市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第12講

71 寡婦の献げ物  12章 41〜44節

 41 イエスは賽銭箱の向い側に座って、人々が賽銭箱におかねを投げ入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん投げ入れていた。 42 すると、ひとりの貧しい寡婦がやってきて、レプタ二枚を投げ入れた。それは一コドラントにあたる。 43 そこで、イエスは弟子たちを呼び集めて言われた、「よくあなたがたに言っておくが、この貧しい寡婦は、賽銭箱に投げ入れた誰よりも多く投げ入れた。 44 みな余っているものの中から投げ入れているが、この寡婦は乏しい中から、持っているもの全部、自分の生活すべてを投げ入れたからである」。

自分を捧げる信仰

 「賽銭箱」というのは、日本の神社の前にあるような四角い木箱ではなく、ラッパ形の容器であって、神殿の「女子の庭」に十三個が置かれていたと伝えられている。神殿に詣でる人々は、この容器に献金のおかねを投げ入れるのであるが、たくさんのおかねを投げ入れている人々の間に、ひとりの貧しい寡婦がレプトン銅貨二枚を投げ入れるのを、イエスはごらんになった。
 レプトンというのはギリシア貨幣の最小単位で、マルコはこのレプトン銅貨二枚でローマ貨幣の一クァドランスに相当すると説明を加えている。当時のパレスチナにはイスラエル固有の貨幣であるシェケルの他に、ギリシア貨幣やローマ貨幣が入り乱れて流通していたので、ローマ貨幣に馴染んでいる読者のためにこのような説明が必要になったのであろう。クァドランスは、ローマ貨幣の基本単位であり一日分の給料に相当するデナリオン銀貨の六四分の一であるから、その半分のレプトン銅貨は、現在の日本の生活感覚からすれば百円玉ぐらいになるのであろう。レプトン二枚はささやかな金額であるが、その日暮しの寡婦にとっては、その日の食べ物を買うための最後の二枚、すなわち生活費の全部であったのであろう。一枚を自分のためにとっておくこともできたのに、二枚とも投げ入れたところに、この寡婦が自分の存在すべてを神の手に委ねている心が表れている。
 これをごらんになったイエスは、弟子たちを呼び集めて言われた。「よくあなたがたに言っておくが、この貧しい寡婦は、賽銭箱に投げ入れた誰よりも多く投げ入れた」。レプトン二枚は誰よりも少ない金額である。しかし、イエスは投げ入れる者の心を見られる。イエスが重大な発言をされるときの、「よくあなたがたに言っておく」が用いられていることからも、この教訓が決して小さい事柄でないことが分かる。この寡婦の姿は信仰の本質をよく表現している。信仰とは神との関わりの中に生きることであるが、人間は普通自分が持っているものの中の余りを神に捧げて、神からよいものを手にいれようとしている。自己を確保した上で、外にいる神を利用しようとする態度である。それに対してこの寡婦は、自分の貧しさの中から、自己のすべてを神に投入れ、委ね切っている。それが聖書のいう信仰である。イエスはこの寡婦の姿を教訓として、弟子たちに信仰の本質を教えられる。「みな余っているものの中から投げ入れているが、この寡婦は乏しい中から、持っているもの全部、自分の生活すべてを投げ入れた」。これが信仰である。
 よく似た物語は多くの宗教に見られる。おそらく、この寡婦の物語も独立の伝承として伝えられていたものであろう。マルコはこの信仰の教訓を、律法学者たちの自己顕示の偽善の攻撃の直後に置いて対照させ、神殿における律法学者たちとの論戦を締めくくる。