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90 マルコ福音書の「結び」 16章 9〜19節

 前段落の最後で述べたように、本来のマルコ福音書は一六章八節で終わっている。それを不自然な中断と感じた後代の教団は、追加部分を加えて福音書の「結び」とした。この追加の「結び」には二種類が伝えられている。「短い結び」と「長い結び」である。まず、「短い結び」を取り上げる。
 ある写本(おもに七世紀以後の写本)では、一六章八節の「女たちは震えが止まらず、正気を失い、墓から出て逃げ去った。そして、誰にも何も語らなかった。恐ろしかったからである」という文に、次の文が書き加えられている。

[短い結び] 一六章八節への附加

 彼女たちは命じられたことをすべて、ペトロの回りの人たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身もまた彼らを通して、東の果てから西の果てまで、朽ちることのない聖なる永遠の救いの告知(ケリュグマ)を送り出された。
 すでにマタイは、マルコの「誰にも何も語らなかった。恐ろしかったからである」という文を「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と変えている(マタイ二八・八)。ルカも同じように、すぐに知らせたと変えている(ルカ二四・九)。マルコに加えられたこの結びの文は、この線上にある変更であるが、写本の年代、用語、文体、内容から見て、かなり後代の附加であることは明らかである。

 それに対して、次にあげる「長い結び」は比較的早く、(エイレナイオスやタティアノスに知られていることからも)二世紀の前半には成立していたと見られる。しかし、これも用語や文体、また内容からしても、マルコ福音書の著者のものではなく、他の福音書や伝承から集められたものであることが分かる。カトリック教会はこの「長い結び」を「正典的な結び」としている。この結びは四つの伝承断片から成り立っていると見られる。それぞれの内容を簡単に見ておく。

[長い結び] 一六章九〜二〇節

マグダラのマリアに現れる

 9 週の初めの日の朝早く、イエスは復活して、最初にマグダラのマリアに御自身を現された。以前イエスが七つの悪霊を追い出された女性である。10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が嘆き悲しんで泣いているところへ行って、このことを知らせた。 11 しかし彼らは、イエスが生きておられ、その姿がマリアによって見られたことを聞いても、信じなかった。

 八節の主語は女性たちであるのに対して、九節の主語はイエスであること、また、八節までは複数の女性が話題になっているのに、ここではマグダラのマリアだけであること、そのマリアが初めて登場する者としてイエスとの関係が紹介されていることなどから、八節と九節の間には断絶があり、この一段は別の伝承が用いられていることが分かる。
  復活されたイエスの顕現に最初に接したのはマグダラのマリアであることは、広く流布していた最初期の確かな伝承であった。この段落とヨハネ福音書二〇章一一〜一八節は、このマリア伝承の記録である。マルコ、マタイ、ルカの共観福音書では最初の顕現物語に複数の女性が登場するが、筆頭に名が上げられているのはいつもマグダラのマリアであることも、この伝承の名残であろう。このマグダラのマリアから弟子たちにイエスが復活されたことが伝えられたのであるが、弟子たちは信じなかったのである。
 マグダラのマリアは「七つの悪霊を追い出された」と伝えられているように、深刻な病気から癒やされてイエスに従い、自分の持ち物を出し合ってイエス一行を支えたガリラヤの女性たち(ルカ八・二)の一人であった(ここでも筆頭者)。どの福音書も伝えているように、マグダラのマリアと他のガリラヤの女性数名だけが、イエスの十字架刑と埋葬の現場まで見届けたのであった。そのマリアが復活されたイエスの最初の顕現に接することは当然である。
 ところが、その後の顕現伝承を見ると、最初に顕現に接したのはペトロであるという伝承が有力になる(コリントT一五・五、ルカ二四・三三〜三四)。イエス復活の最初の証人として、ペトロは使徒たちの中で首位の地位を占めるようになる。それに対抗して、復活したイエスが最初に現れたのは「主の兄弟ヤコブ」であるという伝承もあった(コリントT一五・七、ヘブル人福音書断片一七)。この伝承は、エルサレム教団におけるヤコブの首位性を根拠づけるためのものである。このようにペトロやヤコブへの顕現が有力になり、マグダラのマリアへの顕現伝承が背後に退いていくのは、ユダヤ教では女性に証人として資格が認められていなかったという事情もあるが、その後の古代教会の歴史においては、いわゆる正統派とグノーシス派との対立の中で、グノーシス派がマリアをペトロに勝る使徒とする傾向があるのに対抗して、女性の聖職を認めない正統派がペトロの首位性を擁護するために、マリア伝承を抑圧したという事情もあったようである。マリアがマグダラの売春婦であったという伝承の流布も、マリアの権威をおとしめるための正統派の策謀であるとする見方もある。

グノーシス派における使徒としてのマリアの高い地位については、「マリア福音書」、「ピスティス・ソフィア」、「救い主の対話」、「ピリポ福音書」などに見られる。これらのグノーシス文書では、マリアはイエスといつも一緒にいた親しい弟子として、イエスから特別の啓示と知恵を与えられていたとされる。邦訳では、荒井献『トマスによる福音書』(講談社学術文庫)、とくに語録一一四とその解説を参照。また、現代のフェミニスト神学の立場からの解説として、E・S・フィオレンツァ『彼女を記念してーフェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築』、E・ペイゲルス『ナグ・ハマディ写本(原題は「グノーシス諸福音書」)』(白水社)を参照。

二人の弟子に現れる

 12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。

 この部分は明らかにルカ福音書(二四章一三〜三五節)のエマオでの顕現伝承の短縮形である(あるいはルカのエマオ物語の元になった伝承を用いている)。先のマグダラのマリアについても、ルカだけが伝えている「以前イエスが七つの悪霊を追い出された女性」という伝承を用いていること、また食事の場に顕現されたこと(ルカ二四・四三)や、最後の「天に上げられ」というルカ特有の表現(ルカ二四・五一)を用いていることなどからも、この「長い結び」を編集した人物は、ルカ福音書に親しんでいたことがうかがわれる。しかし、ルカと違ってこの編集者は、復活されたイエスの顕現に接した二人の弟子の報告を、他の弟子たちが信じなかったことを強調して、先のマグダラのマリアの報告を信じなかったことと合わせて、次の一四節を準備する。

弟子たちを派遣する

 14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。18 手で蛇をつかみ毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」。

 ここで、復活されたイエスの顕現に接したマリアと二人の弟子の報告を信じなかった「十一人」(十二人の弟子団からユダを除く十一人)に、食事をしている時にイエスが現れて、全世界に福音を宣べ伝えるように命じられたことが語られる。食事の場における顕現はルカと同じであるが(ルカ二四・三六〜四九、使徒一〇・四一)、宣教命令の言葉(一五節)は、「福音」という語の使用など、ルカよりもマルコ福音書本体の影響が大きい(マルコ一・一、一三・一〇参照)。顕現体験は召命体験であるという点は他の福音書と同じである。
 ここで「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」ことが非難されている。この文脈では、非難はマリアと二人の弟子の報告を信じなかった「十一人」に向けられているが、福音書の結びの言葉としては、この福音を聴く人たちに信じることを求める呼びかけである。福音とは結局「復活されたイエスを見た人々」の証言あるいは告知であり、この証言を信じることが「救いに至らせる神の力」を受けることになるからである。これを信じないことは、自ら救いへの道を閉ざすという意味で、「滅びの宣告を受ける」ことになるから、信じるようにと呼びかけるのである。そして、当時の宣教では、イエスを復活された主《キュリオス》と信じることは、「バプテスマを受ける」という形で告白されたので「信じてバプテスマを受ける者は救われる」と表現されることになる。
 次に信じる者にともなう「しるし」が列挙される。この「しるし」のうち、「(わたしの名によって)悪霊を追い出す」と「病人に手を置けば治る」の二つは、イエスがその宣教活動の中でなされ、また弟子たちを派遣されるときにするように命じられた働きとして、どの福音書にも伝えられている内容である。ところが、「新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ毒を飲んでも害を受けない」という二つのことは、福音書にはない新しい「しるし」である。
 「新しい言葉を語る」というのは、使徒言行録やパウロ書簡に出てくる「異言」を指している。ここに用いられている「言葉」《グロッサ》は、使徒言行録やパウロ書簡では「異言」と訳されている「舌語り」のことである。これは、祈りとか讃美において、御霊の働きによって言語能力が直接コントロールされて、知らない言語で語り出すことを指している。ここでは《グロッサ》に「新しい」という形容詞がつけられて、異言という現象が「新しいアイオーン」の言語として、その到来を指し示す「しるし」として扱われている。
 「手で蛇(毒蛇)をつかんでも害を受けない」という出来事は、使徒言行録二八章にパウロの身に起こった「しるし」として伝えられている。ここにもルカ文書との親近性が見られる。初期の宣教活動の歴史においては、似たような事例が語り伝えられていたのかもしれない。似たような「毒を飲んでも害を受けない」というような奇跡物語も流布していたのであろう。ただ、このような奇跡物語を愛好する傾向は、増幅されて外典に見られる奇矯な奇跡物語を生みだしていったという事実もあるので、警戒しなければならない面もある。このような言葉があるからといって、主を試みるようなことをしてはならない。
 このような「しるし」が列挙されていることは、この「結び」が書かれた時代には、実際にこのような奇跡的な出来事があり、それが福音宣教に伴う「しるし」として見られていたことを示している(次の二〇節参照)。初期の宣教活動の実際を伝える資料として貴重である。

天に上げられる

 19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主も彼らと共に働き、彼らの語る言葉を、それに伴うしるしによって確証された。

 ここでは、イエスの名に《キュリオス》という称号がつけられ、「主イエス」という初期の信仰告白の呼称が用いられている。「天に上げられ、神の右の座に着かれた」も、イエスが復活されたことを言い表す初期福音宣教の定型文であった。
 福音の言葉が聖霊の力によって語られるところでは、「主も共に働き」、さまざまな力あるわざをもって福音の言葉が空しくないことを確証してくださることは、この「結び」が書かれたときも現在も同じである。今も聖霊が働いてくださる場では、人の思いを超える不思議な出来事が起こる。それを人間の理解の範囲に制限してはならない。この「結び」が福音書への附加部分であるとしても、御霊の力に溢れて福音を宣べ伝えていた初代の姿を垣間見させる記事は、現代のわれわれにも重要な示唆を与えるものである。
 以上見てきたように、この「結び」の部分は本来のマルコ福音書にはなかったものであるので、われわれがこの福音書を読むときには、空の墓の記事から、そこで指示されているようにガリラヤに戻って、すなわち、福音書の初めに戻って、ガリラヤでのイエスの物語を復活されたイエスの顕現の物語として読まなければならない。それが本来のマルコの意図であり、求められている読み方である。そのような読み方について、以下の終章の三講(91〜93)で論じることになる。