市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第33講

92 マルコ福音書の二重構造

福音書の二重の性格

 前項「復活者の顕現」で見たように、エルサレムでイエスの逮捕と処刑に直面した弟子たちは、ガリラヤに戻り、そこで復活されたイエスにお会いすることになる。ペトロを初めとする弟子たちが復活されたイエスにお会いした体験は、弟子たち自身によって語られ、それが信じる者たちの群れの中で語り伝えられ、聖なる伝承を形成する。
 この伝承を用いるにあたって、マルコは、顕現の出来事を空の墓に続く一連の物語とはせず、初めからイエスの地上の働きの時期の中に織り込んでしまう。そうすることによって、マルコが語るイエスの物語は、地上のナザレ人イエスの働きを語ると同時に、復活者キリストを宣べ伝えるという二重の性格をもつことになる。
 この二重性はたんに、イエスの地上の働きの物語と、それとは別の復活されたイエスの顕現の物語が混在しているという性質のものではない。地上のイエスの姿に復活のイエスの姿が重なっているのである。マルコは、地上のイエスの出来事を語ることによって復活者キリストの姿を語ろうとするのである。
 前項「復活者の顕現」において、その代表的な場合を数カ所あげたが、もう一度確認しておこう。マルコはイエスが死者の中から復活された出来事を直接描写しようとはしない。もともとそんなことは誰にもできない性質の出来事である。マルコは、イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受け、水の中から上がってこられる姿に、死者の中から復活されるイエスの姿を重ねることで、イエスの復活を語る。
 ペトロたちがガリラヤ湖畔で復活のイエスに出会い、宣教への召しを受けた出来事も、彼らが地上のイエスに招かれて弟子として従うようになった体験(それは時間的な経過を省略し凝縮した形で語られている)に重ねて、日常的な漁師の仕事場における出来事として語られている。
 湖上で復活されたイエスに出会った出来事は、他の場合と違って、地上のイエスの姿に重ね合わせることは難しいので、復活者の顕現の物語としての性格を強く残している。しかし、彼らが湖上の舟の中で復活者と出会うという不思議な体験を語るにさいして、イエスが地上におられたとき一言で嵐を静められたという、彼らが湖上の小舟の中で目撃した出来事を下敷きにして語った可能性も否定できないであろう。
 イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の群衆と食事をされたという記事も、復活されたイエスと食事をしたという弟子たちの体験と、それを継承する「主の食卓」における復活者キリストの現臨の信仰が、荒野でのイエスと群衆の共同の食事の出来事に重ねて語られたものであることを見た。
 山上の変容の記事は、復活されたイエスの神の子としての栄光を語るのに、弟子たちが山の中でのイエスの祈りの姿に神的な臨在を感じた体験に重ねて語ったものである。
 このように、マルコは復活者キリストの姿を語るのに、地上のイエスの出来事に重ねて語る。この二重性が「福音書」の基本的な性格である。「福音書」はたしかに地上のイエスの働きと教えの言葉を伝えている。しかし、それは決して伝記や歴史ではない。それは、地上のイエスの姿に重ねて、復活者キリストを告知する書である。すなわち、「神の子イエス・キリストの福音」を宣べ伝える書なのである。
 地上のイエスの働きとお言葉は、ペトロを初めとしてイエスに弟子として従った人たちから語り伝えられていた。それは、イエスをキリストと信じた人々に、信仰と生活を導くために語られたものであった。それが、信徒の群れの中で口頭で語り伝えられ保存された。これが「イエス伝承」である。ある部分は書きとめられて文書として保存された。この断片的な「イエス伝承」を素材にして、復活者キリストの福音を世に告知する文書を初めて書いたのがマルコである。マルコは、「福音書」という類型の文書を創り出した最初の人物である。このことによって、マルコは福音の展開の歴史において画期的な貢献をしたのである。

奇跡物語の二重性

 「福音書」の基本的な性格がこのようなものである以上、地上のイエスの姿を語ることによって復活のキリストを告知するという二重性は、ここで見てきた代表的な場合だけに限らず、福音書の全体を貫いている。この視点から改めて福音書全体を見直してみよう。
 イエスの働きの中でまず目立つのは、悪霊を追い出すという働きである。マルコもガリラヤでのイエスの働きの最初に、カペナウムの会堂での悪霊追放を置いている。悪霊追放の現象は当時のユダヤ人社会でそれほど珍しいことではなかったが、イエスの悪霊追放の物語には顕著な特徴がある。それは、悪霊がイエスが誰であるかを知っていて、「あなたは神の聖者だ」と告白していることである。悪霊は、イエスが諸々の霊を支配する権威を持つ方であることを知っている。その方の命令には従わなければならないことを知っていて、「あなたはわれらを滅ぼすために来たのだ」と叫んでいる。このような記事は、イエスが悪霊につかれた人を癒されたという実際にあった出来事を語ることによって、イエスが復活者キリストとして、霊界のすべての存在を支配する方であることを告知しているのである。地上のイエスの姿しか見ることができない人間はただ驚嘆するだけであるが、霊界の存在はすでに、復活者キリストの霊界における至上の権威を見ているのである。
 イエスはまた多くの病人を癒された。それだけでなく福音書には、イエスが目が見えない人を見えるようにし、耳が聴こえない人を聴こえるようにし、手や足のなえた人を手足が動くようにし、らい病人を清め、死んだ人を生き返らせたという出来事が数多く報告されている。人々はそれを見てただ驚くだけであったが、福音書はこのようなイエスの働きを旧約聖書の預言の成就であるとして扱っている。すなわち、福音書はこのようなイエスの力ある業を伝えることによって、このイエスこそ「来るべき方」、神がその到来を約束しておられた救済者であると宣言しているのである。
 他の福音書、とくにマタイ福音書は、「来るべき方はあなたでしょうか」という問いに対して、イエスがこのような力ある業を列挙して答えられたことを伝えて(マタイ一一・二〜六)、イエスの奇跡が預言の成就のしるしであるという意義を明白にしている。また、イエスが「ダビデの子」であることを強調して、イエスが旧約の預言を成就する方であることを指し示している。マルコではこのような奇跡を意義づけるイエスの言葉もないし、イエスが「ダビデの子」であるという強調もない。マルコはただイエスがなされた力ある業の事実を伝えることで、イエスが約束されていた救済者キリストであることを指し示すのである。
 さらに、イエスが悪霊を追い出し病人を癒されたことは、たんにイエスが地上におられた時になされたことの報告として語られているのではない。マルコはそれを復活者キリストが現在なされる働きとして語っているのである。ペトロたちが最初復活者キリストを宣べ伝えたとき、イエスの名によって多くの癒しの働きをしたことは、使徒言行録に伝えられている。使徒言行録のペトロは、足のなえた人を立たせ、死んだ人を生き返らせるなど、福音書のイエスと同じような業をしている。そのペトロが、自分の見たイエスの地上の力ある業を語るさいに、それをたんなる過去の物語として語ったのではなく、復活して現在自分と一緒に働いておられるキリストを宣べ伝えるために語ったことは当然である。マルコ福音書の記事は、そういう性格の物語を用いているのである。地上のイエスの働きは、現在復活のキリストがなされる業として語られているのである。
 マルコ福音書の二重性、すなわち、地上のイエスの働きを語ることによって復活者キリストの現実を告知するという構造は、もともとペトロたちのこういう体験に根ざしていると見ることができる。

言葉伝承の二重性

 イエスの言葉の伝承については、その二重性はそれほど明瞭ではない。ペトロたちは自分たちがイエスから聞いた言葉を忠実に伝え、教団もそれを忠実に伝承していったと見ることができる。彼らは、復活して主として立てられた方が地上におられるときに語られた言葉を、軽々に変更することはできなかったはずである。しかし、イエスの宣教の状況と、教団が置かれている宣教の状況は違ってきている。イエスが「神の国」を宣べ伝えるのに用いられた言葉を、教団が復活者キリストを宣べ伝えるために用いるにさいして、ある程度の言葉遣いの変更や新しい解釈が入ってくることは避けられないことであった。
 一つだけ典型的な例をあげると、「種蒔きのたとえ」はイエスの宣教においては、終末的な神の国が隠された形で到来していることを語る比喩であったが、使徒たちの宣教においては、たとえそのものは忠実に伝えられているが、教団の状況にふさわしい新しい解釈が持ち込まれ、御言に対する信仰を勧める寓喩になっている。
 イエスの言葉を伝える伝承が、その伝承の過程でどのような改変をこうむっているかを調べる研究(様式史とか編集史というような伝承史研究)は精緻を極めている。しかし、福音書は復活者キリストを宣べ伝えるにさいして、復活後の教団の状況に固有の新しい用語で語ろうとはせず、むしろ最小限の改変を加えても、地上のイエスの言葉を伝えることだけでそれをしようとした事実が重要である。それは、福音書という種類の文書の基本的な性格による。すなわち、福音書はあくまで地上のイエスの働きや教えを伝えるという形で、復活者キリストの福音を語ろうとするものであるからである。

弟子の無理解と秘密保持の命令

 このように、福音書は復活のキリストの福音を語るにさいして、あくまでも地上のイエスの姿に固執するので、この二重構造を保持するための工夫が必要になる。それが、弟子たちの無理解の強調であり、イエスの秘密保持の要請である。
 マルコ福音書には、弟子たちがイエスの業や言葉の意味を理解できなかったという句が多く出てくる。とくにイエスが誰であるかについて弟子たちの無理解が強調されている。イエスのような桁外れの人物について、弟子たちが理解できなかったのは当然であり、それは事実であったはずである。しかし、弟子たちの無理解を強調する句がマルコの編集句(伝承素材を用いて編集するにあたってマルコが改変したり付加したと見られる句)に多く出てくるという事実は、この動機がマルコ福音書の構成要素になっていることを示している。では、何のためにマルコは弟子たちの無理解を強調するのであろうか。
 ここでも実例を一つだけ取り上げる。先に見たように、水の上を歩いて近づいてこられるイエスを見て、弟子たちが幽霊を見ているのだと狼狽し、イエスだと分かってからも呆然とするだけであったことを、マルコは「彼らはパンのことを悟らず、その心がかたくなになっていたからである」と説明している。これは明らかにマルコの編集句である(湖上の出来事をパンの出来事と関連づけて説明できるのは編集者だけである)。これは、復活者イエスの湖上の顕現を、あくまで地上の時期の物語にするために必要な説明である。イエスが地上におられた時期においては、人間が水の上を歩くというようなことを、弟子たちが理解できないのは当然である。それで、復活後の弟子たちの体験を地上のイエスの出来事として語るには、その時には弟子たちは何も理解できず、ただ呆然とするだけであったと説明しなければならないことになる。
 この弟子たちの無理解の動機に対応して、マルコが福音書の二重性を保持するために用いるもう一つの手法は、イエスが復活者であることを見た者に、それを秘密にするように命じられたとすることである。それを示す典型的な例は、山上の変容の出来事の後、山を下るとき、イエスがそれを見た三人の弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまでは、見たことを誰にも語ってはならない」と命じられたとされていることである(九・九)。先に見たように、イエスが山の中で祈っておられるときに、弟子たちが何か神的な臨在を感じるという体験をしたことは事実であろう。しかし、その体験によって弟子たちが直ちにイエスを復活者であると悟ったとか宣べ伝えたというようなことはない。ところが、マルコはこの記事を復活されたイエスの栄光の顕現として書いている。そうすると、復活者の栄光を見た弟子たちが、その後そのことについて何も語らなかったという矛盾を説明しなければならなくなる。マルコは、それはイエスが語らないように命じられたからだと説明する。この命令によって、イエスが実際に復活された後には、山の中での弟子たちの体験は、復活者の栄光を示す出来事として語ることができるようになる。
 イエスが悪霊や癒された病人や弟子たちにご自分のことを語らないように命じられたという句は多くある。それが一般に「メシアの秘密」と呼ばれているモティーフである。個々の場合を検討すると、そのような命令がなされる状況や動機は様々で、弟子たちの無理解のモティーフの場合と同様、決して一様ではない。しかし、マルコの編集句に現れる沈黙命令は大部分、この九章九節のように、地上のイエスの働きに重ねて復活者キリストの福音を告知するという福音書の二重性を保持するための手法であると見ることができる。講解でしばしば触れたように、イエスご自身が「人の子の奥義」を秘密にしておくように命じられた可能性は十分考えられるが、マルコはそれを福音書構成の原理として使用しているのである。

受難物語における二重性

 このように、マルコ福音書は地上のイエスの働きを語ることによって復活者キリストを宣べ伝えているという二重構造を理解することは、受難物語の理解にとって決定的に重要である。マルコ福音書がイエスの受難に重点をおいていることは、これまでの講解でもしばしば見てきたところである。エルサレムへの旅の途上では受難予告が三回も繰り返され、弟子たちとの対話も受難が主題となっているので、この旅も受難物語に含ませると、受難物語はじつにマルコ福音書の半分の分量になる。さらに、本講解でしたように、故郷での排斥とバプテスマのヨハネの処刑を語る六章から受難の旅が始まっていると見るならば、受難物語は実に福音書全体の三分の二の量に達する。マルコ福音書が「詳しい序文をもつ受難物語」であるといわれるのも理解できる。もしマルコ福音書が地上のナザレ人イエスの業績を顕彰するための伝記であれば、この受難物語の重視は異様である。
 では、マルコはなぜこれほどまでにイエスの受難を重視するのであろうか。その理由は、この福音書の二重性という基本的な性格から見るならば、おのずから明らかである。マルコはイエスの伝記を書こうとしているのではなく、復活によって神の子とされた「イエス・キリストの福音」を宣べ伝えようとしているのである。そして、復活者キリストがわたしたち人間の救済者であるのは、そのキリストがわたしたちのために死んでくださったという事実による。このことは、使徒たちが宣べ伝えた福音(ケリュグマ)が初めから強調してやまないところである。そのことは、パウロが自分も受けたものとして引用している福音も明確に述べている。それはこう言っている。

 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。(コリントT一五・三〜五)

この福音(ケリュグマ)はごく初期のエルサレム教団から出ていると見られている。エルサレム教団は初めから、キリストの十字架の死を人間の救済のための神のみ業として宣べ伝えているのである。
 そして、この福音を受けたパウロも、復活されたキリストの福音を宣べ伝えるにさいして、ひたすら「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝える(コリントT一・一八〜二・五)。それは、ナザレ人イエスが十字架につけられたという数十年前の歴史的事件を報告しているのではない。復活者キリストが、その十字架の死によって人間を罪の支配からあがなう方であるという、復活者キリストの現在の事実を告知しているのである。「十字架につけられた」という動詞は現在完了形であって、「十字架につけられたままの」と訳してもよいものである。パウロは、ガラテヤで福音を宣べ伝えたとき、聴く者の「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言っている(ガラテヤ三・一)。これは、パウロが証言する復活者キリストが、彼らのために十字架された方として、現在十字架につけられた姿で示されていることを意味している。
 この福音書の著者マルコは、エルサレム原始教団ともつながりが深く、またパウロの宣教活動に同行するなど、パウロとも密接な関係にあったと考えられる。この最初期の教団が告白した「十字架につけられた復活者キリスト」の福音を、マルコも語ろうとするのである。そのさい、マルコはそれまで誰も試みなかった新しい形式で、それを語ろうとする。すなわち、地上のイエスの働きや言葉を語り伝え保存している「イエス伝承」を素材として用いて、地上のイエスの働きを語る一連の物語とし、それによって復活者キリストの福音を世に告知するという試みである。それで、これまでに見てきたような二重構造が出てくることになる。そのさい、キリストの福音の核心は「復活者キリストが十字架につけられた方として救済者である」ということであるから、マルコが語る福音においても、十字架にいたるイエスの受難の物語が大きな部分を占め、中心に位置するようになるのは当然である。
 事実、マルコは福音書の大半を占める受難物語において、イエスの十字架刑という地上の出来事に重ねて、「十字架につけられた復活者キリスト」こそわれわれ人間の救済者であるという福音を語ってやまないのである。それはまず三回繰り返される受難予告の言葉に見られる。その箇所の講解でも述べたように、イエス自身が受難を予告されたことは確かであろう。イエスは、エルサレムでは受難が待ち受けていることが当然予想されるのに、あえてエルサレムに上る決意をされる。そしてエルサレムへの途上で弟子たちにご自分の受難を予告される。そのさいイエスが語られた言葉は、おそらく第二の受難予告に伝えられている「人の子は人の子らの手に引き渡される」(九・三一)という謎の言葉(マーシャール)であったと考えられる。ところが、マルコはすでに起こった十字架の出来事を知っているのであるから、その受難予告の言葉を、内容を詳しくして三回繰り返す。そのマルコの書き方に、マルコが受難物語を「十字架につけられたキリスト」の福音として語ろうとしていることが見られる。
 第一回目の受難予告は、ペトロの「あなたこそメシアです」という告白に対して、イエスが言われたこととして、マルコはこう書いている。

 「するとイエスは弟子たちに、ご自分のことを誰にも話さないようにきびしく命じたうえで、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目に復活する定めになっていることを教え始められた」。(八章三〇〜三一節)

これはマルコによる要約文である。そして、すぐにこう続けている。「しかも、あからさまにその言葉を語られた」(三二節)。その箇所の講解で指摘したように、ここに用いられている「その言葉(ホ・ロゴス)」というのは、初代教団では福音を指す術語であるから、マルコはここでイエスが教え始められた内容こそ福音そのものであるとしていることが分かる。
 マルコは、ここで苦しみを受け、捨てられ、殺される者を「人の子」としている。これはもちろん、イエスご自身が受難を予告されるときに「人の子は引き渡される」と語られたからである。しかし、マルコが「人の子」という用語を用いるときは、栄光の中に神の右に座し、全世界の裁きと支配のために来臨される方を指している(一三・二六、一四・六二)。そのような方が、地上で苦しみを受け殺されるのである。逆に、苦しみを受け殺される方は「人の子」であるから、復活して本来の栄光の座に帰らざるをえないのである。「人の子は殺され復活する定めになっている」という表現は、十字架の出来事を栄光の「人の子」、すなわち復活者キリストの立場から描いたものに他ならない。イエスは地上の人間の立場から「人の子は引き渡される」と将来の受難を予告されたが、マルコはその受難の出来事を復活者キリストの受難として描く。その復活者キリストからの視点を、「人の子は・・・・復活する定めになっている」という句で表現しているのである。第二と第三の受難予告においても、この視点はイエスが語られたこととして繰り返されている(九・三一、一〇・三四)。
 復活者キリストが受難するという奥義は、イエスの復活後になって初めて弟子たちにも理解され、福音として宣べ伝えられるようになる。イエスが地上におられた時期には理解されず、宣べ伝えられることもない。そのような福音をここですでにイエスが語っておられるとするのであるから、そのギャップを説明するために、ここにも弟子たちの無理解とイエスの秘密保持の命令というモティーフが出てくることになる。イエスは「弟子たちに、ご自分のことを誰にも話さないようにきびしく命じたうえで」、この奥義を語り出される(八・三〇)。そして、これを聞いた弟子たちは、イエスをわきにお連れしていさめ始めたペトロに代表されるように、無理解ぶりをさらけ出す(八・三二)。
 マルコはイエスの受難の出来事を、それを語り伝える受難物語伝承にできるかぎり忠実に書きとどめている。しかし、その地上の出来事に重ねて、「十字架につけられた復活者キリスト」の福音を語ろうとするマルコの意図は、この福音書の表現の端々に看取される。いまここでそれを列挙して詳しく論じることはできないが、この福音書の二重性を理解して、復活者キリストの福音の立場から受難物語を読むことが必要である。そうすれば、最後の晩餐の「これはわたしの体」という御言葉や、ゲツセマネの祈り、さらに「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられるのですか」という十字架上の叫びなどが、キリストの福音の深遠な奥義を語るものであることが見えてくるであろう。そのことを詳しく論じるのは別の機会に譲らざるをえない。ここでは、マルコ福音書の二重構造を指摘して、受難物語を、ひいては福音書全体を理解するための視点を提示するにとどめ、この講解の結びとする。