市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第18講

77 目を覚ましていなさい  13章 32〜37節

 32 「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、子も知らない。ただ父だけが知っておられる。 33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたは知らないからである。 34 それは、旅に出る人が家を出るさいに、召使たちに権限を与え、各人にその仕事を課し、門番には目を覚ましているように命じるようなものである。 35 そこで、あなたがたも目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。 36 主人が突然帰ってきても、あなたがたが眠っているところを見つけるようなことにならないようにしなさい。 37 あなたがたに言っていることを、わたしはすべての人に言う。目を覚ましていなさい」。

その時はいつか

 前の段落で、いちじくの木の譬を用いて、目に見えるところは苦難に満ちた暗闇だけであっても、その背後に確実に人の子の栄光が顕現するときが間近に迫っていることが教えられたが、すぐに続いて、その時を確定することができると称する人々に対して警告が発せられる。

「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、子も知らない。ただ父だけが知っておられる」。(三二節)

 いつその事が起こるかは、地上の人間が知ることを許される性質のことではない、というのである。先に見たように、当時の教団内部には、キリスト来臨の日を歴史上の特定の出来事に結びつけて語る人々がいたので、マルコは「まだ終りではない」と警告しなければならなかった(七節)。ここでは、そのように来臨の時を知ることができるという態度そのものが、人間の思い上がりであるとして退けられる。
「人の子の顕現」あるいは「キリストの来臨(パルーシア)」という事態は、完全に歴史を超えた次元のことであるので、歴史の中に位置づけることはできないのである。すなわち、時間と空間の次元にしかいることができない人間にとって、その出来事の時期と様態は知ることができない性格のものである(使徒行伝一・七参照)。イエスもその時がいつであるかは示しておられない。
 たしかにイエスは子として父からすべてのことを委ねられた方である(マタイ一一・二七)。イエスは、人間がとうてい測り知ることのできない深い父のみ心を啓示された。しかし、「人の子の顕現」というような出来事がいつどのように起こるのかは、事の性質上、地上の人間が知ることを許されることではないので、イエスはそのことについては何も語られなかった。そのことが「子も知らない」という句で表現されているのである。それによって、「その時」がいつであるかをイエスの名によって予言する者たちが批判されているのである。
 イエスご自身が「子」という称号を用いられたのかどうかが問題とされるが、ここで用いられている「子」とか「父」という語は、父親からすべての秘伝を伝えられた息子の譬(マタイ一一・二七)の枠内での父と子であると理解すれば、この句をイエスご自身の発言として受け取ることができる。ここでイエスのメシア意識や三位一体の神の父と子の関係ないし子なる神の無知を議論することは場違いであろう。
 さらに、「天にいる御使いたちも知らない」と言われている。これは、当時のユダヤ教黙示文書が将来に起こる出来事を描くのに、それを天使から示された啓示として語っていることを背景として見ると、その実践的な意義が明らかになる。将来に関する黙示録的な描写は、たいてい霊感を受けて特別の天からの啓示に与った結果だと主張している。その主張がこの句によって反駁されているのである。その日、その時については「天にいる御使いたちも知らない」のであるから、終末のドラマについてのいかなる黙示録的時間表も真正の啓示ではないとされるのである。

門番のたとえ

 その時がいつであるか誰も知らないのであれば、しばらく緊張を解いてゆっくりしてもよいのではないか。逆である。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたは知らないからである」。(三三節)

 その時がいつ来るか分からないからこそ、いつ来てもよいように、いつも目を覚ましていなければならないのである。そのことが旅に出る主人と召使の譬で語られる。

 「それは、旅に出る人が家を出るさいに、召使たちに権限を与え、各人にその仕事を課し、門番には目を覚ましているように命じるようなものである。そこで、あなたがたも目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰ってきても、あなたがたが眠っているところを見つけるようなことにならないようにしなさい」。(三四節〜三六節)

 この譬は、弟子たちに「目を覚ましているように」と警告することが主眼点であることは明らかである。主人が帰宅するのは夜であることが当然の前提となっている。これは商用で長旅に出る人の帰宅よりは、婚礼に招かれた人の帰宅にふさわしい状況である。事実、ルカは婚宴から帰宅する主人の譬を用いている(ルカ一二・三五〜三八)。婚礼の宴からの帰宅は夜になるのが当然であり、しかも宴がいつ終るかは予め知ることはできないので、帰宅は夜の時間区分のどれになるか見当がつかないのが普通である。
 夜が「夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か」と四つに区分されているのは、当時のローマの夜の見張りの交替の区分に従ったものである(マタイ二四・四三の「どの見張りの時」と同じ)。主人が夜のどの時間帯に帰宅しても門を開いて迎えることができるように、とくに門番に目を覚ましているように命じられているのは当然である。
 この譬の主役は門番であり、この譬は「門番の譬」と呼ばれるのがふさわしいであろう。夜中のいつ起こるか分からない突然の出来事に対して、目を覚まして備えているようにという警告は、この「門番の譬」や「婚宴から帰宅する主人の譬」の他に、「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう」という「泥棒の譬」がある(マタイ二四・四三、ルカ一二・三九)。
 ところが、「権限を与えられ、仕事を課された」他の召使たちについては、目を覚ましているようにとは命じられていない。明言されてはいないが、彼らには主人の留守のあいだ与えられた権限を用いて課せられた仕事を忠実に果たすことが求められるはずである。これは婚礼に招かれた短時間の留守よりは、商用で長旅に出た主人の留守を預かる召使の状況にふさわしい。このような状況の僕たちに忠実な奉仕を求める譬は、「忠実な僕と悪い僕の譬」(マタイ二四・四五〜五一、ルカ一二・四一〜四八)、「タラントンの譬」(マタイ二五・一四〜三〇)、「ムナの譬」(ルカ一九・一一〜二七)など、マタイとルカに詳しく語られている。
 この系統の譬の伝承もマルコは知っていたので、ここにそれを用いて語り始めたのであるが、実際には主人の留守中の召使の仕事ぶりについては何も語られず、ただ目を覚ましている責任のある門番のことだけが語られることになる。ここには「商用で長旅に出る主人の譬」と「婚宴から夜中に帰宅する主人の譬」の二つの譬が融合しているのが見られる。前者の形をとりながら、実質は後者になっている。これはマタイやルカに比べるとマルコの状況が緊迫したものだからであろう。マタイやルカはエルサレム陥落から数十年後に書いている。主の来臨がいつあるか分からないという待望は保持されているが、一方パルーシアが遅れている状況で、教団は主から与えられた責任を地上で忠実に果してゆかなければならないという意識が強くなってきている。それに対してマルコはエルサレム陥落とそれに続く大患難を目前にしているという緊迫した状況で書いているので、彼の関心は地上での責任を忠実に果たすことよりも、目を覚まして突然の来臨に備えることに集中することになる。

「あなたがたに言っていることを、わたしはすべての人に言う。目を覚ましていなさい」。(三七節)

神殿崩壊の予言をきっかけに語られた本章のイエスの終末予言は、初めは僅かの弟子たちだけにひそかに語り出されたものであった。しかし最後に、その内容はすべての人が聞き、心に留めなければならないことが強調される。「人の子の顕現」を核心とする終末は、僅かのイエスの弟子たちだけに関わるものではなく、全世界が直面しなければならない終末である。それゆえ、本章の結論として語られた「目を覚ましていなさい」という警告は、弟子たちだけではなく世界のすべての人、すべての時代に向けられたものとなる。イエスはこの一言葉を世界に対する遺訓として語られる。

現在におけるパルーシア待望

 これまで本章(十三章)をこの福音書が書かれた状況に身を置いて理解しようと努めてきたが、最後にこのような黙示録的な終末予言を現代のわれわれはどのように受け止めればよいのかを考えてみよう。
 まず基本的なことは、マルコの時代も現代のわれわれもキリストの来臨を待望して生きているという信仰の質は全く同じであることを確認することである。たしかにマルコ福音書はその待望を当時のユダヤ教黙示録の用語を用いて表現している。当時の信徒たちにとっては黙示録的用語はごく身近な信仰の用語であったからである。それに対して現代のわれわれにとっては、このような黙示録的用語や表象は遠い別世界のことのように感じられる。しかし、もし現代のわれわれがこのような黙示録的な世界に入って行けないからといってキリストの来臨を否定するならば、それはたらいの湯と一緒に赤ん坊も流して捨てる(容器と一緒に中身まで捨てる)間違いを犯すことになる。われわれがキリストの将来の来臨を信じるのは、黙示録的思想を認めるからではなく、それが福音の本質に属することがら、すなわちそれがなければ福音が福音でなくなることがらであるからである。
 たしかに福音の核心はキリストの十字架と復活である。それはすでに成し遂げられた神の救いの業である。そしてそれを信じる者は現在すでに聖霊を受けて終末の生命に与っている。この点において福音は救済をすべて未来に期待する黙示録的信仰と決定的に異なっている。しかし、聖霊によって現在すでに新しい終末の生命に生きる者も、地上に生きる限り時間の中にいるのであり、将来を持っているのである。その将来は現在の生命が完全な姿で顕現することである。すなわち、現在はなお朽ちるべき体をもって生きているために被っている不完全さが克服されて、もはや朽ちることのない体をもって生きる完全な生命が顕現することである。福音は、時間の中に生きる者に宿るとき、必然的に将来の希望の相を含むことになる。福音は時間の中では必然的に約束の面を持つことになる。この約束と希望の表現が「キリストの来臨」である。
 聖霊によって現在すでに終末の生命に生きる者が、この生命の内的必然として将来現されるはずの栄光を切にうめきながら待ち望まざるをえないという消息は、パウロのロマ書八章にもっともよく表現されている。これがパルーシア待望の原動力である。パウロもユダヤ教の中で育った人であるから、その希望を語るのにユダヤ教黙示録の用語を用いているところもあるが、キリストにあって現在すでに聖霊の生命に生きるという彼の信仰の質は、ユダヤ教黙示思想におけるこのアイオーンと来るべきアイオーンの二元論的枠組みを完全に打ち破っている。
 ユダヤ教黙示思想はなお律法主義の枠内にあり、この世の苦難の中で神の律法を守る義人が来るべき世ではじめて永遠の命と栄光に与ることになる。それに対してパウロにおいては、信じる者は現在すでにキリストにあって終末の現実に生きているのである。ただ時間の中にいる限り、この死に定められた体が解放されて朽ちることのない霊の体に変えられることをうめき待ち望まざるをえないのである(ロマ八・二三)。この死者の復活にあずかることを内容とする将来の希望を表現するのがパルーシア信仰である。
 ところで、初期にこの福音を宣べ伝えた使徒たちはユダヤ人であり、福音の伝承を担い新約の諸文書を生み出したのもほとんどがユダヤ人であったので、この希望を語るのにユダヤ教黙示思想の用語が用いられたのは自然の流れであった。その結果、教団の中にはユダヤ教黙示文学に親しみ、それらの文書を熱心に学ぶ流れも生じてきたと考えられる。

キリスト教会側がユダヤ教黙示文書を論拠としたので、対立するファリサイ派ユダヤ教側は黙示録的文書を排除し破棄した。その結果、ユダヤ教黙示文書はおもにキリスト教会において保存され伝えられることになる。

 「マルコの小黙示録」や「ヨハネ黙示録」はそのような流れの中から生み出されたものであるが、これらの文書も決して黙示録的信仰を手放しで認めているのではなく、この講解で見たように、マルコは福音をユダヤ教黙示思想の枠内で理解しようとする傾向を戒めているのである(H・ケスターはヨハネ黙示録を「黙示思想的待望の批判」という標題で扱っている)。
 一方、新約聖書の中には、現在の霊的現実を強調して、黙示録的表現を用いない傾向もある。その傾向の代表的文書がヨハネ福音書である。この福音書では信じる者は現在すでに聖霊により永遠の生命を得ていることが強調され、黙示録的用語で未来のことを語ることはほとんどない。ここで注意すべきは、黙示録的表現がないということは、その信仰が終末的でないということを意味しないことである。ヨハネ福音書は独特の意味できわめて終末論的である。
 黙示思想は終末論的信仰の一つの形態であって、そのすべてではない。福音は終末的現実の到来を告知するものであり、キリスト信仰はその終末的現実に生きる。ただ、その終末性は、パウロに見られるように、ユダヤ教黙示思想の枠組みを打ち破り、乗り超えてしまっているのである。
 マルコの時代の信徒たちも、このような聖霊による内的な必然としてキリストの来臨を待望していたのである。ただそれを表現するにさいして当時の身近な宗教用語である黙示録的表象が用いられることになる。それはイエスご自身が「人の子」という黙示録的表象を用いられたことから生じる自然の帰結である。もし現代のわれわれがもはや黙示録的表象の世界に留まることができないのであれば、現代にふさわしい別の表現を取ればよい。しかし、キリストのパルーシアというような歴史を超える出来事は、もはや時間と空間の枠の中で生きる人間の通常の言葉では語りえず、なんらかの意味で象徴を用いて指し示さざるをえない。初代の教団は当時のユダヤ教黙示文学にこの希望を語るにふさわしい象徴言語を見いだしたのである。現代の神学はどのような象徴言語を持ちうるのであろうか。それを見いだすことが現代神学の一つの課題でもある。
 その際、ユダヤ教黙示思想の限界だけに目をとめて、それを廃棄するだけであってはならない。ユダヤ教黙示思想はわれわれに貴重な遺産を残してくれている。それはイスラエルの預言者たちから受け継がれたもので、宇宙論的な終末信仰である。キリストの来臨によって創造者はその業を完成されるのであるが、その対象は全被造物を含む。すなわち、宇宙的な救済の完成である。それは新天新地の創造である。黙示思想によって、初めの創造に対する終りの創造の信仰が明確になった。福音的な終末論はこの黙示思想の終末的創造信仰の枠組みを継承している。先にロマ書八章をあげて、福音における終末待望は現在聖霊によって生きている生命の内的必然であることを示したが、そこでの内的必然としての待望は宇宙の完成をうめきながら待ち望むのである(ロマ八・一八〜二五)。
 マルコは「目を覚ましていなさい」というイエスの呼びかけをこの黙示録的な遺訓の結論とした。この呼びかけは今日ますます切実になってきている。世界の矛盾と苦悩はマルコの時代以上に深刻で地球規模の大きなものになってきている。黙示思想がしたように、世界の出来事を一つ一つ終末の予定表に当てはめて一喜一憂したり右往左往するのではなく、われわれはキリストにあって現在賜っている御霊の現実にしっかり立って、キリストがいつ来られてもよいように生きることが大切である。外の出来事に信仰と希望の拠り所を求めるのではなく、内なる御霊の事態を明確に自覚してそこから生きること、それが「目を覚ましている」ことである。