市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第11講

70 律法学者に気をつけよ 12章 38〜40節

 38 また、イエスは教えの中で言われた。「律法学者には気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩きまわり、広場で敬礼されるされることや、39 会堂の上席、宴会の上座に座ることを好み、40 寡婦の家を食いあらし、見栄で長い祈りをする。このような者たちは、誰よりも厳しい裁きを受けるであろう」。

ファリサイ派

 マルコはこの福音書の初めから、イエスの宣教が律法学者と厳しく対立するものであることを語ってきた。そして最後にエルサレムの神殿において、律法学者を代表とするユダヤ教諸派と対決するイエスを描いたのであった。その最後の論戦を締めくくるのに、マルコは律法学者に対するイエスの厳しい断罪の言葉を置く。マルコの表現はごく短くて簡潔であるのに対して、これと並行するマタイの箇所(二三章)はきわめて長くて詳細である。マタイは章全体にわたって、律法学者を非難する言葉の伝承を集めうるかぎり集めているという感じがする。これは、マタイが律法学者に指導されるユダヤ人会堂との厳しい対決の中で、ユダヤ人信徒に語りかける福音書であるからであろう。
 「律法学者」については、これまでも折りに触れて解説的なことを書いたが、ここでもう一度まとめておこう。そのためには、新約時代において「律法学者」は実質的には「ファリサイ派」と重なっている(マタイ二三章では両者が一括されている)ので、まず「ファリサイ派」のことを語らなければならないことになる。「ファリサイ派」の成立の事情とそのメシア待望については、前段の講解でごく簡単に触れた。ファリサイ派は、異教の強制に対抗してヤハウェの律法を忠実に守ろうとした「ハシディーム(敬虔な者たち)」の運動から発生した。
 彼らの宗教的立場の最大の特色は「二重の律法」である。すなわち、モーセ五書に書かれている成文律法(トーラー)の外に、彼らが「昔の人の言伝え」としている口伝の律法(ハラカ)も同じ権威を持つ神の律法として認めたことである。彼らはそれぞれの時代の状況に応じて律法を解釈しその適用を図った。師から弟子へ口頭で伝承される彼らの律法解釈が、モーセから伝えられた伝承として神の権威を持つとされた。彼らはこう主張した。神はモーセに成文律法と口伝律法の二重の律法を与えた。口伝の律法はモーセからヨシュア、長老、預言者、エズラと大シナーゴグを経て律法学者に伝えられた。祭司には伝えられなかったのであるから、祭司は律法に対する権威をもっていない。成文律法は一点一画も変えられないが、口伝律法は固定されていないので、各時代の律法学者はその時代の律法の内容を決定する権限をもつ、というのである。彼らが「モーセの座に着いている」(マタイ二三・二)と言われるのはそのためである。
 このような主張に対して、ザドク系の祭司であることを誇る神殿で主流のサドカイ派は成文律法以外をいっさい認めず、口伝律法の権威を主張する律法学者たちを「パルーシーム(分離者)」、すなわち正統の教えから離れる者、異端者と非難した。「ファリサイ」という名称はここから来ている(後に、彼らが律法を厳格に守ることのできない一般の民衆から自分たちを区別して用いた名称である、という説明がされるようになる。この説明はたしかに彼らの一面を示しているが、名称の起源としては誤解であろう)。このような事情から、「律法学者」は「ファリサイ派」であって、福音書においてこの二つの名称はしばしば等置されることになる。
 ファリサイ派の基本的教義は次のようにまとめられる。
(一)父である神は個人を愛されたので、
(二)イスラエルに二重の律法を啓示された。
(三)それで、この律法を内面化し、律法学者の教えに従う個人は、死後その魂が来るべき世において神と共なる生を受け、さらに遠い未来に復活の体に合わせられるようになる。
 彼らの関心は民族ではなく個人の救済に向かっている。個人が「来るべき世」の命と「復活」にあずかることが救いである。そのために二重の律法の順守が求められる。この教義は、あくまでモーセ五書に書かれている内容に留まり、「来るべき世」や「復活」を認めず、民族の救いに固執するサドカイ派と著しい対照をなしている。こうしてまとめてみると、ファリサイ派の教義は、彼らが対決した相手であるヘレニズム世界の文化から深い影響を受け、その文化にうまく適合するような内容になっている。そのような内容の展開は、それぞれの時代に適合するように律法を解釈し、それを伝承し蓄積してきた律法学者たちの働きの結果である。
 また、この教義はキリスト教と多くの点で重なっていることに気づく。考えてみれば、イエスも弟子たちもこのようなファリサイ派の教義が支配的なイスラエルに育ち、パウロに至っては熱心なファリサイ派の学者であったのだから、これは当然のことであろう。イエスや初期の教団がファリサイ派と根本的に異なるのは、救いの根拠をどこに求めるかの問題である。ファリサイ派はあくまで律法の順守を救いの根拠とした。それに対して、イエスも教団も「律法とは別に」救いを根拠づけた。すなわち信仰である。それは恩恵の支配への委ねであり、十字架復活のキリストとの結びつきである。もはや律法は救いの根拠ではない。この点で律法学者はイエスを憎み殺すに至り、キリスト信徒を会堂から破門するようになったのである。

律法学者の偽善

 このような根本的対立は、すでにマルコ福音書の全体が描いてきた。いま神殿での最後の対決の締めくくりとして、イエスが律法学者に投げかける批判は、もはやこのような根本問題ではなく、彼らの偽善という面に限られる。
 「彼らは長い衣を着て歩きまわり、広場で敬礼されることや、会堂の上席、宴会の上座に座ることを好み、寡婦の家を食いあらし、見栄で長い祈りをする」。「長い衣」は律法学者の身分をあらわす衣で、特に長く、ゆるやかにたれている。これを着て歩いていると、どこでもすぐに律法学者であることが分かるので、一般の人々から「ラビ(先生)」として特別の敬意をこめた挨拶を受けることになる。
 ユダヤ人の宗教生活と社会生活全般の中心になるシナゴーグ(会堂)では、「上席」に、すなわち聖書が納められている聖ひつ前方の長椅子に会衆に向き合って座る。宴会があれば「上座」に座って、その地域社会で最も重要な特別の人物として扱われることを当然とする。このように彼らは自らを、神の御心を示す律法に精通し民衆を指導する立場にある者であるとしながら、実は「寡婦」に代表される小さい者、弱い者に「背負いきれない重荷を負わせる」だけで、律法の重荷を負いきれないで苦しむ者たちを見下げている。
 彼らの中には特別な立場にいることを利用して、実際弱い立場の寡婦の家から強欲に資産を奪うようなことをする者もいたのかも知れない。彼らが「長い祈り」をして宗教に熱心であるように見えるのは、内にある強欲を隠して人々から立派な宗教者であると認めてもらいたいからに過ぎない。彼らは外面では律法を厳格に守る信心深い者と見せかけているが、実際は神が求めておられる最も大切なへりくだった魂とか慈愛の心から遠く、「偽善者」、「目の見えない案内人」にすぎない。彼らは神の御心を知っていると誇っているだけ、彼らの偽善は「誰よりも厳しい裁きを受ける」ことになると断罪される。
 ここで注目されるのは、律法学者に対するこの最後の対決の中で、彼らの偽善が攻撃されているだけで、彼らの教義そのものは批判されていないことである。このことはマタイでは、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(二三・二〜三)という形で述べられている。「彼らの言うこと」、すなわちファリサイ派の教義はすべて守り行うべき正しいものと認められている。しかし彼らは「言うだけで、実行しない」。教義はあるが、それを実現する力がない。そこに偽善が生れる。福音はファリサイ派の教義を否定するのではなく、それを成就完成する力として来たのである(マタイ五・一七)。先に見たように、ファリサイ派ユダヤ教は旧約の長い歴史の到達点である。キリスト教はこのファリサイ派ユダヤ教を母胎として生まれ、これを完成することによって乗り越える信仰である。福音がもたらす聖霊の力によって初めて、律法は成就され、偽善は克服されることになる。ファリサイ主義は福音にとって最も身近な環境であるだけに、それを克服し乗り越えるのに激しい戦いと強烈な力を必要とすることになる。特に「気をつけなさい」と呼びかけられる由縁である。