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93 マルコ福音書の位置

マルコ福音書の成立事情

 最後に、福音の歴史的展開の初期におけるマルコ福音書の位置と意義について、ごく簡単に触れておく。
 マルコ福音書の成立事情については分からないことが多く、著者や成立地を確定することはできない。その学問的な議論の詳細に立ち入ることは、この講解の性格上、できない。著者については、初期の教団の伝統がこの福音書を「ペトロの通訳であったマルコが記憶していたことをすべて正確に書き下した」ものであるとしていること(パピアス)、および、このマルコが使徒言行録に出てくる「マルコと呼ばれているヨハネ」であることを一応受け入れて、著者を「マルコ」と呼んで講解を進めてきた。このことは学問的に立証できることではないが、マルコ福音書の内容と性格をよく示している。「マルコ」が「ペトロの通訳」であるということは、ペトロを代表とする直弟子たちが伝えたイエスの働きや言葉の伝承を受け継ぐ立場にいるということを意味している。そして、使徒言行録とパウロ書簡に出てくるヨハネ・マルコはパウロの宣教活動の協力者として、パウロの福音を身につけている人物であることを保証する。著者がこのような立場の人物であることは、この福音書の内容そのものが示している。すなわち、初めて「イエス伝承」を素材にして「十字架につけられた復活者キリストの福音」を書いたという事実そのものが、このような著者の立場を指し示しているといえる。
 最近は、著者個人を特定することよりも、この福音書がどの地域のどのような性格の福音宣教活動から生まれたものであるかという問題が関心を引いている。この福音書はマルコがローマで異邦人に福音を示すために書いたという伝統的な説も、福音書内部のラテン語法などを証拠としてあげることができる。しかし最近は、むしろペトロの権威のもとに流布していた伝承を集成して成立した福音書として、パレスチナ・シリア地域を成立地とする説(ケスター)も有力である。あるいは、この福音書のガリラヤ重視の姿勢から、さらに狭く限定してガリラヤでの成立を考える立場もある。あるいはまた、ペトロ伝承が確立していると同時に、パウロの福音理解が深く浸透しているアンティオキアがその成立地である可能性も考えられる。たしかに、この福音書が「イエス伝承」を素材としている事実、また伝統的にペトロの権威に関連づけられていることから、ペトロ伝承が十分確立していたと見られるパレスチナ・シリア地域を成立地と見るほうが自然であろう。ローマ成立説の根拠にされるラテン語法も、ローマ守備隊が駐屯し、ローマ法が施行されている地域ではどこでも起こりえたことである。
 この福音書の成立年代については、七十年のエルサレム陥落にいたるユダヤ戦争破局の時期であるとする説が、一般に認められている。このエルサレム陥落という歴史的事件をマルコ福音書成立と直接結びつける説もある。すなわち、エルサレム陥落直前、原始教団はエルサレムを脱出し、ガリラヤに移り、そこで「人の子」の来臨を待った。一四章二八節と一六章七節の「ガリラヤでお会いすることになる」という予告は、パルーシア(来臨)の予告であり、一三章は前兆としてのこの大患難の時代に「人の子」イエスの顕現を待ち望む教団の信仰の表現であるとするのである(マルクスセン、ペリン)。もしマルコ福音書の実際の成立事情がこのようなものであったとしても、それは、地上のイエスの姿を語るイエス伝承を用いて復活者キリストの福音を告知するという、この福音書の基本的な性格と矛盾するものではない。

マルコ福音書成立の意義

 著者、成立地、年代という成立事情がどのようなものであれ、この福音書がイエス伝承を用いて復活者キリストの福音を語る最初の文書として成立したことは、初期の福音の歴史的展開にとって最大級の重要性をもつ出来事である。マルコ福音書が成立するまでは、「イエス伝承」と「福音(ケリュグマ)」はそれぞれ別の役割を担っていたようである。すなわち、外の人々にキリストの福音を宣べ伝えるときには、イエスの十字架と復活の事実が告知され(ケリュグマ)、イエスを主《キュリオス》と告白することが求められ、信じる者への罪の赦しや聖霊の約束が宣べ伝えられ、それに対する聖書証明が加えられた。その内容は簡潔な形にまとめられて、「福音」としてパウロの書簡にしばしば引用されている。たとえば、コリントの信徒への手紙T一五章三〜五節などは代表的な箇所である。パウロ書簡は五〇年代のヘレニズム世界における福音宣教の実態を伝える代表的な証言であるが、そこでは福音宣教にあたって「イエス伝承」が用いられた形跡はほとんどない。
 それに対して、「イエス伝承」は信仰に入った信徒を教えるために用いられたようである。イエスを復活者キリストと信じる者たちの共同体で、地上のイエスの働きと教えの言葉は、信仰の励ましと導きのための権威ある教えの言葉として、ペトロに代表される直接イエスに師事した弟子たちから語り伝えられ、大切に保存されてきた。そのような伝承がまず地元のパレスチナ・シリア地方で定着したことは十分推察できる。しかし、ペトロがローマまで来て活動したことが象徴しているように、当時のヘレニズム世界の状況からすると、この伝承は急速にパレスチナ以外の各地の共同体に広がっていったと考えられる。
 このイエス伝承とケリュグマ伝承という、二つの異なった流れの伝承が、マルコ福音書において初めて一つに統合されたのである。それは、イエスがキリストであるという根本的な信仰告白から必然的に帰結せざるをえない統合である。いまや時が熟して、マルコ福音書という形でそれが実現した。このように「時が熟す」までには、約四十年、一世代以上の年月を要したことになる。これ以後福音を語ることは、このマルコ福音書と同じように、地上のイエスの働きと言葉を用いて復活者キリストの現実を告知するという形をとることになる。
 マルコ以外の三つの福音書はみな八十年代以降の成立であって、マルコ福音書よりも後であることは確実であるとされている。とくにマタイ福音書とルカ福音書は、マルコ福音書を土台として用い、それにイエスのお言葉を集めた「語録資料」からの素材を加えて成立したとされている。ヨハネ福音書は別の伝承を用い、独自の神学的傾向をもっているが、やはり地上のイエスの姿を描くことによってキリストを提示するという性格は、マルコ福音書と同じである。それぞれの福音書は異なった状況で、それぞれ異なる関心と傾向をもって書かれているが、マルコ福音書以後では、「福音」を語ることはこれ以外の形ではありえなくなったといえる。
 こうして成立した四福音書が新約聖書の主要内容を形成し、その後のキリスト教の歴史的発展に決定的な影響を及ぼすことになる。マルコがその書の冒頭で宣言しているように、地上のイエスの働きと言葉こそ、まさに復活者キリストの福音の「アルケー(始源、根源)」である。

福音書への神学的アプローチ

 ところで、このように地上のイエスの働きとお言葉で復活者キリストの福音を伝えるという「福音書」の形は、問題点をもはらんでいる。それは、地上の人であるイエスの歴史的状況を切り捨てて、イエスの言葉を無時間的な教理にしてしまう危険である。キリスト教会は千数百年にわたって、当然のようにそうしてきた。近代になって初めてその問題点が自覚され、「福音書」の背後にある歴史的イエスの実像を回復しようとする努力がなされるようになった。いわゆる「史的イエス」の問題が取り上げられるようになったわけである。しかし、「福音書」はあくまでキリストの福音を告知するための文書であって、歴史的関心をもって書かれた伝記ではないのであるから、それから「史的イエス」を回復することはきわめて困難である。この「史的イエス」探求の試みは、一度は破産宣告を下された(A・シュヴァイツァー)にもかかわらず、なおも営々と続けられている。それはもはや、仮説の中にしかない「史的イエス」を信仰の拠り所にするためではなく、福音書の内容素材であるイエス伝承の歴史的状況を明らかにすることによって、歴史的産物を無時間的な教理とする過ちから逃れ、福音の本質をすこしでも純粋に把握するためである。
 わたしは、神学とは力学の一種であると考えている。パウロも言っているように、「神の国は言葉ではなく力にある」(コリントT四・二〇)。神学は文献学ではなく、神の国の現実を構成する力を扱う学である。また、「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」である(ロマ一・一六)。力学は物理的世界を構成するもろもろの力の法則を究めようとする。神学はキリストという場に働く神の力の諸相を究め、その法則を明らかにして、人間の救済に役立てようとする。
 「福音書」という文書の成立にも、さまざまの方向の力が働いている。福音書の二重構造を形成するのは、一つだけの力ではない。「十字架につけられた復活者キリスト」を宣べ伝えようとする力もあれば、「史的イエス」に向かう力もある。このようなさまざまな力の方向と質、またその意義を認識して、現在自分が置かれている「キリストにある」という場で、そこに働く神の力に正しく導かれるための指針とすること、これが福音書に対する「神学的」アプローチではなかろうか。
 そして、神の力というのは聖霊の働きであるから、神の力の認識とか、その法則の理解とかは、自分自身が聖霊が働く場にいなければできないことである。イエスをイエスならしめている力、弟子たちを復活者キリストの証人とする力、キリストの体である信徒の共同体を形成する力、聖書の諸文書を生み出す力、わたしをキリストにあって生かす力、それらはすべて、同じ聖霊の働きである。それゆえ、福音書の神学的理解は、聖霊の働きの中ではじめて可能になると言える。キリストに生きる者にとって、このような意味での福音書の神学的理解は、聖霊の導きを祈り求めながら、生涯をかけて取り組まなければならない課題である。