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76 いちじくの木の教訓  13章 28〜31節

 28 「いちじくの木から譬を学びなさい。その枝が柔らかになり葉が出てくると、夏が近いことが分かる。 29 このように、あなたがたもまた、これらの事が起こるのを見たならば、人の子が戸口まで近づいているのを知るのである。 30 あなたがたによく言っておくが、これらの事がすべて起こるまでは、この世代は過ぎ去ることはない。 31 天地は過ぎ去るであろう。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることはない」。

冬のさなかで

 エルサレム神殿崩壊の予言をきっかけにして始まったイエスの終末予言は、前段の「人の子の顕現」をもってクライマックスに達する。それ以上のこと、あるいはそれ以後のことはもはや人の言葉で表現できる次元のことではない。後は、その時に備える心構えを諭すことだけが残る。本段落と次の段落でその心構えが語られて、終りの日のことを主題とするイエスの遺訓は締めくくられる。
 その心構えを諭すのに、まずいちじくの木が譬として用いられる(二八〜二九節)。パレスチナでは冬にも葉を落とさない木が多いのであるが、その中でいちじくの木は冬には葉を落し、夏の収穫の時期が近づくと裸の枝に生気がみなぎり葉を繁らせるというように、季節の移り変わりをはっきりと見せる木である。それで、しるしを見て時を悟るための教訓の材料にされたのであろう。
 しかし、いちじくの木に葉が出てきたから夏が近いことは、誰でも知っている当り前のことである。それがどうして教訓になるのであろうか。この譬が教えようとしていることを理解するためには、パレスチナでは冬の雨期の後にきわめて迅速に夏がくるという事情を考慮に入れなければならない。
 周囲はまだ冬の様相を見せているのに、その中でいちじくの木の裸の枝が柔らかくなり、小さな若葉を出し始める。それは夏の姿が何も見えない所で、夏が近いことを示すしるしである。その小さい葉は、厳しい冬の現実の中で、輝く夏の日がすぐ間近に到来していることを示している。目に見えない所で夏は確実に近づいている。この対照がこの譬の主眼点である。
 日本の季節で言うならば、寒中に咲き始める梅の花であろうか。雪の中に梅が匂うとき、われわれは春がすぐ近くに来ていることを、冬の寒さの中で悟る。そのように、「これらの事が起こるのを見たならば」、すなわち、ここで予言された様々な苦難が起こるのを見たならば、それは神の栄光の顕現が近づいていることのしるしである。それによって「人の子が戸口まで近づいているのを知るのである」。世界の暗闇が深まるとき、その苦難の歴史の背後で神の支配は確実に歩を進めているのであって、それは突如栄光の中に現れる。その対照がいちじくの木の譬で語られているのである。
 「時のしるし」については、ルカ福音書(一二・五四〜五六)で終末的な苦難とは関係のない文脈で語られているところがある。そこでは、「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」と言われている。そこではイエスの出現と働きの全体が時のしるしとされていると理解できる。そのように、このいちじくの木の譬も、それだけを取り出せば、イエスの働き全体を時のしるしとして理解する可能性もあるが、すくなくともマルコはそれを終末に関するイエスの遺訓の締めくくりの位置に置いて、苦難に直面する信徒たちへの励ましとしているのである。

この世代に

 さらに、「人の子の顕現」の時が迫っていることが、「アーメン」で始まる荘重な句で強調される。

「あなたがたによく言っておくが、これらの事がすべて起こるまでは、この世代は過ぎ去ることはない」。(三〇節)

 これは、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という言葉で始まるイエスの重大な発言(マルコでは十三箇所に出てくる)の一つである。ここでイエスは、イエスと共に立っている今の世代の者たちが、ここで語られた終末の出来事のすべてを体験することになると断言しておられるのである。ところが後になって、イエスと同じ世代の者が生きている間にパルーシアは起こらなかったので、この言葉を別の意味に解釈する考え方が生じた。すなわち、ここで「世代」と訳したギリシア語《ゲネア》には人種という意味もあるので、この句をユダヤ民族が終りの日まで存続して終末を体験することを語ったものとする理解するのである。しかしこれは、このギリシア語の背後に想定されるアラム語に人種という意味がないので、イエスの言葉の意味としては無理である(エレミアス)。イエスはあくまで「この世代」が「人の子の顕現」も含めて終末のドラマを体験することになると言っておられるのである。
 それは九章一節に伝えられている御言葉と同じである。そこでも「アーメン」で始まる荘重な形式でこう言われている。

「よく言っておくが、ここに立っている者たちのうちに、神の国が力をもって来るのを見るまで、死を味わない者がいる」。

 その箇所の講解で触れたように、イエスはご自分の受難の後に来る栄光の顕現を一体のものと見ておられるので、それがこの世代の者たちが生きている間に来ると断言しておられるのである。たしかに、イエスの復活と聖霊の降臨によって、その世代の者たちは「神の国が力をもって来るのを見る」体験をしたのであった。しかし、その現在の体験の中で、最終的な「人の子の顕現」は将来の待望として残された。イエスが一体のものとして語られた終末の出来事を、なお時間の中にある教団は、すでに現在に起こったという相と将来にその完成を待ち望むという相、互いに深く関連する二つの相において体験することになるのである。地上のすべての世代は「この世代」と共に、このような構造で終末を生きるのである(詳しくは九章一節の講解を参照のこと)。

「天地は過ぎ去るであろう。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることはない」。(三一節)

 前節で用いられた「過ぎ去る」という動詞をさらに二度重ねて用いて、そこで語られたことが確かであることを保証する言葉が続く。ところで、イエスは他の箇所で、同じ表現を用いて律法の言葉が永遠であることを確認する言葉を語っておられる。イエスはこう言っておられる、

「天地が過ぎ去るまで、律法から一点一画も過ぎ去ることはなく、すべてが成就するに至る」。(マタイ五・一八私訳、なおルカ一六・一七も参照)

 ここで言う「律法」はモーセを含む旧約のすべての預言者の言葉、すなわち旧約全体を指すと見るべきであろう。しかも、その旧約を指して「昔の人はこう命じられている。しかし、わたしは言う」と言って、ご自分の言葉をモーセの言葉に優る権威をもつものとしておられる。この背景から見ると、本節の言葉は本来、たんに一つの予言の言葉を確証するためのものではなく、イエスの言葉全体の永遠性を宣言するものであろう。そのような性質の言葉をマルコはここに置いて、ここで語られたイエスの終末予言の確かさを保証し、読む者の信仰を励ますのである。