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65 ぶどう園農夫の譬  12章 1〜12節


 1 それから、イエスは譬で彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣根をめぐらし、搾り場の穴を掘り、やぐらを立てた上、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。 2 時期が来たので、農夫たちから収穫の一部を受け取るために、ひとりの僕を農夫たちのところへ送った。 3 すると、農夫たちはその僕を捕まえて殴りつけ、から手で帰らせた。 4 そこで、他の僕をひとり送ったが、彼らはその頭を殴り、侮辱した。 5 そこでまた、他の者を送ったが、それを殺してしまった。ほかに大勢の者を送ったが、殴ったり、殺したりした。 6 まだ一人、愛する息子がいた。『彼らもわたしの息子は敬うことであろう』と言って、最後に息子を彼らのところに送った。 7 ところが、農夫たちは互いに、『これは相続人だ。さあ、彼を殺してしまおう。そうすれば、この資産はわれわれのものになるのだ』と言って、8 息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に投げ出してしまった。 9 さあ、このぶどう園の持ち主はどうするだろうか。戻って来て、農夫どもを滅ぼし、ぶどう園を他の者たちに与えることであろう。 10 あなたがたはこの聖書の句を読んでいないのか。
 『家造りらが捨てた石、
 それが隅のかしら石となった。
 11 これは主がなされたことで、
 わたしたちの目には不思議である』」。
 12 彼らはこの譬が自分たちに向けて語られたことに気づいて、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをそこに残して立ち去った。

指導者たちの殺意

 マルコは最初に「それから、イエスは譬で彼らに話し始められた」(一節)と書き、結論の部分で「彼らはこの譬が自分たちに向けて語られたことに気づいて」(一二節)と記しているように、この譬は「彼ら」、すなわち前段でイエスに「何の権威でこのようなことをするのか。それとも、誰がこのようなことをする権威をあなたに授けたのか」と詰問した「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」に向かって語られたものであり、彼らのイエスに対する隠された殺意を暴き、その殺意が何を意味するかを示す譬としてマルコがここに置いたものであることは明白である。これはユダヤ教を代表する者たちとイエスの対決が頂点に達したことを示す譬である。
 一節のぶどう園の描写は、ただちにイザヤ書五章一〜七節の有名な「ぶどう園の歌」を思い起こさせる。「垣根をめぐらし、搾り場の穴を掘り、やぐらを立て」という描写はイザヤ書五章の表現から来ている(「やぐら」というのは見張り用の塔のことである)。イザヤ書では「ぶどう園」が象徴するイスラエルの民そのものの主に対する態度が問題とされているのに対して、マルコではぶどう園で働く小作人の態度が問題とされているという違いはあるが、ぶどう園がイザヤ書の用語で描写されることによって、この譬がイスラエルの命運にかかわる寓喩として語られていることが、最初から示唆されている。
この譬を一つの寓喩として聞くと、その細目の意味を理解することは容易である。ぶどう園はイスラエルであり、その所有者からぶどう園の管理をゆだねられた農夫は、イスラエルの民の指導者たち、すなわちここで問題になっている「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」である。そして、収穫を受け取るために派遣された僕たちとは、神からイスラエルに遣わされた預言者たちであり、最後に送られた「愛する息子」とは神の独り子であるキリストである。そうすると、この譬は神から遣わされた預言者たちを迫害して殺し、今や最後に遣わされた「神の子」であるイエスをも殺そうとしているイスラエルの指導者たちの命運を語る寓喩として理解することができる。
 この寓喩によって、いま民の指導者たちがイエスに対して抱いている殺意が何を意味するのかが暴露される。それはただ一人の相続人である息子(「愛する息子」という表現は独り子であることを含意しているーC・H・ドッド)を殺すことによって財産を自分のものにしようとした農夫たちの非道と同じである。イエスに対する彼らの殺意は、「アベルの血から祭壇と聖所の間で殺されたザカリヤの血にいたるまで」の預言者殺しの歴史が頂点に達したものであり、神への反逆という人間の罪が、神から遣わされた「神の子」を殺すという最大究極の形で露呈したものである。彼らの殺意の中に、人間の罪がいかに理不尽で不法なものであるかが露呈している。人間は神から遣わされた者を殺すことによって、自分の宗教(自分の義)を立てようとするのである。

イスラエルへの審判

 そして、このような罪がどのような裁きを招くかを、問いと答えの形で語られる。「さあ、このぶどう園の持ち主はどうするだろうか」とイエスは彼らに問いかけられる。イエスの譬は問いかけで終わるものが多く、その問いによって聴衆の態度決定を迫るのが普通である。ところがここでは珍しく、イエスご自身が答えを語られる。「戻って来て、農夫どもを滅ぼし、ぶどう園を他の者たちに与えることであろう」。旅に出ていた持ち主は軍隊をも自由にできる権力者であったのであろう、すぐに戻って来て、息子を殺した農夫たちを殺して、彼らに当然の報いを与えることになるというのである。この答えの文の動詞はみな未来形である。それはまだ起っていないが、彼らの罪が神が最後に遣わされた「神の子」を殺すという極限にまで達している以上、彼らの滅びは必然であるという審判の預言である。その預言はやがて彼らの拠り所である神殿が壊滅するという形で実現する。彼らは滅ぼされ、ぶどう園は「他の者たち」に与えられる。この「他の者たち」というのは、譬が語られた時の直接の状況からすれば、神の国が「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」から取り上げられて「貧しい者たち」に与えられるという理解も可能であるが、農夫たちが滅ぼされるという未来の出来事と関連する内容であるとすると、「異邦人」と理解するべきであろう(マタイ二一・四三は明白にそう理解している)。イエスを殺したのは結局イスラエルなのであり、神の民としてのイスラエルの歴史はそれによって滅びに定められ、イスラエルに代わって異邦諸国民が神の国を受け継ぐことになる。イスラエルに対する裁きは、すでにいちじくの木を枯らし、神殿で鞭を振るうという二つの象徴行為によって予告され、最後には神殿の壊滅を予言する明白な言葉で語られることになる(一三・二)のであるが、ここでは譬によってその必然性が語られているのである。
 最後に、この出来事が聖書の引用によって根拠づけられる。引用されている聖句は詩編一一八編二二〜二三節であるが、これはイザヤ書八・一四、二八・一六と共に、イスラエルがつまずき、殺し、投げ捨てたイエスが、復活によって新しい神の民の土台とされるということを証明する聖句として、初代教団が好んで引用したものである(使徒四・一一、ロマ九・三三、エペソ二・二〇、ペトロT二・六〜八)。ここでは、農夫たちが「捕まえて殺し、ぶどう園の外に投げ出してしまった」息子(イエス)を、神が人間の思いを超える不思議な力をもって(復活させて)、新しい民の土台の石とされることを予言する聖句として引用されている。この引用は、譬の内容と正確には対応していない。「戻って来る」のは、殺された息子ではなく持ち主である父親であるし、神の国が異邦人に与えられることも詩編は何ら言及していない。しかし、イスラエルが殺したイエスを神が復活させて栄光の座につけられるという福音の根本真理にまで来なければ、息子が殺されるという譬は福音の真理の宣明にはならない。マルコはこの引用を最後に置くことで、この譬を復活の光で照らし出すのである。

譬の寓喩化

 マルコ福音書の物語の流れの中で読むとき、この譬は以上のような理解で十分なのであるが、この譬の本来の形と内容という点から見ると、この譬は様々な問題をはらんでいる。参考までに、それらの問題の一端に触れておく。まず、この譬は寓喩の色彩が強いことが問題となる。イエスは神の国を譬で語るとき、比較点を一点にしぼった単純な比喩を用い、それによって聴衆の決断を迫られるのが普通であって、譬の中の個々の細目に意味を持たせて一つの物語を語るという寓喩は用いておられない。寓喩とか、譬の寓喩的解釈(たとえば種蒔きの譬の解釈)はたいてい初代教団のものであって、この譬についても寓喩的な形態はマルコ(またはマルコ以前の伝承)の解釈によるものであって、イエスが語られたものでないことが推察される。
 この譬は三つの共観福音書すべてに記録されているので、これらを比較してみよう。まず譬の冒頭で、ルカ福音書は「ぶどう園」をイザヤ書五章に結びつけていないことが目立つ。そのことは、「ぶどう園」をイザヤ書五章の「ぶどう園の歌」と結びつけるように描写したのはマルコ(およびマタイ)の解釈であることを示唆している。次に、派遣される僕たちの描写もそれぞれの福音書記者の解釈によって寓喩化されていることをうかがわせる。すなわち、ルカはもっとも素朴な物語の形を残しており、僕は一人づつ三回派遣され、誰も殺されていないのに比べて、マルコでは一人づつ三回の派遣の後に(その三人の僕に対する不法な取扱もルカの場合よりもエスカレートして、三番目の僕は殺される)、「そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」という描写を加えている。このようなマルコの表現は、明らかに預言者たちの運命を意識して、元の物語を拡大して寓喩化したことが推察される。さらにマタイは寓喩化を徹底して押し進めている。マタイでは最初から複数の僕が派遣され、彼らは農夫から虐待され殺される。続いてもう一回さらに多くの僕が派遣されるが、第一群の僕と同じ不法の取扱を受ける。これは明らかにヘブライ語旧約聖書が預言者を前期預言者と後期預言者に分けているのに対応して、この二群の預言者たちの寓喩として僕の派遣を描写したものであることが分かる。 
 このように、この譬は元の素朴な物語が伝承の過程あるいは福音書記者の解釈で寓喩化されたものであるならば、最後の「愛する息子」の殺害も、「神の子」であるキリストの殺害という事実に合わせて創作された寓喩ではないかという疑問が生じる。事実、息子を殺せば財産は自分たちのものになるという農夫たちの発想が一見あまりにも非常識に見えるので、そのようなことは実際にはありえないのに、キリストの殺害という事実を寓喩で語るために創作された物語であるとする理解がこれまで多く行われてきた。しかし、当時のパレスチナでは不在地主、とくに外国在住者や外国人の不在地主に対して、民族主義的な情熱から小作料不払いという形で反抗運動が頻発していたこと、また、当時の法律制度では所有者のない土地は最初に占有した者の財産になったので、農夫たちが(父親が亡くなったので息子が相続するために来たと思って)跡取りの独り息子を殺せば、そのぶどう園は所有者のない土地になってしまうから自分たちのものになると考えたのは十分論理的であったこと、すなわちこの譬の基本的な内容は十分歴史的な背景を持っていることが証明されている(ドッド、エレミアス)。
 このような観察から、この譬は伝承の過程あるいは福音書記者の解釈によって寓喩化されてはいるが、その背後に素朴な物語の形の譬があったことが推察される。はたして、近年その内容が明らかにされた「トマス福音書」には、この譬が次のような単純な物語の形で伝えられている。

 「ある親切な人がぶどう園を持っていた。彼はそれを農夫たちに与えた。彼らにぶどう園を活用させて、彼らから実りを得るためである。彼は彼の僕を送って、農夫たちにぶどう園の実りを差し出させようとした。しかし農夫たちは彼の僕を捕らえて、打った。危うく彼らは彼を殺すところであった。その僕は帰って、そのことを主人に話した。主人は言った、『多分彼らは僕を知らなかったのだ』。彼は別の僕を遣わした。しかし農夫たちはその別の僕をも打った。そこで主人は、自分の息子を遣わした。彼は言った、『きっと彼らは、わたしの息子は敬うであろう』。かの農夫たちは、息子がぶどう園の相続人だと知ったので、彼を捕らえて、殺した。耳ある者は聞きなさい」。 (引用はエレミアス「イエスの譬え」より)

 ここには寓喩はない。当時の社会に実際に起こりえた事件を材料にして、素朴な譬の話だけが語られている。そして譬の意味や結論は聞く者の理解に委ねられている。これは通例のイエスの譬の語り方に一致している。おそらくイエスが語られた元の形はこれに近いものであったのであろう。しかし、このような形の譬でイエスが何を意味されたにしても、われわれ自身も含めて、イエスの十字架の死と復活の信仰に生きている教団は、このショッキングな跡取り息子の殺害という譬の中心主題を、イスラエルによる神の子であるイエスの殺害を指すと理解せざるをえないのである。
 このような理解から、譬の中の息子に「愛する子」というイエスに特有の称号(マルコ一・一一)が用いられたり(マルコ)、イエスが「門の外で」殺された(ヘブル一三・一二)事実に合わせて、譬の中の息子も「ぶどう園の外にほうり出して」殺されるのである(マタイ、ルカ)。さらに遡って、さきに遣わされた僕たちへの虐待は預言者たちの殺害を示す寓喩として改訂され(マルコ、マタイ)、舞台になっている「ぶどう園」がイスラエルを指すことがイザヤ書の「ぶどう園の歌」と結びつけることで示唆される(マルコ、マタイ)。そして教団は、神の子イエスの殺害に伴うイスラエルの裁きと福音の異邦人への進展という現在進行中の出来事や、イエスの復活を証明する特愛の聖句を譬の中に織り込まないではおれなかったのである。
 こうして、トマス福音書に見られるような素朴な譬の物語が、共観福音書ではキリストの十字架と復活をクライマックスとする救済史の寓喩になっていることが理解できる。その寓喩化の色彩はルカ、マルコ、マタイの順に強くなっている。マルコを知っているはずのルカにおいて寓喩化の程度が抑えられているのは、おそらくルカが別の伝承を用いているからだと考えられる。マルコの場合も、彼が用いた伝承においてすでにこのような寓喩化がなされていたと見られる。マタイはマルコを自分の神学によって改訂したのであろうか。すべて推察の域を出ないが、この譬は福音書成立過程における伝承と編集の複雑な関連をうかがわせる。しかし、その過程がどのように複雑なものであるにしても、共観福音書におけるこの譬の現在の形は、息子の殺害を語られたイエスの譬の内容を十全に展開して見せてくれている。原型がどのようなものであれ、われわれもこのように理解せざるをえないのである。