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68 第一の戒め  12章 28〜34節

 28 一人の律法学者がこの議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを見て、進み出てイエスに尋ねた。「すべての戒めの中で、どれが第一の戒めでしょうか」。 29 イエスはお答えになった。「第一はこれである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。 30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい』。 31 第二はこれである。『隣の人を自分のように愛しなさい』。この二つよりも大事な戒めは他にない」。 32 そこで、律法学者はイエスに言った。「先生、あなたは真理に基づいてみごとに語られました。たしかに、神は唯一であって、他に神はありません。 33 また、心をつくし、思いをつくし、力をつくして、神を愛し、隣の人を自分のように愛すること、これは焼き尽くす献げ物や犠牲の供え物全部にもまさります」。 34 彼が賢明な答えをしたのを見て、イエスは彼に言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それからはもう、誰ひとりとして、イエスにあえて質問する者はなかった。

第一の戒めへの問い

 「一人の律法学者がこの議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを見て、進み出てイエスに尋ねた」。マタイは並行箇所で「イエスを試そうとして」という句を入れて質問の動機を説明しているが、ここのマルコの書き方にはそういう動機は示唆されていない。マルコによれば、この律法学者はイエスの聖書理解に感心して、日頃自分が感じている問題にイエスならばどう答えられるであろうかと真面目に尋ねたことになる。
 彼は「すべての戒めの中で、どれが第一の戒めでしょうか」と尋ねている。本来ユダヤ教徒にとっては神の戒めに大小軽重の差はなく、どの戒めも神から与えられたものとして厳格に守られなければならないものである。さらに律法学者たちは、時代の変化に対応して彼らが蓄積してきた律法の解釈や守り方の細則を、「昔の人の言伝え」(ハラカ)として、モーセの書に書かれた律法と同じ権威を認めていた(マルコ七・一〜二三の講解参照)。しかし、この時代(一世紀)のユダヤ教においては、あまりにも複雑で膨大な体系となった律法(ユダヤ教)を簡潔に要約する必要が感じられるようになり、六百を超える戒めの中でどれが最も重要な戒めであるのか、すなわち「第一の戒め」の問題が関心を集め、議論されるようになっていた。
 イエスよりもすこし前の有名なラビであるヒレルは、ユダヤ教に改宗を希望する異邦人から、「片足で立っている間に、ユダヤ教の全部を説明してください」と求められて、「あなたにとって痛みとなるようなことは他人にしてはならない。これが律法の全体である。他はみなその解説である」と答えたと伝えられている。イエスもこれと同じことを積極的な形で語っておられる。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ七・一二)。ここでの律法学者の質問はこのような状況においてなされたものである。

シェマ

 当時のユダヤ教で最も重要で基本的な戒めであると認められていたのは、申命記六章四〜五節の「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という戒めである。この句は最初の「聞け《シェマー》」という語から「シェマ」と呼ばれて、ユダヤ教の最も基本的な信仰告白とされてきた。その後「シェマ」の文言は六章四〜九節に拡大され、さらにそれを守る者への祝福と違反する者への災いを語る申命記一一章一三〜二一節、および着物の房のことを定めた民数記一五章三七〜四一節が加えられて、ユダヤ教徒の成人男子はすくなくとも毎日朝と夕べの二回は唱えなければならないとされた。
 「シェマ」の核は申命記六章四節の六語(ヘブル原語で)である。その六語はこのように並んでいる。

「聞け、イスラエル、ヤハウェ、われらの神、ヤハウェ、一つ(の)」。  ヘブライ語は繋辞(〜である)を用いないで文を表現するので、「ヤハウェ、われらの神、ヤハウェ、一つ(の)」の四語をどのように結びつけて理解するのか、翻訳者を悩ませてきた。翻訳の困難は英語の改正標準訳(RSV)が本文の他に欄外に三つの訳をあげていることからもうかがわれる。RSVの本文は「主はわれらの神である、主だけが」と読んでいる。ところが、「主」という訳語は漠然としていて、この文の核心を曖昧にしている。これをイスラエルの神の固有の名である「ヤハウェ」を用いて訳すと、その意味がはっきりする。
 「シェマ」はこう語っている。「聞け、イスラエルよ。ヤハウェがわれらの神である。ヤハウェただひとりだけが」。おそらくこれが本来の意味であろうと考えられる。というのは、申命記は王国時代に民のバアル祭儀に対抗してヤハウェ信仰を確立しようとした預言者たちの働きの総決算のような文書であるから、申命記の精神を要約する文としては、このように理解するのが自然であると言える。
 申命記は預言者たちの精神を継承して民に語りかける。「聞け、イスラエルよ。モーセに現れ、わたしたちをエジプトの奴隷の家から解放し、シナイでわたしたちと契約を結ばれたヤハウェがわたしたちの神である。このヤハウェだけがわたしたちの神であって、バアルやその他の神々を拝んではならない。あなたはこのヤハウェだけを自分の神として、全身全霊をもって愛しなさい。他の神々に心を向けてはならない」。結局、これは十戒の中の最も基本的な戒めである第一戒を言い替えたものであることが分かる。
 ところが、捕囚期以後、もはや他の神々との戦いが問題にならなくなり、ヤハウェなる神の本質に思索が向かうようになって、「シェマ」も神の唯一性を告知する文として理解されるようになる。すくなくともその面に重点が移ることになる。神はただひとりしかおられない、神は唯一であるということが、ユダヤ教の最も基本的な信条となる。旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳聖書も「シェマ」をこのような理解で訳している(ここで引用した新共同訳の「わたしたちの神である主は、唯一の主である」と同じ)。信仰深いユダヤ教徒の理想は、この「シェマ」の六語を口にして死ぬことであった。ラビ・アキバは殉教の時、苦しみの中でこの六語を唱えて息絶えたと伝えられている。このように命がけで神が唯一であることを告白することが、「力をつくして主を愛する」ことであるとされた。

隣人への愛

 「どれが第一の戒めでしょうか」と尋ねた律法学者に、イエスはお答えになった。

 「第一はこれである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい』」。

イエスは「シェマ」を引用しておられるのである。これが第一の戒めであることについては、どの律法学者からも異論はないはずである。逆に言えば、イエスがこれを第一の戒めとされたことは何も新しいことではないと言える。では、ユダヤ教の律法学者たちとイエスの違いはどこにあるのか、イエスの新しさはどこにあるのかが問題になる。
 それはまず、イエスがすぐに続けて、

「第二はこれである。『隣の人を自分のように愛しなさい』。この二つよりも大事な戒めは他にない」。

と言われたことにある。「第一の戒め」が問題になっているのに、イエスは「第二の戒め」も加えておられる。しかし、これは並列する別々の二つの戒めを語っておられるのではなく、二つを一体として「第一の戒め」としておられるのである。それは、「この二つよりも大事な戒めは他にない」と言って、二つを一体として、他のすべての戒めとは別格のものとして扱っておられることからも分かる。マタイは「第二も、これと同じように重要である」と明確に述べている(二二・三九)。この二つが一つにされることによって、「シェマ」も新しい意味を獲得する。それはもはや神の唯一性を告白する信条にとどまらず、「隣の人を自分のように愛する」という人間の具体的なあり方が、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛する」ということの内容になってくるのである。
 「隣の人を自分のように愛しなさい」というのは、レビ記一九章一八節の「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」から来ている。これは捕囚期に成立したとされる「神聖法典(あるいは聖潔法典)」の中の一節であるが、預言者の精神をよく受け止めて、実に高い倫理性に到達している。とくに、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」の一句は十戒の後半部分、すなわち人と人との関わりを規定する戒めの部分を見事に要約している。それで、ラビたちもしばしばこれを律法、とくに人倫に関する戒めの要約として引用するようになった。先にあげたヒレルのユダヤ教の要約もこの線上にある。また、パウロが「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」(ロマ一三・九)と言うとき、この伝統を継承しているわけである。
このように、「シェマ」と並んで隣人への愛を基本的な戒めとしてあげることは、あまり多くはないが、すでにユダヤ教においても見られるようになっていた。この関連で興味深いのはルカ福音書一〇章二五〜三七節の「善いサマリヤ人の譬」の箇所である。そこでは、ある律法学者がイエスを試そうとして、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのに対して、イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と質問される。すると彼は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えている。ここでは、イエスではなく律法学者が、律法をこの二つの基本的な戒めに要約しているのである。これがルカの作文ではなく、当時のユダヤ教の状況を反映している伝承とするならば、ここにも、すでにユダヤ教の側に律法の全体をこの二つの戒めに要約する伝統ができていたことが示されていることになる。

自分を愛するように

すると、イエスが「どれが第一の戒めでしょうか」という質問に対して、「シェマ」と隣人への愛の二つをあげて答えられたのは、何を意味することになるのであろうか。すでに当時のユダヤ教が到達していた律法理解を繰り返されただけであろうか。たしかに言葉の上ではそうである。しかし、言葉の上では同じでも、イエスと律法学者との間には根本的な違いがある。
 それはまず第一に、イエスの答えに同意を示して立派な応答をしたこの律法学者にイエスが言われた言葉に示されている。彼は「先生、あなたは真理に基づいてみごとに語られました。たしかに、神は唯一であって、他に神はありません。また、心をつくし、思いをつくし、力をつくして、神を愛し、隣の人を自分のように愛すること、これは焼き尽くす献げ物や犠牲の供え物全部にもまさります」と言っている。彼はイエスの答えに同意するだけでなく、神を愛し、隣の人を自分のように愛することがすべての祭儀にまさって神が求めておられる重要なことであるという理解を示している。
 彼が賢明な答えをしたのを見て、イエスは彼に「あなたは神の国から遠くない」と言っておられる。この言葉にイエスと律法学者との距離が明白に出ている。彼の律法理解はたしかに正しい方向を向いている。彼はイエスがその中におられる「神の国」の近くまで来ている。しかし、なお一歩が足りない。「神の国」に入るのに必要なことは、律法を正しく理解していることではなく、律法が求めるところを成就していることである。ルカ福音書一〇章でも、立派に律法を要約した学者に、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言っておられる。この一歩の差は小さいようで実に大きい。
イエスは「隣の人を自分のように愛する」ことの具体な形として、自分にとって何のお返しも期待できない人でも、極限の場合、敵であっても愛するように求めておられる(ルカ六・三三〜三六)。「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねた律法学者に、イエスが「善いサマリヤ人の譬」を語られたのも、このような隣人愛の質を示すためであった。
 自分を愛するのは自分の価値と何の関わりもないように、相手の価値には無関係に、相手が自分に何を返してくれるかとは無関係に、無条件で人を受け入れ愛することが求められている。「自分のように」とは、「自分を愛するのと同じ程度に熱心に」ということではなく、「自分を愛するのと同じように無条件で」という意味である。そして、その無条件の愛の根拠として、神がそのような質の愛をもってわたしたちを愛してくださったことがあげられている。
 イエスは語っておられる。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ六・三六)。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ五・四八)。「完全」というのは、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というイエスの言葉が説明しているように、相手の価値に絶した、絶対無条件の愛の質を指している。わたしたちはそのような質の神の愛を受けて神の子とされているのだから、隣の人をそのような質の愛で愛するようになるのである。
 「あなたがたの父が憐れみ深いように」とか、「あなたがたの天の父が完全であられるように」というのは、わたしたちの愛の目標ではなく、わたしたちの愛が成立する根拠である。この神の愛を体験していなければ、「隣の人を自分のように愛する」ことはできない。ここにイエスと律法学者との違いがある。イエスが隣人への愛を「シェマ」と結びつけてその内容とされる時、それはこのような神の絶対無条件の愛の表現としてである。イエスが宣べ伝えられる「神の国」とは、まさにこの神の愛、無条件の恩恵の圧倒的な支配の現実である。イエスはその現実の中に生き、その現実がもたらす人間のあり方を、この二つにして一つの根本規定によって表現されるのである。それに対して、律法学者がすべての戒めをこの二つに要約するとき、それはあくまで神からの要求に止まっている。彼は正しい方向に向かっている。彼は「神の国から遠くない」。しかし、「神の国」の現実には入っていない。この戒めを成就する神の無条件絶対の恩恵の世界を知らないからである。

律法の成就

 イエスと律法学者の違いの第二は、「この二つよりも大事な戒めは他にない」という言葉の意味の違い、あるいはその重要性の違いに対する真剣さにある。この違いはイエスの命を奪うほどの深刻な違いである。律法学者たちも律法をこの二つに要約するとき、この二つが他のどの戒めよりも重要であることを認めている。しかし、その重要性の違いは相対的である。この二つは重要性の序列の頂上にあるが、それ以下の戒めも神の戒めであることを止めたわけではない。どの戒めも神からのものとして厳格に守られなければならない。すべての戒めを守ることが神との関わりの基礎である。この律法主義の立場は変わらない。
 ところが、イエスにおいては、この二つにして一つである戒めと他の戒めの重要性の違いは絶対的である。すなわち、この根本的な戒めに関わりのないものや反するものは、「昔の人の言伝え」はもちろん、モーセの律法に書かれていることであっても、神の戒めではないのである。イエスが「この二つよりも大事な戒めは他にない」という言葉をこのような意味で語っておられることは、言葉の詮索からはでてこない。その宣教の働きの全体で示された律法に対するイエスの態度から分かることである。
 たとえば、市場から帰ってきて手を洗わないで食事をすることは、「昔の人の言伝え」に違反する行為である。しかし、手を洗うという行為は隣人を愛することと関わりのないことであるし、かえってその規定は隣人を汚れた人として拒否する心を示すだけであるから、イエスはそれを神の戒めではないとされた。また、イエスが遊女と食卓を共にして交際されたとき、律法学者たちはそれを非難した。遊女は神の戒めを守ることができない生活をしている汚れた者だからである。しかし、イエスは背く者を無条件で受け入れてくださる神の慈愛をもって愛されたので、律法違反の生活をしている遊女をも仲間とされたのである。隣人への愛が律法の規定を無視させるのである。
 典型的なのは安息日の律法に対するイエスの態度である。安息日を守ることはモーセの律法の中でもとくに大切なものとされていた。ところが、イエスは苦しんでいる隣人を助けるためには安息日の定めを破ることを当然とされた。このように律法を無視するようなイエスの行為や言葉に、律法学者たちが激怒して、イエスを殺すに至ったのである。
 しかし、イエスは律法を無視しておられるのではない。イエスは律法を真剣に受け止めておられる。「第一の戒め」を尋ねられて、イエスは当時のすぐれた律法学者たちにまさる仕方で、すべての律法をこの根本的な戒めにまとめておられる。律法学者も賞賛せざるをえないのである。イエスは、これが神が人間に求めておられることであると真剣に受け止めておられる。その戒めを真に成就するため、「他の戒め」をすべて相対化されることになる。すなわち、他の戒めはこの根本的な戒めを成就するのに仕えるかぎり意味があるのであって、もしそれを妨げるようなことがあれば、たとえ聖書に書いてあっても、そのような受け止め方は神の求められるところでないとして大胆に退けなければならないのである。
 それに対して、ユダヤ教の律法主義は律法の細部まで実行しようとして、かえって根本的な戒めを破っている。彼らは「ぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」(マタイ二三・二四)のである。それは、律法を細部まで守れない人たちを差別し、軽蔑し、拒否することによって、「隣の人を自分のように愛する」ことを妨げているからである。イエスはこの点で律法学者たちを非難されるのである。

 イエスが「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ五・一七)と言われたのは、この意味で理解されなければならない。「律法を完成する」とは、生活のあらゆる面で行動の規定を完全な程度まで精密にし、内面化し、それを厳格に実行することではない。このような理解の仕方は、キリスト教の歴史において様々な形で主張された解釈である。そのような解釈によって教理的道徳的に硬直化したキリスト教がどれほど災いをもたらしたことか計り知れない。しかし、そのような理解が間違っていることは、イエスが律法に対してとられた実際の態度が示している。先に見たように、イエスは父の無条件の恩恵に生きることによって、どのような人をも無条件で受け入れて愛されて、神の律法を成就されたのであるが、そのさい個々の律法の規定には捉われない行動をされたので、律法を無視し冒?する者として非難され、殺されるにいたったのである。「律法を完成する」とは、律法の根本精神を成就することである。イエスがここで、ユダヤ教側も同意し賞賛せざるをえないようにみごとに要約して提示された根本律法を行うことである。すなわち、「隣の人を自分のように愛する」ことを内容とする神への愛を、人生の究極の関心事として、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」生きることである。そのためには、どのような不利益も、常識違反、道徳違反、宗教違反の不名誉も受けることをあえて辞さない真剣さで、この隣人愛に生きることである。
 このように、イエスが、ユダヤ教の律法学者も同意し賞賛せざるをえないような仕方で、律法を受け止めておられることを明らかにされたので、ユダヤ教の側からもはや律法問題について批判の矢を放つことはできなくなった。マルコは「それからはもう、誰ひとりとして、イエスにあえて質問する者はなかった」と書いて、ここで論争を終らせている。

福音と律法

 マルコは本書で「福音」を提示しようとしている(一・一)。その福音の中で律法はどのような位置を占めるのか、この問いに対してここで回答が与えられている。福音を体現する者として、イエスが律法をこのように要約されたことは、福音が律法をこのような仕方で受け入れていることを示している。福音は、神が人に求めておられる内容を、このように明示している。もともと律法は福音ではない。律法はいくら立派に要約されても、人を「神の国」に入らせる力はない。福音が人を「神の国」に入らせ、律法を成就するのである。そして、福音が成就する律法の内容がここに明示されているのである。これが「神の国」の根本律法である。マルコには、マタイの「山上の垂訓」やルカの「平野の説教」のような、詳しい愛の教えがない。マルコは、ここに示されているような簡潔な形で、福音が求め、かつ成就する根本律法を提示しているのである。
 イスラエルにとってはヤハウェが「わたしたちの神」であったが、「主イエス・キリストの福音」に生きる者にとっては、「主イエス・キリストにおいてご自分を現された神」が「わたしたちの神」である。わたしたちにとって、神を力を尽くして愛するとは、具体的には主イエス・キリストを愛することに他ならない。
 神がわたしたちに求めておられることは、まず第一に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」主イエス・キリストを愛することである。人生において、他の何よりもキリストとの関わりを大切なものとし、全身全霊をもってキリストと結ばれて生きることを追求することである。しかも、「隣の人を自分のように愛する」ことを、キリストを愛することの内容として、そうするのである。イエスが示された神は、人間が互いに神の慈愛をもって愛しあうことだけを求めておられるからである。このように隣人を愛することがキリストを愛することであり、キリストを遣わされた神を愛することになる。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(マルコ九・三七)。
 この愛の戒めは人間の努力で成就することはできない。隣人を助ける善い行為の合計が愛を形成するわけではない。それを成就するのは、聖霊によってわたしたちに注がれる神の愛だけである。わたしたちのために死んでくださったキリストを信じて受け入れる時、神は、神への背きという根源的な罪をキリストの十字架の血によって赦し、無条件でわたしたちを受け入れ、聖霊を与えて神の子としてくださる。この聖霊によって、神の絶対の愛がわたしたちの心に注がれて、体験されるのである。そして、この聖霊によって注がれた神の絶対無条件の愛がわたしたちの中に宿り、隣人との関わりの中で働き出す時はじめて、人は「隣の人を自分のように愛する」ことができるようになる。敵をも愛する無条件絶対の愛、神的な愛が人間の中に姿を現すのである。
 このような質の愛は、来るべき世の生命の質のものである。それは人間の生まれながらの本性とは矛盾する質のものである。人間の本性は自分を愛するだけで、隣の人は自分によくしてくれる限り愛する、すなわち自分のために愛するだけである。聖霊による神の愛は、この人間の古い本性の中に隠され、覆われてしまいがちである。それだけに、神が人に求めておられることは何かが明確に示されることは大切である。イエスはここでそれを示してくださっている。わたしたちは聖霊に従って生きることにより、この神の愛の質をすこしでも明らかに世に現さなければならない。それがこの「第一の戒め」を聴く者の責任である。