市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第25講

84 イエスの逮捕  14章 43〜52節

 43 するとただちに、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダが近づいてきた。また、剣や棒をもった群衆も、祭司長、律法学者、長老たちのもとから彼と一緒にやってきた。 44 イエスを引き渡す者は人々に合図を与えて言った、「わたしが挨拶の口づけをする者がその人である。間違いなく、その人を捕らえ、引き連れて行け」。 45 そして、到着するとすぐに、彼はイエスに近づき、「先生」と言って口づけした。 46 そこで、人々はイエスに手をかけて捕らえた。 47 すると、そばに立っていた者たちの一人が、剣を抜いて大祭司の手下に切りかかり、その片耳を切り落とした。 48 そこで、イエスは彼らに応えて言われた、「あなたがたは強盗に向かうように、剣や棒をもってわたしを捕らえに来たのか。 49 わたしは毎日あなたがたと一緒にいて宮で教えていたのに、わたしを捕らえなかった。だが、これは聖書が成就されるためである」。 50 弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ去った。
 51 さて、一人の若者が亜麻布だけを身にまとってイエスについて来ていたが、人々が彼を捕らえようとした。 52 すると、彼はその亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。

軍隊の出動

 「するとただちに」という句や、「イエスがまだ話しておられるうちに」という独立属挌の使用は、マルコが好んで用いる表現法で、この部分はマルコの編集句であろう。マルコはこの編集句で、この逮捕の情景を先のゲツセマネの祈りの場面と密接に結びつける。そして、ゲツセマネの祈りの時と同じくここでも、周囲の人々の敵意や無理解や裏切りや逃亡の中で、イエスだけがただ一人、神の御旨に従う道を歩まれる姿が印象的に描かれる。
 ここでユダが「十二人の一人である」ことが再び強調される(一四・一〇参照)。イエスが選んで創設し、信頼して秘密を委ねた弟子団である「十二人」のうちの一人が、イエスを裏切り、イエスを訴え逮捕する手がかりを敵対者に与えたという事実は、人間的にはもっとも深刻な悲劇である。しかし、福音はこの人間的悲劇の中に神の道を見て、教団にとっては重荷であるはずのこの事実を、繰り返し強調するのである。ユダはすでに「ひそかにイエスを捕らえる」方法を祭司長たちに通報し、機会をうかがっていた(一四・一一)。いま絶好の機会が到来した。イエスと弟子たちの秘密の祈り場を知っているユダは、武装した一群の人々をその場所に案内してくる。
 「また、剣や棒をもった群衆も、祭司長、律法学者、長老たちのもとから彼と一緒にやってきた」のであるが、ここで「群衆」《オクロス》という用語が注目される。マルコはこの語をじつに多く用いている。ところで、十三章までの「群衆」は、イエスの権威ある教えや力ある救いの業を慕って周囲に集まってくる民衆であり、イエスが憐れみ助けを与えられた貧しい人々であり、イエスの批判者である律法学者たちに対立して、イエスを取り囲んだ味方であった。ところが、ここから以後の「群衆」は、祭司長たちの手下となってイエスを捕らえ、ピラトにイエスの処刑を要求する群衆となる(一五・六〜一五)。 
 たしかに、十三章までの「群衆」と十四章以後の「群衆」には断絶がある。同じ著者がこのような正反対の「群衆」像を描くことはできるはずがないということが、十四章以下を別人の著作とする考え(トロクメ・田川説)の理由の一つになっている。しかし、ガリラヤにおけるイエスの宣教活動の状況とエルサレムにおける処刑直前の状況の決定的な違いを考えると、イエスの周囲に集まった「群衆」の質の違いも理解できないことではない。むしろ、伝承またはマルコがこの違いをそのまま伝えたと見るべきであろう。そして、この群衆の変質が受難物語におけるイエスの孤独に一層深刻な彩りを与える。イエスはその全活動を通じて苦境にある群衆を憐れみ助けを与えられたのであるが、まさにその群衆がイエスを捕らえ十字架につけよと叫んだのである。
 共観福音書ではイエスを捕らえにきたのは祭司長らから遣わされた「群衆」だけであるが、ヨハネ福音書は「一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たち」が捕らえにきたと報告している(ヨハネ一八・三、一二)。すなわち、千人隊長に率いられたかなりの規模のローマの軍隊がイエス逮捕に出動しているのである。ヨハネを含めてどの福音書も(とくにルカ福音書は)ヘレニズム世界に対する福音の弁証という動機から、イエスの処刑にさいしてローマ側の責任を軽く叙述する傾向がある。それで共観福音書はイエスの逮捕にさいしてローマの介入には一切触れていない。それにもかかわらず、ヨハネがローマ軍隊の出動を報告しているのは、彼が用いた伝承が確かなものとして受け取られていた証拠であろう。
 当時の歴史的状況から見ると、ローマの軍隊が出動したと見る方が真実味がある。イエスが活動した時代のパレスチナは、ゼーロータイ(熱心党)の運動がかなり民衆の中に浸透して、各地でローマの支配に対する反抗運動が起こっていた。その運動はしばしば自称メシアに率いられるメシア運動の様相を示していた。ローマ側はもちろんそのような反乱には神経質であったし、祭司長たちユダヤ教当局もローマを刺激することを恐れてこのような運動を押え込もうとしていた。ユダがイエスを秘かに捕らえることができる場所以外に何を密告したのかは推察の域を出ないが、イエスは自分がメシアであると弟子たちにはひそかに教えていたというような内容が含まれていたのかもしれない。いずれにせよ、祭司長や律法学者はこの異端の教師を亡きものにしたいと狙っていたのであるから、ユダの密告を受けたとき、ローマの支配を転覆させようとしている危険人物として逮捕するよう、エルサレム守備軍に要請したと考えられる。
 ユダヤ教当局がイエスを自称メシアの危険人物としてローマ総督に訴えて処刑させようとしていたことは、その後の裁判の経過で明らかであるから、この段階ですでにローマ当局と連絡して逮捕を要請したと見ることは自然である。過越祭に多くのユダヤ人がエルサレムに集まってきている状況で、強力な指導者を戴くメシア運動を鎮圧するためにはローマ正規軍が必要であると考えられ、千人隊長が率いる規模の軍隊の出動となった。それに「祭司長やファリサイ派の人々の遣わした下役(神殿警備の役人)」が加わったのである。
 このようにイエスの逮捕が実際にはローマ軍隊によるのであれば、それを「群衆」によると描いたマルコの記事は、ローマの責任を軽くしようとする弁証的動機とともに、受難する人の子の孤独を強調しようとするマルコの受難物語の動機から出たものと理解すべきであろう。
 ところが、人々がユダに案内されてゲツセマネに到着したとき、事態はまったく予想と違った形で進行した。剣や棍棒で武装して逮捕に向かった側から見ればイエスの一行は「暴徒」であって、ガリラヤのユダなどそれまでのメシア運動の実例からしても激しい抵抗が予想された。ところが、イエスは逃げ隠れせず、弟子たちも抵抗せず逃げ去り、イエスはあっさりと逮捕されてしまうのである。民衆の暴動を恐れてイエスをひそかに捕らえて殺そうとした祭司長や律法学者たちの計画(一四・一〜二)はうまくいったのである。

イエス逮捕の場面

 ここで、このイエス逮捕の情景を「福音書」はどのように語るのかを聴こう。まずユダが口づけの挨拶をもってイエスを特定する(四四〜四五節)。これは逮捕に向かったローマ軍隊の指揮者も神殿守衛隊もイエスに面識がなかったからであろう。頭や手に口づけして挨拶するのは、ラビの弟子がその師に対してする尊敬の挨拶であった。ユダは「ラビ」と呼びかけてイエスに口づけする。すると、前もってした打ち合せ通り、武装した一団がイエスに殺到してイエスを捕らえる(四六節)。ここでユダはもはや名前で呼ばれないで「イエスを引き渡す者」と呼ばれている(四四節)。これは教団においてユダの呼び名になっていたからであろう。イエスのことが語り伝えられるところでは、いつもユダは「イエスを引き渡した者」とか「主を引き渡した者」と呼ばれていた。いま口づけをもって師を敵に引き渡す行為でユダの裏切りは頂点に達する。この時のユダを福音書記者はもはや名をもって呼ぶに値しない者として、「イエスを引き渡す者」と呼ぶのである。
 武装した一団がイエスを捕らえようとして殺到したとき、「そばに立っていた者たちの一人が、剣を抜いて大祭司の手下に切りかかり、その片耳を切り落とした」(四七節)。剣を抜いて大祭司の手下に切りかかったのは、「そばに立っていた者たちの一人」と言われている。弟子であれば「弟子の一人」と言うはずであるから、これは弟子以外の者であると言おうとしている。すると、過越の食事のあとイエスと弟子たちの一行がキドロンの谷を越えてオリーブ山の方に向かったとき、それと知った支持者の一団が一行について行ったことになる(そのことは裸で逃げた若者がいたことからも分かる)。そのうちの一人が剣を持っていたからといって、この時のイエスの一行をゼーロータイ集団であったと推論する必要はない。成人男子が護身用とか装身具として短刀を携えることは、当時では珍しくなかったのである。 
 マルコはこの出来事を報告するだけで何の説明も加えていない。しかし、イエスの側に剣をもって抵抗した者がいたという事実は、以後の福音書では何らかの説明が必要と感じられたようである。マタイは、剣を抜いた者にイエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われたと書いている(マタイ二六・五二)。ルカは、イエスが「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と言われた言葉を弟子たちは正しく理解せず、ある者がここで剣を振るったが、イエスはそれを止めさせ、切られた耳に触れていやされたと語っている(ルカ二二・五一)。ヨハネは、剣を抜いたのはペトロで、耳を切られたのは大祭司の手下のマルコスであったと報告しているが、やはりイエスはペトロに「剣をさやに納めなさい」と言っておられる(ヨハネ一八・一〇〜一一)。どの福音書もイエスが剣を用いることを止めさせたことを告げ、それを父の御心が成就するためだと説明している。
 もし、ペトロが切りつけたというヨハネが用いた伝承が歴史的事実を伝えているとすれば、「そばに立っていた者たちの一人」が切りつけたというマルコの書き方自体が、すでにマルコ独自の説明であったと見ることができる。すなわち、イエスの弟子たる者は剣を用いるはずはない、切りつけたのはたまたまそこに居合わせた外部の者である、という説明である。いずれにせよ、各福音書はこの事件を通して、イエスの運動がゼーロータイ的な武力反抗運動とはほど遠いものであることを、最後に至るまで確認するのである。
 そのことをイエス自身がこの緊迫した場面で堂々と語られる。イエスは逮捕にきた者たちに向かって応えて言われる、「あなたがたは強盗に向かうように、剣や棒をもってわたしを捕らえに来たのか」(四八節)。
 ここで「強盗」と訳した語《レステース》は、たしかに追い剥ぎ強盗の類を指す語(ルカ一〇・三〇)であるが、当時では反ローマの武装革命家を指す用語でもあった(ヨセフスにも用例が見られる)。暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバ(マルコ一五・七)もこのような「強盗」の一人であった。イエスと一緒に十字架刑にされた二人も「強盗」と呼ばれている(マルコ一五・二七)。この二人はたんなる追い剥ぎではなく反ローマ武装革命家であった(十字架刑は反乱者に対するローマ帝国の処刑方法である)。いまイエスを逮捕しようとしてやってきた武装集団は、一人の追い剥ぎを逮捕するための警察官ではなく、武装反乱勢力を鎮圧するための軍隊の規模である。イエスが「強盗に向うように」と言われたのは、このような事態である。
 「わたしは毎日あなたがたと一緒にいて宮で教えていたのに、わたしを捕らえなかった」(四九節a)。
 それまでの一週間、イエスは隠れていたのではなく、神殿で人々の前に現れ、公然と教えておられた。逮捕する機会はあったのに、彼らはイエスを逮捕することができなかった。それは民衆の暴動を恐れたからである。ところがついに、裏切り者の手引で、ひそかにイエスを捕らえる機会を得た。このような成行きは偶然とか、イエスの側の悲運というようなものではなく、神が定めた計画が成就するためであると、福音書は強調する。
 「これは聖書が成就されるためである」(四九節b)と、イエスは言われる。これは受難物語を貫く基本的なモティーフであるが、この逮捕の場面でさらに強調される。マルコはこの逮捕の段落で、このことを言いたいのである。
「弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ去った」(五〇節)。イエスが弟子たちの離反を予言されたとき(一四・二七)、弟子たちはみなペトロと一緒に、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのであった(一四・三一)。その弟子たちがいま一人残らずイエスを見捨てて逃げたのである。これは一種の裏切りである。ユダはイエスを敵に引き渡すという積極的な形の裏切りをしたが、他の弟子たちもみなイエスを見捨てるという消極的な形の裏切りをしたのである。この時点で弟子団は解消したことになる。彼らが再び弟子団として現れるのは、復活されたイエスが彼らに現れて導かれるようになった時である。このことは、わたしたちが弟子としてイエスに従うという事態について深い示唆を与えるものであるが、それについてはペトロの否認の段落(一四・六六〜七二)で触れることにしよう。

著者の署名?

 「さて、一人の若者が亜麻布だけを身にまとってイエスについて来ていたが、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼はその亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った」(五一〜五二節)。

イエス逮捕の情景は弟子の逃亡を語る五〇節で締め括られているが、その後で一人の若者のエピソードが付け加えられている。この若者は、イエス逮捕のための軍隊あるいは「群衆」の出動を察知して、急いで「亜麻布だけを身にまとって」家を飛び出してきて、イエスの一行に加わったのであろう。人々がこの若者を捕らえようとして亜麻布を掴んだとき、彼はその亜麻布の上着を脱ぎ捨てて、裸(ここのギリシア語は下着だけの状態も指す)で逃げ、かろうじて逮捕を免れたというのである。
この若者は誰かについて多くの議論がされたが、どれも推察の域を出ない。しかし、わざわざこのようなエピソードが挿入されたことの意義は考慮しなければならない。これは、画家が作品の中に自分の署名を書き込むように、この福音書の著者が作品の中に書き込んだ署名ないし自画像である、という見方も有力である。マルコ福音書の成立は七〇年の神殿崩壊の前後であると見られるので、もしこの「若者」が著者であるならば、当時(イエスの十字架は三二年頃)二十才前の「若者」は五十才台後半の年齢に達していたことになり、年代的には十分可能性がある。また、初代教会の伝承では、「ペトロの通訳であったマルコ」がこの福音書を書いたとされているが、このマルコが使徒行伝に出てくる「マルコと呼ばれているヨハネ」のことであるとすれば、このマルコの家はエルサレムにあって弟子たちの集まりの場所になっていた(使徒一二・一二)ので、このエピソードのような出来事が起こった可能性はある。
このマルコは後にパウロとバルナバの伝道の協力者になっている。このマルコが福音書の著者であるとすれば、一章一節の講解で述べたように、著者はエルサレム原始教団との関わりが深く、直弟子たちの伝えるイエス伝承を受け継ぐのに大変恵まれた立場にあるとともに、パウロの協力者として長年にわたってヘレニズム世界に福音を宣べ伝え、福音の本質を深く把握するべく鍛えられた生涯であった。これは「福音書」の著者としてまことにふさわしい人物であると言える。