市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第30講

89 空の墓  15章 42節〜16章8節

 42 すでに夕方となり、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。このヨセフは名望ある議員であったが、神の国を待ち望む者でもあった。 44 ピラトはイエスがもう死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、死んでかなりたつのかと尋ねた。 45 そして、百卒長から報告を受けてから、ヨセフに遺体を下げ渡した。 46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを下ろして亜麻布で巻き、岩に掘ってあった墓に横たえ、墓の入り口に石をころがして塞いだ。 47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見とどけた。
 16章 1 さて、安息日が終わり、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。 2 そして、週の初めの日の朝早く、日の出のころ墓に行った。 3 女たちはお互いに、「誰が墓の入り口から石をころがして除けてくれるでしょうか」と話しあった。4 ところが、あたりが見えるようになると、石がすでにころがし除けてあるのが見えた。その石は非常に大きかった。 5 墓の中に入ると、真っ白の長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、女たちは恐れおののいた。 6 すると、その若者が言った、「恐れることはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのであろうが、彼はここにはおられない。復活されたのだ。見よ、ここがお納めした場所である。 7 さあ、あなたがたは行って、弟子たちとペテロにこう言いなさい、『イエスはあなたがたに先だってガリラヤに行かれる。以前あなたがたに言われたように、あなたがたはそこでイエスにお会いすることになる』」。8 女たちは震えが止まらず、正気を失い、墓から出て逃げ去った。そして、誰にも何も語らなかった。恐ろしかったからである。

イエスの埋葬

 イエスの受難の物語、いやイエスの生涯の物語は、イエスの墓で終わる。その点では他のすべての人の場合と同じである。すべての人生は墓で終わるのである。ところが、イエスの場合は、他のすべての場合と決定的に違う点がある。イエスが埋葬された墓は空になっていたのである。この事実が何を意味するのか、福音書が語るところを聴いてみよう。
 イエスの墓の物語には明らかに二つの部分がある。前半(一五章四二〜四七節)は金曜日の日没前、イエスの遺体を墓に葬る記事である。後半(一六章一〜八節)は日曜日の早朝、三人の女性が墓が空であることを見つける記事である。この二つの部分は別の段落として扱われることが多いが、同じ墓に関する一つの記事として一気に読む方が、その意義やマルコの意図を把握しやすいであろう。章と節への区分は後世のことであるから、二つの部分が別の章に属していることは無視してよい。

 すでに夕方となり、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。このヨセフは名望ある議員であったが、神の国を待ち望む者でもあった。(一五章四二〜四三節)

 イエスが十字架につけられたのは「準備の日」であった。「準備の日」というのは、安息日の前日、または大祭日(とくに過越祭)の前日を指すユダヤ教の用語で、安息日または祭を祝うための食物や衣服や器具類を準備する日である。「安息日の前日」の午後三時にはトランペットが鳴って、エルサレムの住民に安息日に入る準備をするように促したのである。
 マルコは、イエスが死なれたのが「準備の日」であると言うと同時に、すぐに続けて「すなわち安息日の前日であった」と説明している。マルコの日付によれば、イエスは過越の食事をとった夜の翌朝(すなわち過越祭の当日)に十字架につけられたことになる。ところが、ヨハネ福音書はイエスが十字架につけられた日を「過越の準備の日」とし(ヨハネ一九・一四)、同時にその日が「安息日の前日」であったとしている(ヨハネ一九・三一)。イエスの十字架刑が「安息日の前日」(すなわち金曜日)であったことは、マルコとヨハネは一致しているが、マルコはその日が過越祭の当日であるとし、ヨハネはそれを「過越の準備の日」とする。この一日の食い違いは解決できない(一四章一二節の講解参照)。おそらく受難物語の伝承はイエスの死を「(過越の)準備の日」と語っていたのであろうが、マルコは「すなわち安息日の前日であった」という説明を直後に加えることによって、最後の晩餐を過越の食事とする自分の日付に合わせている。
 「すでに夕方となり」と言われるときの「夕方」は、日没前の夕方を指す。日没とともに安息日が始まるので、それまでにイエスの遺体を埋葬するように急いだのである。その理由が「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」という句で説明される。安息日が始まると、遺体を取り下ろして埋葬するという作業ができなくなり、死体を木にかけたまま夜を過ごしてはならない、という律法を守ることができなくなるからである。申命記(二一・二二〜二三)の律法には次のように規定されている。

 「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」。

 弟子たちはみな逃げ去っており、誰もイエスを葬る者がない。ところが、「アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た」のである。これは勇気が要る行動であった。イエスはユダヤ教の最高法院からは神を汚す背教の教師として死刑判決を受け、ローマ総督からは反逆者として処刑された人物である。そのような人物の埋葬を引き受けることは、自分もその仲間として扱われる覚悟を必要とした。ヨセフは「勇気を出して」、大胆にもそのような行動に出たのである。
 このヨセフは「アリマタヤ出身の名望ある議員」であった。この表現は、ヨセフが最高法院を構成する三つの出身階層(祭司長、長老、律法学者)のうちの長老階層に属する者であることを示唆している。「長老」というのは、各地方の「名望ある」貴族階級の家柄の出身者で、地域代表というような資格の議員であった。祭司長や律法学者たちは神学上の理由からイエスに反対したが、神学議論から自由な長老たちのなかには、イエスの人格に感動して、ひそかにイエスに同調する者もいたのであろう。
 ヨセフは議員でありながら、「神の国を待ち望む者」でもあったと言われている。この表現は敬虔なユダヤ教徒を広く指すこともあるが、ここではイエスが宣べ伝えられた「神の国」を待望する者、すなわちイエスを信じる者という意味であろう。マタイ(二七・五七)とヨハネ(一九・三八)ははっきりと「イエスの弟子であった」と言っている。イエスを背教者としている最高法院の議員であるという立場上、公に言い表すことはできないが、ひそかにイエスを信じていたのである。

 ピラトはイエスがもう死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、死んでかなりたつのかと尋ねた。そして、百卒長から報告を受けてから、ヨセフに遺体を下げ渡した。(一五章四四〜四五節)

 ヨセフがピラトに願い出たのは日没前の何時ごろか分からないが、朝の九時に十字架につけられたイエスが、そんなに短時間で死んだことにピラトは不審の念を抱いた。もしヨハネ福音書が伝えるように、イエスが正午過ぎに十字架につけられたのであれば、彼の不審はますます当然となる。つい先ほど死刑判決を出したばかりであるのに、もう遺体の引き取りを願い出る者があるとは、という不審である。そこで死刑執行の責任者であり立会人である百卒長を呼んで、イエスの死を確認する。「死んでかなりたつのかと尋ねた」というのは、死の確かさの確認であろう。そして、百卒長から公式の報告を受けてから、ヨセフに遺体を下げ渡した。四三節ではイエスの「からだ」と言われていたが、ここから「遺体」という用語になる。
 この節は、イエスの死がローマ側によっても公式に確認された事実であることを強調している。この強調は、イエスは仮死状態で十字架から下ろされ、その後で息を吹き返したのであるという復活批判に対抗するためであろう。

 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを下ろして亜麻布で巻き、岩に掘ってあった墓に横たえ、墓の入り口に石をころがして塞いだ。(一五章四六節)

 日没前でまだ安息日は始まっていなかったので、ヨセフは亜麻布を買ったり、イエスの遺体を十字架から下ろしたり、遺体に亜麻布を巻いたり、石をころがすことができた。日没が迫っていたので、ヨセフは急いでこのような手順をふんで「岩に掘ってあった墓」にイエスを葬った。
 パレスチナでは自然の洞窟や人の手で掘って造った洞窟が遺体を葬る場所、すなわち墓として用いられた。それで、「墓」といっても、何人もの人が入れるほどの部屋という感じの広い空間である場合がある。ローマ時代にはこの「墓」の入り口を塞ぐのに、入り口の前に掘られた溝に丸い車の形をした石を転がすという形式のものが見られる。イエスの遺体を納めた「墓」も、このような丸い石を転がして入り口を塞ぐ形式のかなりの広さの洞窟であったことが前提されている。
 イエスを葬った墓については、マルコは「岩に掘ってあった墓」と言うだけで、誰の墓であるか、どこにある墓であるかなど、詳しいことは何も語っていない。ヨハネ福音書(一九・四一〜四二)は、「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた」と説明している。それが誰の墓であるかは触れず、その日が準備の日であって、日没までに急いで葬らなければならず、ただその墓が近かったので、そこに葬ったとしている。
 マタイ(二七・六〇)だけがそれをヨセフの墓だとしている。しかし、ヨセフはアリマタヤの人である。アリマタヤはエルサレムから北西へ四〇キロ、地中海沿いの町ヨッパのすこし東にある。そのアリマタヤのヨセフがエルサレムに自分の墓を持っているのは考えにくい。マルコやヨハネが伝えているように、日没が迫っていたので、たまたま近くにあった墓にとりあえず遺体を納めたと見るべきであろう。
 マルコ以外の福音書がみな、その墓が「まだ誰も葬むられたことのない、新しい墓」であることを強調しているのは、墓が空になったことをイエス復活の証拠として明確にするためである。先に葬られた者の遺骨が残っているのでは、イエスが復活された証拠としては曖昧になってしまう(その遺骨がイエスのものでないことを証明しなければならなくなる)。
 ヨハネ福音書(一九・三九〜四〇)は、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」としている。それに対してマルコは、日曜日の朝女性たちが墓を訪れる動機として香料を残しておくため、埋葬にさいしては香料のことは触れていない。
 このように、ヨセフが「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」イエスを埋葬したのであれば、それは異例のことであった。当時のユダヤ教の定めでは、処刑された者は通常の埋葬は許されず、犯罪者墓地において行われなければならなかったのである。イエスの場合、異例の埋葬ができたのは、ヨセフという有力者が引き取ったからであろう。

 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見とどけた。(一五章四七節)

 イエスに最後までついてきて、十字架の死を見守った女性たちの中の二人が、イエスの埋葬の一部始終を見守り、イエスの遺体が葬られた場所を「見とどけた」。この節は、日曜日の朝に空であることを発見した墓が、間違いなくイエスを葬った墓であることを、二人の証人を立てて証言しているのである。

日曜日の早朝

 さて、安息日が終わり、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。(一六章一節)

安息日を境目として場面が変わる。場所は同じ墓であるが、前半(一五・四二〜四七)は安息日前の埋葬の場面、ここからの後半(一六・一〜八)は安息日が終わってから墓が空になっていたことが発見される場面である。
イエスを葬った金曜日の夕方から丸一日たって、土曜日の夕方の日没とともに安息日が終わる。そこで三人の女性が出かけて行って、イエスの遺体に塗るための香料を買い求める。安息日が始まる前に急いで葬ったため、香料を用意して遺体に添えることができなかったからである(マルコは香料を「塗る」と言っているが、これはヨハネが用いている「添える」という表現のほうが正確であろう)。安息日には買い物はできないので、女性たちは安息日が終わる日没を待って香料を買い求めるのである。
 前夜に香料を買い求めておいて日曜日の早朝にイエスの墓に行く三人の女性は、「マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメ」である。この三人は、イエスの十字架を遠くから見つめていた婦人たちの中にいたと名をあげられている(一五・四〇)。その中の二人はイエスの埋葬を見とどけている(一五・四七)。その箇所で「ヨセの母マリア」といわれている女性は、ここで「ヤコブの母マリア」といわれている女性と同一人物である(一五・四〇では「小ヤコブとヨセの母マリア」と言われている)。ところで、女性たちの名が上げられるとき、いつもマグダラのマリアが筆頭にきていることが注目される。これは、復活されたイエスが最初にマグダラのマリアに現れたという伝承(たとえばマルコ一六・九〜一一)が初期の教団に確立していたことを示唆している。

 そして、週の初めの日の朝早く、日の出のころ墓に行った。(一六章二節)

 「週の初めの日」、すなわち日曜日の朝早く、日の出のころ、三人の女性たちはイエスの墓に行く。この日付は、後でイエスの復活を宣べ伝えるさい、イエスは「三日目に」復活されたという形で、重要な意味を持つことになる。

 女たちはお互いに、「誰が墓の入り口から石をころがして除けてくれるでしょうか」と話しあった。(一六章三節)

 イエスの遺体に香料を塗るにしても添えるにしても、墓の入り口を塞いでいる石を取り除けなければならない。女性たちは、墓の入り口を塞いでいる大きな石をころがして除ける力が自分たちにはないことを承知している。どうしてイエスの遺体に近づくことができるのか、何の成算もないまま、イエスを慕う一心で墓に向かう。

 ところが、あたりが見えるようになると、石がすでにころがし除けてあるのが見えた。その石は非常に大きかった。(一六章四節)

 三人の女性たちは日が昇る前のまだあたりが暗い時刻に墓に向かったのであろう。途中墓を塞いでいる大きな石のことを心配しながら、暗い道を急いで来たのである。ところが、墓の近くまできたころ、ようやく夜が明けてあたりが見えるようになる。すると、意外なことに、墓を塞いでいた非常に大きな石がすでにころがし除けてあるのが見えたのである。
 この節はこう理解できると考える。この節の最初の動詞《アナブレポー》は、たいていの近代語訳は、新共同訳の「目を上げて見ると」と同じく、「見上げると」としている。しかし、この動詞は「再び見えるようになる」という意味もあり、視力の回復を語るさいに用いられる(マタイ一一・五、ヨハネ九・一一など)。この場面で、墓が高い位置にあることを示唆するものは何もなく、むしろ「早朝、日の出のころ」という時刻の説明が付けられていることからすれば、「見上げる」という意味ではなく、夜が明けてあたりが「再び見えるようになる」という意味に理解すべきであろう。

 墓の中に入ると、真っ白の長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、女たちは恐れおののいた。(一六章五節)

 イエスの遺体を納めた「墓」はかなりの広さがある洞窟であって、三人の女性がその中に入ることができた。中に入ると、「真っ白の長い衣を着た若者」が右手に座っているのが見えた。「真っ白の衣」は神的な存在の顕現を象徴する(山上の変容における「真っ白の衣」参照)。異次元の霊的存在の顕現に接するとき、人間はまず畏怖の念に打たれる。女性たちは墓の中でこのような顕現に直面して、恐れおののくばかりであった。
 この「真っ白の長い衣を着た若者」が復活されたイエスの顕現でないことは、この若者がガリラヤでのイエスの顕現を告げる使者としての役割しか果たしていないことからも明らかである。この「若者」は、ここで起こっている空前の出来事の意味を告げ知らせるために天から遣わされた使者、すなわち「天使」の顕現であると理解してよい。

 すると、その若者が言った、「恐れることはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのであろうが、彼はここにはおられない。復活されたのだ。見よ、ここがお納めした場所である」。(一六章六節)

 聖なる存在の顕現に接して恐れおののく女性たちの魂に、向こうから言葉が響いてくる。それは、このような場合にはいつもそうであるように、「恐れるな」という言葉で始まる。天から響く言葉は、ここでは「その若者が言った」言葉として語られる。それは十字架につけられたイエスの復活を告知する言葉である。それは今、墓の中で三人の女性に密かに告げられるのであるが、それはやがて全世界に向かって語られる言葉である。マルコは、イエスの復活という福音の核心を、この墓での天使の言葉という形で世界に告知するのである。
 「彼はここにはおられない」。もしイエスの墓に墓碑銘があるとすれば、それはこの言葉である。もしイエスの墓が特定できたとして、そこに「十字架につけられたナザレ人イエス」を記念するために詣でても、その墓に刻まれている墓碑銘は「彼はここにはおられない」という言葉である。イエスは墓の中で朽ち果てた方ではない。
 「彼は復活された」。これこそ福音の全事態を支える支点である。この福音書が書いてきた「イエス・キリストの福音」のすべては、この事実の上に成り立っている。マルコはいまここで、彼が書いてきた福音書の全体を支える隠されていた秘密を、明白な言葉で全世界に告知する。
 「見よ、ここがお納めした場所である」。福音は空になった墓を指さして、イエスの復活を告知する。たしかに、墓が空になっていたという事実が、弟子たちの復活のキリストの宣教を惹き起したのではない。むしろ、弟子たちは女性たちから墓が空になっているという知らせを受けたとき、それを愚かな話として取り合わなかったことが報告されている(ルカ二四・一一)。弟子たちが命がけでイエスを復活された方キリストとして宣べ伝えたのは、彼らが復活者に直接出会ったからである。聖霊によって復活者キリストを体験したからである。しかし、彼らがイエスの復活を証言したのは、彼らの個人的体験だけに基づくものではない。イエスを葬った墓が空になっていたという事実の裏付けを伴っている。
 弟子たちの宣教活動はその墓があるエルサレムで数週間後に始まっているのであるから、もし墓が空でないならば、すなわちイエスの遺体がそこにあるのであれば、反対者たちはその遺体を指し示すだけで、弟子たちの復活宣教を木っ端微塵に打ち砕くことができたはずである。反対者たちが、イエスの遺体を弟子たちが夜の間に盗んだのだという噂を流すことで対抗した(マタイ二八・一一〜一五)のは、反対者も墓が空であった事実は認めざるをえなかったことを示している。
 福音が空の墓の事実を指し示して復活を宣べ伝えるのは、復活理解にとってきわめて重要である。墓が空になっていたという事実は、復活があくまでイエスの身に起こった具体的な出来事であることを示している。復活の福音は弟子たちの内面的な体験や確信を宣べ伝えるものではない。それはイエスの身に起こった神の終末的なわざを宣べ伝えるのである。
 最近の神学では復活を実存論的に解釈して、弟子たちの内面に起こったことだとする傾向がある。すなわち、師の刑死に失望落胆していた弟子たちが、イエスの十字架の意義に目覚め、イエスと同じ実存理解に到達したことを、死んだイエスが自分たちの中に復活したことだとして、「イエスの復活」を宣べ伝えたというのである。このような「復活」は、イエスの墓が空であることを必要としない。このような復活理解は、空の墓をたんなる伝説として片づけてしまい、福音から終末的現実性を奪い去る。
 墓を空にして復活されたイエスは、やがて弟子たちに現れて、直接ご自分が生きておられることを示されることになる。そのことがまさに空の墓において予告される。

 「さあ、あなたがたは行って、弟子たちとペトロにこう言いなさい、『イエスはあなたがたに先だってガリラヤに行かれる。以前あなたがたに言われたように、あなたがたはそこでイエスにお会いすることになる』」。(一六章七節)

 イエスは十字架につけられる前の夜、最後の食事を終えてゲツセマネの園に向かわれる途中、「あなたがたは皆つまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散らされる』と書かれているからである」と言って、イエスの死に直面した弟子たちが逃げ去ってしまうことを予言されたが、すぐに続けて、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたに先だってガリラヤに行く」と予告された(一四・二七〜二八)。イエスのこの「ガリラヤへ先だって行く」という予告の言葉が、いま御使いを通してあらためて弟子たちに伝えられる。
 その箇所の講解で触れたように、「先だって行く」という動詞は、ここでは「先に行っている」という意味であるが、イエスが用いられた羊飼いの表象から、散らされた羊を集めて「先頭に立って導いて行く」という意味も含まれてくる(一〇・三二ではその意味で用いられていた)。この御使いの言葉によって弟子たちはガリラヤに行くように指示されるのであるが、その指示に従ってガリラヤへ行き、そこで「先に行っている」イエスに会うという出来事全体が、散らされた弟子たちを集めて「先頭に立って導いて行く」復活のイエスの姿を描いていることになる。
 「あなたがたはそこで(ガリラヤで)イエスにお会いすることになる」という予告の言葉は、マルコ福音書を理解する上で重要である。この言葉によって、マルコは復活されたイエスの顕現の舞台としてガリラヤを指し示すのである。弟子たちがイエスと寝食を共にし、親しくその言葉を聴き、その業を見たあのガリラヤが、復活されたイエスと出会う場になるのである。このことによって、「ガリラヤ」はもはや地上のイエスが活動された土地の地理的名称であるだけでなく、復活されたイエスと出会う領域を象徴する名称となる。「ガリラヤ」でのイエスの働きを描くこの福音書は、復活されたイエスとの出会いを物語る文書となる。
 ここで「弟子たちとペトロに伝えなさい」と、ペトロだけがとくに名をあげて「弟子たち」に付け加えられているのはどういう意味があるのであろうか。初期の教団には、復活されたイエスは最初にペトロに現れたという伝承があり(コリントT一五・五、ルカ二四・三四)、それが教団におけるペトロの筆頭者としての地位の根拠になっていた。その事実を念頭において、マルコがとくにペトロの名をあげたという推定もできる。しかしそれ以上に、この福音書でペトロが三度までもイエスを否認したことが、特別に重要な意味をこめて語られていたことが思い起こされる(一四・六六〜七二の講解参照)。生涯をかけて信頼し従ってきた師を公に否認するという、取り返しのつかない挫折に打ち砕かれて泣き伏しているペトロを、復活されたイエスはありのまま受け入れて、ご自分を最初に現されるのである。そうすることによって、ペトロの復活者キリストの信仰と宣教が、まったくペトロ自身の決意とか忠誠に基づくものではなく、一方的で圧倒的な復活者キリストの恩恵に基づくものであることが明らかになるのである。

 女たちは震えが止まらず、正気を失い、墓から出て逃げ去った。そして、誰にも何も語らなかった。恐ろしかったからである。(一六章八節)

 天界の霊的存在の顕現に出会った人間は、本能的に深い恐れに捕らえられる。天使の顕現に接した女性たちは恐ろしさのあまり、「震えが止まらず、正気を失い」、墓から出て逃げ去る。恐ろしさのため呆然となり、「誰にも何も語らなかった」と書かれている。
 これでは、「弟子たちとペトロに伝えなさい」という天使の命令に従わなかったことになる。弟子たちが天使の指示に従ってガリラヤへ行き、そこで復活されたイエスと出会うという構想で福音書を書いている著者マルコの意図と矛盾する。この女性たちの沈黙についてはさまざまな説明が提出されているが、決定的なものはない。
 この節は六節から自然に続くので、七節はマルコの編集句であることが一般に認められている。おそらくマルコが用いた空の墓の伝承は、六節から八節に直接続いていたのであろう。伝承は天使の顕現に接した女性たちがいかに深く恐れたかを語って終っていたのである。現在の福音書に保存されている伝承を総合すると、空の墓が発見されたとき、女性たちにも報告を受けた弟子たちの間にも混乱が引き起こされたことがうかがわれる。彼らはその事実をどう受け取ってよいのか分からなかったのである。その混乱をそのまま伝えている伝承を用いるにさいして、マルコは自分の福音書の構想から七節を挿入するだけで、伝承を自分の構想に合わせて変更することまではしなかったのではなかろうか。それで七節と八節が矛盾したまま残る結果になったと考えられる。

マルコ福音書の終わり方について 

 本来のマルコ福音書は一六章八節で終わっている。九節以下の部分(一六章九〜二〇節)は後で付け加えられた部分であって、ほとんどの近代語訳はこの部分を括弧に入れて、それが付加であることを示している。この部分が後の付加であることは、もっとも古い有力な写本に欠けていること(他の多くの写本では付加であることを注記している)、八節と九節以下の続き方が不自然で同一著者の筆であるとは考えられないこと、用語や文体が異なっているだけでなく、内容が他の福音書からの要約を寄せ集めたものであること、さらに、多くの初期ギリシア教父に知られていないことなどからも十分確認される。
 これは、他の福音書にはみな復活されたイエスが弟子たちに現れた記事があるのに、マルコ福音書にはそれがないことを不自然に感じた人物(あるいはこの福音書を用いていた教団)が、他の福音書にある顕現記事や利用可能な別の顕現伝承を用いて、現在の自分たちの宣教の状況にふさわしい形にまとめたものと考えられる。
 福音書が一六章八節で終わっているのを不自然と感じることは、九節以下の付加部分を書き加えた初代教団の人物(あるいは教団)も、テキスト批判によってこの部分を後の加筆と判断した現代の学者も同じである。それで、福音書が一六章八節で「不自然に中断している」理由について、さまざまな説が提出されることになる。その説明には概略次のようなものがある。
 一 末尾が事故によって失われたとする説。当時の書物は巻物の形をとっていたので、末尾の部分が切れて失われる可能性がある。
 二 末尾が意図的に破棄されたとする説。本来の福音書にあった結びの部分の内容が、教団にとってふさわしくないとして意図的に破棄された可能性がある。マルコ福音書に顕現記事があるとすれば、一六章七節からガリラヤでの顕現になるはずである。ところが、首位性を主張しようとするエルサレム教団からすれば、それは好ましくない内容であるので削除されたのではないかとする説である。
 三 マルコは結びの部分を書き進めるつもりでいたが、何らかの事情に妨げられて果たせなかったとする説。
 これらの説はみな可能性にとどまり、決定的な論拠はない。そこで、このような説明の前提そのものが改めて問われなければならない。
 このような説明はみな、福音書が一六章八節で「不自然に中断している」という感じを前提にしている。たしかに、《ガル》というような小辞で文書が終わることはきわめて珍しく、文体としては不自然なところがある。しかし、そのような終わり方をしている例は皆無ではない。重要なことは内容上の不自然さである。福音書という文書の性質からも、また一六章七節の「ガリラヤでお会いすることになる」という約束からも、当然復活されたイエスの弟子たちへの現れを語る「顕現」記事が続くはずであるのに、それが欠けていることからくる不自然な感じである。
 しかし、それを不自然と感じるのは一種の先入観ではなかろうか。他の福音書はみな顕現記事をもっているので、それらの福音書に親しみ慣れた結果、福音書という種類の文書は最後に復活された方の顕現を語る記事があるはずだとする期待が、一六章八節でのマルコ福音書の終わり方を「不自然」と感じさせるのではなかろうか。しかし、もともとマルコが福音書を書いたときには、他の福音書はなかったのである。マルコが初めて、地上のイエスの働きと受難を語ることによって、復活されたイエスを示す、すなわち「イエス・キリストの福音」(一・一)を告知するということを企てたのである。他の福音書の存在を忘れて、一六章八節までの「マルコ福音書」に接するとき、その終わり方は不自然であろうか。
 もしマルコが地上でのイエスの姿とその働きを語ることによって、復活者イエス・キリストを世に提示しようとしているのであれば(それは間違いなくマルコの意図である)、その生涯の物語を墓で終えるのは当然である。その上で、まさにその墓において読者にガリラヤに戻るように指示し、ガリラヤで墓を空にして復活された方に出会うように仕向けることは、初めて「福音書」という文学類型を切り開いたマルコの驚嘆すべき知恵であり文学技法であることになる。
 ガリラヤに戻るようにという空の墓での天使の指示に従って、弟子たちと共にガリラヤに戻ると、そこで出会うのは復活されたイエスである。その時、マルコがガリラヤでのイエスの働きを語る物語は、空の墓から戻ってきた者にとって復活されたイエスの顕現の物語となる。聖霊に満たされてヨルダン川の水の中から立ち上がってこられるイエスは、まさに神の霊によって死から復活されるイエスの姿である。ガリラヤ湖畔で朝もやの中に忽然と現れて、「わたしに従ってきなさい」と召すのは、復活のイエスの召命の呼び声である。それ以後、悪霊を追い出し病気を癒されるイエス、水の上を歩くイエス、多くの群衆に食物を与えるイエス、山上で変容するイエスの姿において、弟子たちは復活のイエスに出会うことになる。
 こうして、空の墓は地上のイエスが復活の次元、すなわち終末の次元に突き抜けて行かれる出口となり、ヨルダン川でのバプテスマは死から復活されたイエスが世に現れる入口となる。こうして、ヨルダン川から空の墓にいたる地上のイエスの働きを語るマルコの物語は、同時に復活者キリストの顕現を語る物語となる。しかし、地上のイエスの姿に復活者キリストの顕現を見ることができるのは、空の墓で「彼は復活されたのだ」という使信を聴いて、それを信じてガリラヤへ戻ってきた弟子たちだけである。それ以外の者たちには、イエスはあくまで一人の普通の人間にすぎない。復活者キリストの栄光は地上のイエスの姿の中に隠されている。それで、地上のイエスの姿を語る物語は「隠された顕現」の書という矛盾した構造をもつことになる。
 このことは、山上で変容して復活者の栄光を現されたイエスが、山から下る途中弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と命じられた(九・九)、とされている言葉によく示されている。マルコは復活された神の子イエス・キリストの福音を伝えたいのである。しかし、それをあくまで地上の人イエスのガリラヤでの働きの姿を語ることによってなそうとする限り、復活者の栄光は世が人の子の復活の事実に直面するまでは隠されていなければならない。そうでないと、それはもはや地上の人の物語ではなくなる。空の墓で復活の使信を聴いてガリラヤに戻ってきた弟子たちが、復活されたイエスに出会いその栄光を見たとしても、それは地上のイエスの働きを物語る福音書の中では隠されていなければならない。この福音書の二重構造、すなわち地上のイエスの働きを語ると同時に復活者の顕現を語ろうとする構造が、見たことを秘密にするようにという命令を必要とするのである。
 このように、マルコ福音書は本来一六章八節で終わっており、それによって地上のイエスの働きを語る物語を復活者の顕現の書としているという構造を理解するならば、一六章九節以下の「結び」はこの構造を覆い隠してしまうものであることが分かる。たしかに、この「結び」は初期の教団に流布していた顕現伝承や、当時の教団の宣教の状況を知る上での貴重な資料であり、われわれの信仰と宣教を考える上で真剣に扱わなければならないものである。しかし、ここではマルコ福音書の本来の構造に基づいてこの福音書を理解するために、この「結び」の部分(一六章九〜二〇節)の講解は別に扱うことにして(次の段落90)、空の墓から弟子たちとともにガリラヤへ戻った者の立場で、もう一度ガリラヤでのイエスの姿を見ることにし、それを「終章」の三講(91〜93)で扱うことにする。