市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第15講

74 患難の日  13章 14〜23節

 14 「ところで、『荒す忌むべきもの』が立ってはならぬ所に立つのを見たら(読む者は悟るように)、その時には、ユダヤにいる者は山地に逃れよ。 15 屋上にいる者は下に降りるな。また、中のものを持ち出そうとして家に入るな。 16 畑にいる者は、上着を取りに家に戻るな。 17 それらの日に身重である女と乳を飲ませている女は不幸なことだ。 18 このことが冬に起こらないように祈りなさい。 19 それらの日には、神が万物を造られた創造の初めから今にいたるまでなく、また、これからも決してないような患難が起こるからである。 20 もし主がその日の数を短くしてくださらなかったら、誰ひとりとして救われる者はないであろう。しかし、選ばれた民のために、主はその日の数を短くしてくださっているのである。
 21 そのとき誰かが、『見よ、メシアはここにいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、信じてはならない。 22 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや奇跡を行い、できれば選民をも惑わそうとするからである。 23 だから、あなたがたは気をつけていなさい。あなたがたにはすべてのことを前もって言っておく」。

「荒らす忌むべきもの」

 前段でしたように、ここでもまずこの福音書が書かれた時代の状況に身を置いて読んでみよう。前段でも見たように、この福音書が書かれ信徒たちに読まれるようになった時代には、パレスチナの地はユダヤ戦争の渦中にあって騒然としていた。この戦争は六六年に始まるのであるが、その前後にエルサレムの教会はヨルダン川東岸の古い町ペラに脱出している。教団はすでにイエスの預言によってエルサレム神殿の破滅が避けられないことを知っていたのであるが、いよいよ事態が迫ってローマの軍勢がパレスチナに押し寄せてきた時、霊感を受けて教会の中で語る預言者たちに促されて、脱出を決行したと考えられる。
彼らは「主は言われる」という言葉で、即刻エルサレムから逃れるように促したのであろう。その預言の言葉はルカ福音書二一章二〇〜二四節に伝えられており、マルコもここでその状況で語られた預言を引用していると見ることができる。ルカの場合はエルサレム陥落はすでに数十年前の歴史になっているのであるから、「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」という歴史的事実に忠実な表現を用いて書かれているが、マルコの場合はその出来事の現場で書いているのであり、差し迫った未来の予言としてそのまま引用しているので、「『荒す忌むべきもの』が立ってはならぬ所に立つのを見たら」という予言特有の謎めいた表現を残している。
 この「『荒す忌むべきもの』が立ってはならぬ所に立つ」というのはダニエル書(九・二七、一一・三一、一二・一一)からの引用である。ダニエル書では、前一六八年にシリアの王アンティオコス四世エピファネスがエルサレム神殿の祭壇を除いて、代わりに異教の祭壇をおいた事件(マカバイT一・五四〜五九)を事後預言として述べているのであるが、この出来事は以後終末を語る黙示文学に大きな影響を及ぼすことになる。
 新約時代においてもすでに四一年に、ローマ皇帝カリグラが支配下にある諸民族の神殿で自分が神として崇められることを求め、エルサレムの神殿にも自分の立像を建立することを要求した。ヨセフスの伝えるところによると、カリグラはこの要求を実現するためにシリアの地方総督ペトロニウスをその軍団とともに派遣したのであるが、彼がユダヤ人の捨身の抵抗と懇願の前に立ち往生している間にカリグラが暗殺され、この企ては実現しなかった。しかし、この事件は黙示録的な終末待望に生きる人々の心に深刻な刻印を残した。ダニエルが語った「荒廃をもたらす忌むべきもの」が「立ってはならないところ」すなわち聖なる神殿に立てられようとしたのである。
 カリグラの時はなんとか阻止できたが、いまエルサレムに向かって進撃してくるローマの軍勢が神殿を汚し破壊することはもはや阻止できないであろう。今度はイエスが予言されたように神殿は破壊され、「『荒す忌むべきもの』が立ってはならぬ所に立つ」のを見ることになるであろう(事実、七十年に神殿が破壊された時、ティトスは神殿跡にローマの神を祭るユリア・カピトリヌス神殿を建てている)。そのような事態が迫っている。この予言の意味を「読む者は悟るように」と著者(あるいは写本の段階での挿入)は促す。その時、ゼーロータイの者たちと共にエルサレムにたてこもって戦うようなことはしてはならない、安全な場所に逃れよ。主はそう語られる、と霊感を受けた預言者たちが叫んだのであろう。その避難は急を要することが預言者的な緊迫感に満ちた文体で語られる。

すぐに逃れよ

 「その時には、ユダヤにいる者は山地に逃れよ。屋上にいる者は下に降りるな。また、中のものを持ち出そうとして家に入るな。畑にいる者は、上着を取りに家に戻るな。それらの日に身重である女と乳を飲ませている女は不幸なことだ。このことが冬に起こらないように祈りなさい」。(一四〜一八節)

 ユダヤにいる者は戦場になるユダヤの地を逃れて山地に隠れよ。それは一刻の猶予も許されない事態である。屋上にいる者は避難に必要なものを取りに室内に降りてはならない。屋上からすぐに外に逃れよ(たいていの家には外階段がついていた)。畑にいる時は必要でなかった防寒用の上着を取りに家に戻るな。畑からすぐ山地に逃れよ。そんな時に身重である女とか乳を飲ませている女は不幸だと言うほかはない。もしそれが冬に起こると、大雨のためにワジ(涸れ谷)が渡れなくなり、飢えをしのぐ食べ物を山野に見つけることができず、逃避行はますます悲惨になるであろう。この事態はもはや避けることはできないが、せめて冬に起こらないように神のあわれみを祈り求めよ、というのである。ここに語られている苦難はきわめて具体的である。ここではユダヤ戦争の悲惨な結末が予言されていることが分かる。しかし、この苦難はたんにユダヤ民族の歴史的苦難であるだけでなく、地上における終末的苦難の最終局面であるという意義もあることが続いて語られる。

「それらの日には、神が万物を造られた創造の初めから今にいたるまでなく、また、これからも決してないような患難が起こるからである」。(一九節)

 ここで語られているエルサレム陥落と神殿破壊にともなう神の民の苦難は、「創造の初めから今にいたるまでなく、また、これからも決してないような患難」、すなわち歴史の中で最大でかつ最後の患難だというのである。これこそ、黙示文書が語っていた終りの日に先立つ終末的苦難である。この苦難の直前に書いているマルコは、「もし主がその日の数を短くしてくださらなかったら、誰ひとりとして救われる者はないであろう」と、その苦難の激しさの予感におののきつつも、「しかし、選ばれた民のために、主はその日の数を短くしてくださっているのである」と、すぐその後に来るはずの救済の時、栄光の時を待ち望むように信徒を励ますのである。ここで「選ばれた民」とは、直接にはこの患難に遭遇するイスラエルの民を指しているのであるが、それと同時に、この世界終末の患難の時代を迎えることになる教団全体を視野に入れて語られていると考えられる(二〇節)。
 この患難の時代における「選ばれた民」の最大の危険は、「反キリスト」に誘惑されて真のキリスト信仰から脱落し、神の民の資格を失うことである。黙示録的伝統ではキリスト来臨に先立つ大患難時代には「反キリスト」の出現も予告されているからである(テサロニケU二章の「不法の者」、黙示録一三章などの「獣」もその伝統に属する)。
 「反キリスト」の「反(アンティ)」は、キリストに反抗して信徒を迫害するというだけでなく、自分がキリストであると僭称して自分に対する信仰を要求する「偽キリスト」という意味も含んでいる。そこで二一〜二二節の警告が真剣に語られることになる。

「そのとき誰かが、『見よ、メシアはここにいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや奇跡を行い、できれば選民をも惑わそうとするからである」。(二一〜二二節)


偽預言者とは偽りの預言によって「反キリスト」を拝ませようとする者たちである。このような危険を目前にして、霊感を受けた預言者たちが主イエスの名によってこの警告の言葉を語ったのであろう。

「だから、あなたがたは気をつけていなさい。あなたがたにはすべてのことを前もって言っておく」。(二三節)

報復の日

 さて、七十年にエルサレムが陥落して神殿が破壊され、この予言が成就したのであるが、その後で書かれたマタイ福音書とルカ福音書の並行記事を見ると、この出来事についての両者の扱い方が違うことに気づく。
 マタイ(二四・二一〜二五)は、エルサレム陥落にともなうユダヤ人の苦難を世界的な終末の患難とするマルコの言葉(一三・一九〜二三)をそのまま用いている。マタイはおもにユダヤ人信徒に向かって書いているので、ユダヤ人について語られたこの予言を成就の後もそのまま残している。おそらく、ユダヤ教黙示思想の領域では「荒す忌むべきもの」に象徴される「反キリスト」の到来と、その前兆としての偽メシア、偽預言者たちの出現に対する警告がなお重要な意味を持っていたからであろう。
 それに対してルカはマルコの言葉を用いないで、代わりにこう書いている。

「(それは)書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。・・・・この地には大きな苦しみがあり、この民(ユダヤ人)には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」。(二一・二二〜二四)。

 ルカはこの出来事の数十年後に、おもに異邦人に向かって書いている。ルカは、エルサレム陥落にともなうユダヤ人の苦難が世界的な最終の苦難であり、その後すぐにキリストの栄光の来臨があるとはもはや考えられなくなった時代に書いているのである。エルサレムの陥落とユダヤ人の離散はすでに数十年前の歴史になっており、それはもはやパルーシア前の終末的苦難ではなく、かたくなに不信仰を続けてきたユダヤ人に対する神の報復の日、神の怒りが下った出来事であるとされる。
 その後もずっと教団はキリストのパルーシアを待ち望みつつ、歴史の中を歩んでいる。エルサレムが陥落し神殿が崩壊した後、キリストの来臨までの間に「異邦人の時代」が入ってくるというルカ特有の救済史観がここに表明されることになる。このようなルカの受け取り方と対照して見るとき、ここでのマルコの言葉(一九〜二〇節)は、マルコと彼の時代の教団が置かれていた状況から出たものであることが理解できる。