市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第13講

     終末の章




72 神殿崩壊の予言  13章 1〜2節

 1 イエスが神殿から出て行かれる時、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんください。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょうか」。 2 するとイエスは言われた、「あなたはこの大きな建物に気をとられているのか。崩されないままの石の上に残る石は一つもないようになるのだ」。

予言者としてのイエス

 イエスは、エルサレムに入られてからはもっぱら神殿で活動された。神殿で鞭を振るい商人を追い出すという激しい象徴行為をされ、また神殿で敵対する勢力と対決された。その最後の活動を終えて神殿から出て行かれる時、弟子たちに神殿の徹底的な崩壊の予言を語られる。この予言はごく短い言葉であるが、イエスの死に結びつく重要な予言行為である。
 弟子たちは、「なんという見事な石、なんという立派な建物でしょうか」と言って、神殿の壮麗さに改めて驚嘆している。この時の神殿は、捕囚後再建された第二神殿をヘロデ大王が修築したもので、大理石に輝く華麗な神殿は、当時のヘレニズム世界の「七つの驚異」の一つとされていた。ヘロデ大王による修築工事は紀元前一九年に始められ、紀元前九年には一応献堂されたが、さらに工事は継続されて完成したのは紀元後六四年であった。イエスの時代には、「この神殿を建てるのに四十六年もかかった」と言われている(ヨハネ二・二〇)。
 イエスが神殿の崩壊を予言されたのは、弟子たちだけでなく外の人々も聞いていた。おそらく神殿粛清の時(他の時の可能性もある)なんらかの表現で神殿の崩壊を語られ、それを祭司長や律法学者を含む多くの人々が聞いたのであろう。そのことがイエスを殺そうとする直接の動機となり(マルコ一一・一八)、イエスの裁判の時に、「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」という訴えとなり(マルコ一四・五八、マルコは五七節でこれを偽証としているが、それは言葉遣いについての捏造であって、イエスが神殿の崩壊に触れられた可能性は残る)、さらに、十字架の上のイエスに対する、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ一五・二九〜三〇)という通りすがりの者の嘲笑の言葉となったのである。
 神殿は神の民としてのイスラエルの存立の拠り所である。その神殿の崩壊を公然と語るような者をどうして生かしておくことができようか。昔、神殿の壊滅を予言した預言者たちも迫害され、エレミヤは死刑にされるところであった。イエスは自分の命をかけて神殿の崩壊を予言されるのである。地上のイエスの働きを預言者としての面からみると、イエスはイスラエルの最大の歴史的出来事の直前に、それを予言すべく神から遣わされた預言者である。バビロン捕囚の前には多くの預言者が遣わされた。いま、はるかに重大な出来事を前にして、一人の預言者も遣わされないことはあろうか(アモス三・七)。いま、イエスは真に神から遣わされた預言者として、イスラエルにその避けられない壊滅を語られるのである。
この言葉が事後予言でないことは、実際には七十年に神殿は炎上して滅びるのであるが、イエスの言葉には火災を示唆する表現がないことからも十分うかがわれる。「崩されないままの石の上に残る石は一つもないようになる」という表現で、イエスは建造物の破壊のされ方を予言されたのでなく、神殿を拠り所とするユダヤ教の宗教体制の徹底的な壊滅を予言されたのである。