの意味で偶像であります。すなわち人間の手が造った神であり、向こうからわたしたちに語りかけることはありません。むしろ人間が語る言葉を反射し、投影するだけであります。人間がこんなものが欲しいとか、こうなりたいとかいうことを投影するものにすぎません。ところが聖書の神は向こうから人間に語りかけてくださるかたであります。だからその内容はわたしたちにとって意外なことが多いのです。自分の願いを投影しているだけだったらそれはよく理解できますが、わたしたちの思いをはるかに越えたかたが語りかけられるのですから、それはわたしたちにとっていつも驚きであります。
 「昔は」というのはキリスト出現までの時代を指しています。御子キリストが出現し給うまでは、神は選ばれた民、イスラエル民族だけに語りかけ給うたのです。しかもそれはさまざまの方法で、いろいろな時にです。アブラハムの時に始まって、イエスの出現前まで神は語り続けられたのです。この語りかけの時、場合、方法はさまざまであります。旧約聖書の多彩な内容をみますと、神がイスラエルに語りかけ給うた方法がいかに多様であるかを示しています。律法という形で語りかけ、時には預言者の霊感に満ちた叫びの中に、時には詩人の歌を通して神が語りかけの働きをしておられます。
 聖書の神は語って行わざる神ではありません。語ったことは必ず行い給う神です。もし語っただけでそれを実現する行為がなければ、それは思想や観念に過ぎません。また逆に言葉がなくて行動だけがある神があるならば、それは非人格的な力に過ぎません。よく昔の人は火山が爆発したりすると、これこそ恐ろしい力をもった神の業だと拝んだりしました。いろいろな自然現象を神だとして拝みました。それらは現実に力はあります。しかしそこには人間に語りかける言葉はありません。語って行わざる神もまことの神ではなく人間の観念に過ぎないし、また言葉がなく行動だけがある力も神ではありません。この聖書の神は語りまた行う、言即行の神であります。
 聖書の出来事の背後にはいつも神の言葉があります。そのことをはっきりと認識することができるのも信仰の働きであります。たとえば天と地がこのように存在しています。その天地を人間は懸命に調べて、一体この天地、宇宙はどのようにして成り立っているのか考えました。太古は神話でこれを表現しました。現在これをできるだけ人間の知性で理解し、体系化し、表現したものが科学でありましょう。しかしこの天地万物の存在の背後に神の言葉があるんだ、神が光あれと言われたから光があり、神がかくあれと言われたから世界があるんだと、一切の存在の背後に神の言葉を聴く、これは信仰の働きであります。われわれは信仰によってこの世界が見えざる神の言葉によって成りたっていることを知るのです(ヘブル一一・三)。
 それから神が自分に背く人類を救うためになされたみわざもすべて言葉によってなされています。それはまずアブラハムという選ばれた一人の人に語りかける言葉から始まりました。「わたしは主である。わたしが示す地へ行け。わたしはあなたを祝福して大いなる国民とする」という約束の言葉をアブラハムに与えることから神の救いの業は始まったのです。アブラハムは自分の思いではとうてい起こりえないことを、ただそれが神の言葉であるから、それだけの理由で彼は自分の一族を連れて旅立ちました。また自分にありえるはずのない子孫を、ただ神の言葉であり、約束であるからというだけで信じぬいてその約束を受けました。すでに何度も学んできたように、イスラエルという特別の民の存在そのものが、アブラハムに語りかけられた神の言葉によって造り出されたものです。創造というのは何も自然界に対する働きだけではないのです。この人間の歴史をも神はその言葉によって造り出されるのです。イスラエル民族の存在はまさに神の言葉による創造であります。
 さらにまた神は、イスラエル民族がエジプトの地で奴隷状態にあったとき、モーセを遣わしてエジプトから解放されました。その途中で神はモーセを通して十の言葉を与え、その言によって「わたしはあなたがたの神である。あなたがたはわたしの民である」という契約を結ばれました。それはふつう十戒と呼ばれていますが、十の戒めではなくて、もとの用語は十の言葉です。この十の言葉によって「あなたがたがこれらの言葉を守る限り、わたしはあなたがたの神であり、あなたがたはわたしの特愛の民である」という契りを結ばれたのです。この言葉がなければ、イスラエルは主なる神の民として存立しえないのです。   

御子によって

 人格と人格の関係というものは言葉によって始まりますし、言葉によって成り立ちます。わたしはこの都会の雑踏の中でよく思うのですが、これだけたくさんの人が往来してすれちがっているのに何の関係もないのです。ところがわたしがそのうちの誰かに声をかけるとします。するとその言葉によって関わりが始まります。何らかの意味で、わたしたちは人生の途上で出会った人に語りかけます。その言葉によって人間同士の関わりが出てきます。
 神はご自分が語りかけることによって造り出された民イルラエルに、それぞれの時代に、さまざまな形で預言者を遣わして語りかけられました。しかしこの終わりの時には、神は御子によって世界のすべての人に語りかけられたのです。御子というのは聖書ではイエス・キリストを指す称号です。神はイエスを死人の中から復活させて、この方こそ神の子であるということを全世界に公示されました。ですから主イエスというかたの出来事全体が、終わりの時に神が人類に語りかけられる言葉なのです。
 ここでイエスがそのご生涯に何を語られ、何をなされたかということをひとつひとつとりあげることはできませんけれども、イエスが語られた言葉は、イエス御自身が言っておられるように「わたしが語っているのはわたし自ら語っているのではない。父がわたしの内にあって語っておられる」のです。勿論イエスというかたがわれわれと同じ地上の人間として出現し給うた以上は、その歴史的な制約の中におられます。アラム語で語り、当時の人々の考えの枠の中で語っておられます。そういう中でイエスが語りかけようとしておられる内容は、実に神がわれわれ全ての人間に語りかけようとしておられる内容だったのです。たとえば「丈夫な者には医者は要らない。要るのは病人なのだ」と語りかけられるとき、実は神が全く無条件の恩寵によって罪人を赦して御自分のもとに招いておられるのです。或いはイエスが力をもって病人を癒されたり、悪霊を追い出されるとき、実は父なる神がその業をなしておられるのです。
 しかし何といってもイエスの御生涯で一番大切な出来事、すなわち十字架上の死と復活の出来事こそ、神が語りかけられる最終的な内容なのです。十字架そのものが神の語りかけの言葉なのです。神との関係ということを外して十字架を見ると、それは単なる歴史上の出来事にすぎません。しかしこれは単なる歴史的な事件ではなくて、永遠の語りかけなのです。罪なき神の御子が十字架に死に給うたということは、じつはわれわれ全ての者の罪を彼が負っておられるのです。そのことによって神がわれわれを赦すと語っておられるのです。この十字架の出来事によって神は全世界をご自分と和解しておられるのです。
 さらに復活という出来事は人間の歴史的記録にはなりえないことかもしれません。信仰の証言だけが語りえることかも知れません。しかしこのイエスの復活を告げる言葉こそ、神が世界に語っておられる最終的な語りかけなのです。神は始めに言葉によって全世界を創造され、人間をも創造されました。そして終わりの時には新しい創造をすると語ってこられました。その新しい創造が始まったのです。その最初の業がイエスの復活であります。ちょうど光あれと言われて光が存在し始めたように、死人に「復活せよ」と主が言われたからイエスは復活されたのです。死人に向かって復活せよと言われる神の言葉は、初穂なるイエス・キリストによってすでに始まっているのです。同じように、イエス・キリストを信じる者を終わりの日に復活させると神は言っておられるのです。これは神の終わりの創造の御言葉なのです。 

御言葉を聴く

 神はイスラエルの歴史を通して語り続けられたのですが、それは最終の時に御子キリストを通して語るための準備であったのです。この神の語りかけの全体を証言するのが聖書であります。聖書はイエス御自身が言われたように「わたしについて証しするもの」であります。この「わたし」つまりキリストは、イスラエルの歴史の中で証しされ、備えられてきたわけですから、このイスラエルの歴史とイエス・キリストの出来事を証言する聖書全体が、じつは神が人類に語りかけられたその語りかけの記録です。人類はこのように創造者から語りかけを受けているのです。一体この語りかけに対してどう応えるか、これは人類の問題であります。しかしわたしたちは一人一人、今のっぴきならない個人として生きているわけですから、この自分が神の語りかけを聴くのでなければ、神が語りかけられることはわたしにとって全く無意味なことになります。ではわたしたちは一人一人個人としてどのように神の語りかけを聴くのでしょうか。
 ここに旧約聖書の中に象徴的な物語があります。サムエルという童がエリという祭司のところに預けられるのですが、サムエルは夜密かに自分の名を呼ぶ声を聞くのです。サムエルは子供ですからそれが何を意味するか解らないので、エリにそのことを告げます。エリはその呼びかけを聞いたら「僕(しもべ)は聴きます、主よお語り下さい」と言うように教えます。それでサムエルが再び呼び声を聞いたとき、教えられた通り言います。そのとき主がサムエルにエリの家の将来についての預言を与えられます。この物語はどういう場で人は神の語りかけを聴くのかということをよく示しています。即ち「僕(しもべ)聴く、主よ語り給え」という場所、全く自分を投げ出し、自分の存在を支配し給う方としてあなたが語って下さいという場所にいなければ、神の語りかけは聞こえないのです。たいていは自分が主人になっているのです。自分は自分の知恵で判断しますという位置に自分を置いて聖書に対する限り、神の語りかけは聞こえてきません。
 わたしたちは「僕(しもべ)は聴きますから、主よ語って下さい」というはっきりした姿勢なくして神の語りかけにでくわすことがあります。そういう時には、「主は語られた、アブラハムはひれ伏した」と創世記に記されているように、その言葉の権威、その言葉を発した方への畏怖の念から、わたしたちの心は打ち砕かれてひれ伏さないではおれないのです。神の語りかけの言葉はそういう性質のものです。それは決して横から見たり聞いたりすることはできません。その下にひれ伏して低い場所で聴かなくては聴くことができないのです。
 従順という日本語がありますが、それはギリシャ語で「ヒュパコエー」といい、パウロの書簡などによく使われます。《ヒュポ》(下)という語と、《アクオー》(聴く)という動詞から成り、下にあって聴くという意味で、それが従順であります。ひれ伏して聴く、それは信仰そのものであります。神のわれわれへの語りかけである福音の言葉に対して、心からあの「僕(しもべ)は聴きます、主よ語って下さい」という姿勢と祈りをもって聴く時、聴くことそれ自体が既に信仰なのです。そこに神の語りかけが具体化し、魂の奥底に及んで、その言葉が行われるということが実現するのです。
 「あながたが聖霊を受けたのは律法の行いをしたからか、それとも聞いて信じたからか」(ガラテヤ三・二)。ひれ伏して神の語りかけを聴くこと、これが即ち信仰であり、そこに聖霊が注がれます。わたしは神の声を聴いているんだという確信が生まれてきます。わたしは最近痛切に感じていることですが、人間として神の言葉を聴くことができるということほど有り難い、価値のあることは無いと思うのです。だからそのために本当に力を尽くして聖書を学んだり、集会に出席したりすることはわたしたちにとって本当に報い多い、嬉しい仕事なのです。逆に聖書を読んだり、集会に行ったりしても何も神の言葉を聴くことが無かったというのであれば、全く空しいことになります。聖書を学問的に研究しているだけでは神の言葉を聴くことはできません。

三つの御言葉

 わたしは最近三十年の自分の信仰生活をこの御言葉を聴くという観点から振り返ってみました。わたしが初めて信仰に入るきっかけになったのは、大学生の頃宣教師の集会に初めて行った時のことです。そこで創世記三章でアダムが禁じられた木の実を食べて神の前から身を隠し、神が「あなたはどこにいるのか」とアダムに語りかけられた御言葉を聞きました。その言葉がわたしの内に非常に印象深く響きました。わたしに向かって「あなたはどこにいるのか」と呼びかける方に対して、わたしは今どんな場所にいるのだろうと深く考えさせられました。それがわたしが聖書を学び、集会に出て福音を聴くきっかけになったのです。その後わたしもいろいろな形で神に導かれて今日まで信仰の歩みをしてきましたが、その中でわたしは三つの神の言葉を聴いたと思います。    
 最初に明確に聴いた神の言葉は十字架の言葉であります。宣教師の集会においても、キリストがわたしのために死んで下さった、キリストの十字架はわたしのためなんだということを深く心に刻みつけられていましたが、決定的にそれを聞いたのは、ある教団の夏の大きな集会でした。大勢の人と祈っていたときに自分の眼前に輝く大きな光が現れ、その光がはっきりと十字架の形をしているのです。しかもその十字架の光が「わたしはおまえのために死んだ」という語りかけをもって迫ってくるのです。それは日本語でもなく英語でもなく、もはや人の言葉を絶した意味そのものという感じで、十字架の形の光がわたしの魂に迫ってくるという体験をしました。       
 体験というのは人によってさまざまに異なりますから、こういう体験をしないと神の言葉を聞いたことにならないと言っているのでは決してありません。わたしの場合はそういう体験でしたが、それはずっと集会で聴いてきたこと、つまりイエスの十字架はまさに罪なき御子キリストがわたしの罪を負って死んでくださった死であるという福音の言葉が、わたしの個人的な魂への語りかけとして体験された出来事だったのです。 それ以後わたしはその十字架の言葉につかまれてしまって、それを無視した生き方ができなくなってしまったのです。十字架の言葉を聴くことは同時にわたしにとっては神の愛が迫り、神の愛につかまえられるという体験でもありました。わたしはおまえのために死んだというその言葉ほど、愛というものの質が力強くわたしの魂に迫ってきた体験はほかにないのです。パウロがローマ人への手紙五章五節で言っている「聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」というあの体験は、まさにこの十字架の言葉を聴いたときに聖霊によって与えられたのです。これが第一の言葉です。
 第二の言葉は、「わたしはおまえに聖霊を与える」という約束の言葉です。この聖霊に関する問題は、信仰に入って数年間わたしにとっては闘いでした。どうしたら聖霊の世界へ入っていけるんだろうと考えてもなかなか解らないのです。集会で宣教師が繰り返し教えてくれるのですが、なかなかそれが素直に聴けないのです。いくら努力して信仰生活をしようと思っても、どうしても聖霊の世界が自分の前に開けてこないという壁にぶつかり、苦しい思いをした期間がかなりありました。
 その壁を打ち破ってくれたのは、神は信実であって語った言葉を必ず成し遂げて下さるかたであるとわたしなりに納得できたからです。この福音を信ずれば聖霊の賜物を受けると神が約束して下さっている以上は、わたしがどんなにダメな人間でも必ず与えて下さるという確信が生じて、二十六歳のときの三月二十一日に聖霊のバプテスマと呼べる体験を与えられました。同時に直接生ける主からの語りかけを受けたのです。それによってわたしは自分が福音の伝道のために召されているということを知りました。聖霊を与えるという御言葉はわたしの体験として実現したわけです。そして、これは自分だけにではなく、すべての人に神が語りかけておられる神の言葉だということを知りました。それがその後福音を宣べ伝える活動の原点になったのです。もしこの言葉がなければ伝道なんかできないのです。自分の思想や宗教を人に教えたりするような立場でないことを自分でよく知っています。「ただキリストを信じなさい、そうすれば神は聖霊を与えてくださいます。神は信実であって、かならずこの約束を成し遂げて下さるのです」と語ることができるから、このような伝道の生活を続けていくことができるのです。
 第三の言葉、それは復活の言葉です。「わたしはあなたを復活させる」という言葉です。これは初めから聞いていることではないかと思われるかも知れませんが、教義として聞いているのと、人間の魂が直接自分への神の語りかけとして聴くということは違ったことです。よく引用されるのですが、内村先生もお嬢さんのルツ子さんを亡くされたときに復活の信仰をはっきりと持たれるようになったと言われています。わたしは特別そういう身近な者の死がきっかけになったというのではありませんが、特にここ数年は聖書の学びがすべて復活の約束に集中していくのです。それをまとめて告白したのが一九八五年の夏の集会で語り、また書いてお渡しした「救済史の構造」(本書199頁の補講二を参照)という文章です。そこで言おうとした事はただ一つ、わたしが聴いた言葉、「わたしは死人の中からあなたを復活させる」という神の言葉です。聖書全体がわたしにそう語っているのです。ということはイスラエルの歴史と御子イエス・キリストの出来事全体がわたしに向かって復活を約束しているのです。これはわたしにとって大変な出来事なのです。わたしはこの度色々な身辺の事情もあって、伝道に専心することを改めて決意しましたが、その一番根底にあるのは、この復活の言葉を聞いた以上、この言葉を伝えることに全精力と生涯を燃やさないではおれないという迫りだったのです。

存在によって語る

 このように自分の生涯を振り返って、そこで神の言葉を聴いたということを証言しようとすれば、どうしても自分の生涯を語るという形にならざるをえないのです。そう思ってみると、あのアブラハムの生涯の記事がよく解ります。アブラハムがその長い生涯に聴いた神の言葉は数多くあったと思いますが、書かれているのは多くありません。アブラハムは聴いた神の言葉に従って、自分の望みに反して生きていったのです。わたしもまたこの小さい生涯で神の言葉を聴きました。ですからわたしの生涯の意義というのは、聴いた言葉に従って生き、その言葉を自分の存在を通して世界に語っていくということ以外に無いのです。

 「夢をみた預言者は夢を語るがよい。しかしわたしの言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない」(エレミヤ二三・二八)。

 この頃夢という言葉はとても人気のある言葉だそうですが、夢を見た人が自分の夢を語るのは自由です。しかし神の言葉を聴いた者は誠実に神の言葉を語らなくてはならないのです。誠実に、まさに自分の全存在をかけて語っていかなくてはならない重さをもった言葉なのです。また、もし本当に神からの語りかけを聴いたならば、その言葉を生きることによって、その言葉を世界に語っていくということをしないではいられないような質のものです。勿論人間ですから様々な限界があります。しかし人間として欠点だらけの生涯の中に、確かにあの人はこういう言葉を聴いたのだな、という事が解るような生きざまというものが出てくるはずです。
 神は語りかける方であるということ、人類の歴史の中ではイスラエルの歴史と御子キリストの出来事を通して決定的に語っておられるということ、そしてそれを一人一人が砕かれた心という場で聴くことができるということ、聴いた言葉は人間として一番大切な光であり生命であるという事を述べてきました。その尊さ、人間にとっての価値は確かに一切の金銀財宝に優ります。これを得たという事は何よりも無上の幸福であります。しかし聴いた言葉はこの生涯を通して世界に語っていかなくてはならないという使命も与えます。神の言葉は必ず成就します。わたしたちは既にそれを体験しました。また約束として残されている言葉も同じように確実に成就します。神の言葉の確かさ、それが人間の生きる根拠であります。
(天旅 一九八八年1号)