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63 いちじくの木が枯れる  11章 20〜25節

 20 さて、朝はやく一行がそばを通り過ぎようとして、そのいちじくの木を見ると、根元から枯れていた。 21 そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が枯れてしまっています」。 22 イエスは答えて弟子たちに言われた、「神の信に生きよ。 23 よく言っておくが、だれでもこの山に向かって、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、心に疑わず、自分が言ったことは成ると信じるならば、そのとおりになる。 24 だから、わたしは言っておくが、祈り求めるものはなんでも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 25 また、立って祈るとき、だれかに対して何かとがめるべきことがあれば、赦しなさい。それは、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのとがを赦してくださるためである。[26 もし赦さないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのとがを赦されない。]」

祈りについて

 いちじくの木をイエスが呪われたのは、先に見たように、もともとイスラエルに対する神の裁きを示す預言者的象徴行為であった。そのことは、いちじくの木の出来事が同じ内容の象徴行為である神殿粛清の記事の枠として用いられていることからも明らかである(NTDは一二〜二六節を一つの段落としてまとめて扱っている)。ところが、異邦人キリスト者の教団においては、イスラエルに対する裁きという意味よりも、イエスの言葉の奇跡的な力の方が重要視されて、祈りの力を教える実例として用いられるようになったのであろう。この傾向はマタイではさらに進んでいる。マタイ(二一・一八〜二二)においては、いちじくの木の出来事は神殿粛清の記事の枠ではなくなり、それとは別に信仰の力を教える実例となっている。さらに、祈りの力を教えることはこれと違った文脈でなされる可能性もある(たとえばルカ一七・五以下)にもかかわらず、マルコがそれをここに置いたのは、先の神殿崩壊の預言において引用されていた「祈りの家」との関連からである。すなわち、イスラエルは本来祈りの家であるべき神殿を強盗の巣にしてしまったために裁かれ、神が住まわれる「神の家」は諸々の異邦の国民が真実に祈るところに移る(一七節)。それで、諸国民が祈るべき祈り、そこを神が住まわれる家とするような祈りとはどのような質のものであるかがここで教えられるのである。
 マルコが、祈りについてのイエスの教えを伝えているのはここだけである。マルコは祈りについてのイエスの教えを次の二点にまとめている。すなわち、「祈り求めるものはなんでも、すでに受けたと信じなさい」(二四節)と「だれかに対して何かとがめるべきことがあれば、赦しなさい」(二五節)とである(二二〜二三節は、「だから」という語が示しているように二四節の根拠を説明しているのであるから、二四節に含まれていると見ることができる)。祈りが真実に力ある祈りになるために重要なことは、「信じる」ことと「赦す」ことである、というのである。マタイとルカに較べて、マルコは祈りについてのイエスの言葉を伝えることはきわめて少ないが、それだけにここに挙げられている二点は、祈りについてのイエスの言葉の中でとくに印象深いものとして記憶され、マルコ以前の教団で伝えられていたと思われる。

絶信の信

 枯れたいちじくの木を見て、ペトロは驚いて、「先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が枯れてしまっています」と言う。ペトロは、イエスの言葉が人の思いをはるかに超えた結果を引き起こしたことに驚いているのである。それに対して、イエスはさらに驚くべきことを語られる。「よく言っておくが、だれでもこの山に向かって、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、心に疑わず、自分が言ったことは成ると信じるならば、そのとおりになる」(二三節)。
 これは、マルコ福音書ではあまり数多くない「アーメン句」の中の一つである。イエスは「アーメン、わたしはあなたがたに言う」と言って、ご自分の発言に全存在をかけておられるのである。「ペトロよ、あなたはわたしの言葉によっていちじくの木が枯れたことに驚いているのか。もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、いちじくの木が枯れるどころか、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くのだ(ルカ一七・六)。いや、だれでも心に疑わず、自分が言ったことは成ると信じるならば、この山に向かって、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになるのだ」。
 これはたいへんな発言である。だれがこのような激しい言葉に耐えることができようか。桑の木にそう言えない者は、からし種一粒の信仰もないのか。山に向かってそんなことを言って、そのとおりになると、だれが疑わないで信じることができようか。木の葉に向かって「札束になれ」と言って、そのとおりになると誰が信じることができようか。この言葉の前では、だれ一人信仰を持つことはできないのではないか。わたしも信仰生活の初期に、この言葉をどう受け止めてよいのか分からず、信仰に行き詰まってしまった経験がある。
 この疑問を解く鍵は、この言葉の前に置かれている「神の信に生きよ」の一句にある。「この山に向かって」という二三節の言葉はこの句の内容を展開したものであるから、この言葉の意味を正確に理解することによって、二三節の言葉も解釈の方向を与えられるはずである。
 さて、この句のギリシア語原文を直訳すると、「神の《ピスティス》を持て」ということになる。《ピスティス》はふつう「信仰」と訳されている語である。それでここは普通、「神に対する信仰を持て」と理解されて、「神を信じなさい」と訳されている。たしかに、この句は神を信じることを求めているわけで、そう訳して間違いではない。問題は、そう訳してしまうと、ここで普通一般に用いられている「信じる」という動詞を使わないで、「神のピスティスを持て」という特別の表現が用いられている意義が隠れてしまうことにある。はたして「神のピスティス」とは「神に対する信仰」という意味であろうか。《ピスティス》という語は、信仰という意味だけではなく、誠実という意味もあるのだから、「神の愛」という場合のように、神がご自身の本質としておられる真実とか誠実という意味ではないのか。この問題は文法的な議論で解決されるような性質の問題ではない。イエスがこのような表現を用いられた背景、すなわち旧約聖書での用法に遡って理解しなければならない問題である。
 イエスは聖書(旧約聖書)を呼吸して生きておられた。イエスの神は律法と預言者の中から語りかける神であり、イエスの祈りは詩編の祈りであった。イエスはイスラエル人の中のイスラエル人、イスラエルの歴史と精神を一身に体現し成就する方であった。そのイスラエルは、主なる神ヤハウェと自分たちとの関わりが、自分たちの努力や能力に基づくものではなく、ただヤハウェの「慈しみとまこと」に基づくものであることをよく知っていた。詩編には、自分たちが神の民として存立するための土台である「主の慈しみとまこと」に対する賛美が満ち溢れている。破滅のどん底においてなお依り頼むことができるのは、「主の慈しみとまこと」である(詩編八九篇)。イスラエルの祈りをどこまでも突き詰めると、この「主の慈しみとまこと」への賛美だけになってしまう(詩編一一七篇)。イエスが、「父」と呼んで親しく交わりの中に生きておられる神の「慈しみとまこと」を、ご自身の宣教の働きや祈りの源泉としておられたことは十分推察できることである。
 ところで、「慈しみ」は《ヘセド》の訳語で、受けるに値しないにもかかわらず与えられる助けやよい物を通して、神が契約の相手であるイスラエルに対して示される不変の好意を意味している。「まこと」は《エメス》と《エムナー》という二つのヘブライ語の訳語である。この二つは意味と用法に微妙な違いはあるが、同じ語根から出たものであり、ほぼ同じ内容の語であると考えられ、同じ語で訳されるのが普通である。この二つの名詞と、《ヘエミン》(信じる)という動詞、さらに《アーメン》というわれわれになじみ深い語も、みな同じ語根から出たもので、その根元には「堅い」という観念がある。そこから、動詞《アーマン》の様々な変化形は、「変わらない、永続する、頼れる、誠実である、信頼する、信じる」というような多彩な意味に展開する。《エメス》という名詞は、他者がその言葉と行動に全面的に頼れる人格の確かさとか誠実さを指しており、《エムナー》の方は、内面と一致した行動をする人格の誠実さを意味している。このように両者は、他者との関わりに目を向けるか、自己の内面との関係に注目するかの相違はあるが、誠実さという意味では共通している。それでこの二つの名詞は、日本語では「まこと」とか「真実」と訳され(新共同訳)、英訳では「faithfulness (誠実さ、忠実さ)」が多く用いられる。
 「主のエメス」とか「主のエムナー」というのは、主がご自身の本質としておられる誠実さ、人間が全面的に依存することができる主の不変の確かさを指している。そして、主ヤハウェとイスラエルの関係は言葉による契約の関係であるから、すなわちイスラエルは主の約束の言葉によって存立するという関係であるから、《エメス》も《エムナー》も具体的には主の言葉に関連したものになる。すなわち、「主のエメス」は人間がその言葉に全面的に依存できる主の確かさ(リライアビリティ)、「主のエムナー」は主がその言葉をかならず実行される誠意を意味することになる。
 主は預言者たちを通してくりかえしご自身の言葉が確かであることを示された。エレミヤに「アーモンド」《シャーケード》の枝を示して、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと、見張っている《ショーケード》」と言われた(一・一二)。また、イザヤは「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と叫んでいる(四〇・八)。そして、イスラエルの魂はこの神の言葉の確かさ、すなわち神の《エメス》に自己の全存在を委ね、その祈りである詩編においてこれだけを賛美したのである。まことに、イスラエルの神ヤハウェは「エメスの神」(詩編三一・六)であり、「エムナーの神」(申命記三二・四)である。「主は岩である」と賛美される時、「岩」はイスラエルの存立の土台としての永遠不変の主の《エメス》ないし《エムナー》を指しているのである。そして、ギリシア語訳旧約聖書では《エメス》を《アレーテイア》、《エムナー》を《ピスティス》というギリシア語で訳しているのであるから、「神のピスティス」と言えば、旧約聖書の世界に呼吸している者にとっては、このような神の言葉の背後にある神の確かさ(リライアビリティ)と誠意を指していることは当然のことと感じられるのである(旧約聖書の後期のテキストでは《エムナー》が多く用いられるようになってきているので、《ピスティス》というギリシア語が「神のまこと」全体を指す用語になっていると理解できる)。
 このように、《エメス》や《エムナー》が、具体的には神の言葉に関わる誠意や確かさを意味しているのであれば、この二つの語を「信」という日本語で表現できるのではなかろうか。「信」とは本来「人がその言葉をたがえぬこと」(広辞苑)である。ほぼ「誠(まこと)」と同じ意味であるが、「誠」の方は自分の言葉を成らせる内面的な誠意に重点がかかるのに対して、「信」の方は他者との関係で言葉が確かであることが注目されている(通信、信頼、信用などの用法にそれが見られる)。そうすると、「誠」は《エムナー》に相当し、「信」は《エメス》に対応することになる。いま、両方の面を含ませて「信」という語を用いるならば、イスラエルが依り頼み賛美した「神のエメスまたはエムナー」は、われわれは「神の信」の表現で指すことができることになる。
 この「神の信」に全面的に依存する人間の在り方が信仰である。神は至誠至信、約束された言葉は必ず実現してくださるという神の側の事実だけに、自己の存在をかけて生きる人間の在り方が信仰である。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記一五・六)。アブラハムは主の約束の言葉を聞いて、それは人間の目には不可能なことであるが、主が約束されたことだからという理由だけで、その実現を事実として受け取ったのである。このことによって、アブラハムは主の信を認め、全面的に主の信に身を委ねたのである。このように、人間の側に何の根拠も求めず、ただ神の信だけに基づいて、神の言葉に従うことが「信じる」ということである。「信仰」を何か自分の側の確信とか信念とか誠意とする、すなわち自分の信に基づくものとする限り、対象が神でありキリストであっても、そのような「信仰」は神の力に基づくことはできず、かならず行き詰まり破綻する。「信仰」とは自分の側の信に絶して、「神の信」だけに基づいて生きることである。これを「絶信の信」と呼ぶ。このように神と自分の関わりの根拠が、自分の信から神の信に転換するとき、わたしたちの信仰は「コペルニクス的転換」を経験する。自分の救いも存在も、もはや移ろいやすい自分の信に基づくものではなく、岩のように動かない「神の信」に基づくものになるのである。

神の信に生きる

 このような「神の信」に関する旧約聖書の背景からすると、「神の信を持て」という表現は、「神の信をもって生きよ」、すなわち「神の信を唯一の拠り所として生きよ」という意味に理解することができる。これが「神を信じる」という生き方の中身である。「信仰」と呼ばれている人間の在り方の内容である。ところで、先に見たように、「神の信」というのはあくまで神の言葉について言われることである。神の言葉がなければ神の信を問題にすることもない。「神の信」とは、神がご自分の言葉を成し遂げる誠意(これは神の本質である。それなしでは神は神でありえない)に裏付けられた、神の言葉の確かさである。それで、「神の信に生きる」とは、神の信だけを拠り所にして、神の言葉が語るところを現実であるとして生きることである。「神を信じる」とは、神の信だけに基づいて、神の言葉を行為することである。神の言葉が啓示し約束する事が、まだ見ていないこと、理解できないこと、人間の目には不可能と見えることであっても、それを語った方が信実であるということだけを当てにして行動し生きることである。その言葉は必ず成る。その言葉を成し遂げるのは神であって、「神にはできないことはない」からである。それは神の信によって保証されている。それ故、神の信に基づいて神の言葉に従う行動や生き方において不可能事はない。「信じる者には何でもできる」(マルコ九・二三)というのは、この意味である。イエスが「神の信に生きよ」と言われた後、「この山に向かって」と語られたのは、「信じる」という行為には不可能事はないことを極言された言葉であることが分かる。
 こういうわけで、わたしたちは自分の信(信念とか誠意)に基づき、自分の願望に従って祈り求めたことは、成ると信じることはできない。木の葉が札束になるとは、いくら強い信念をもってしても、それを現実として生きることはできない。神の信に基づき、神の言葉に従って祈り求める時、祈り求めたことは必ず成ると「疑わないで信じる」ことができるのである。それを成し遂げるのは神であることを知っているからである。その言葉の背後には神の永遠の信と全能の力があることを知っているからである。このように神の信を拠り所として祈る時、自分の目には「まだ」成っていないことも、「すでに」成ったのと同じ確かさで成ると受け取ることができる。それは祈りが「神の信」の確かさ、「神の言葉」の確かさに基づいているからである。問題は、個々の祈りが神の言葉に従った祈りであるかどうかである。自分が祈り求めるところが神の言葉に従ったものになるのは、聖霊によって神と親しい交わりにあり、神がすべてとなり自分が無になっている時である。イエスはこのような神との交わりにおいて完全な方であったので、発せられる言葉がただちに神の言葉としての力を持ったのである。イエスはここで、ご自分が生きておられる神の信に基づく祈りの次元に弟子たちを招いておられるのである。
 なお、ここで展開した信仰論は、この箇所で用いられた「神のピスティスを持て」という特異な表現をきっかけにしたものではあるが、この表現を根拠にしたものではないことを付言しておかなければならない。この表現はマルコがここだけに用いており、他の福音書には(マタイの並行記事にも)出てこない。さらに、これがギリシア語である以上、実際にイエスがアラム語でどのような表現を用いられたのか決定することは困難である。そのような性質の一句を根拠にして信仰の中身を論じたのではない。あくまでも、旧約聖書全体の信仰理解に基づいて、ここで語られている信仰の次元を明らかにしようとしたものである。

恩恵の場における祈り 

 祈りについて、もう一つ重要なことは「赦す」ことである。イエスは言われた、「また、立って祈るとき、だれかに対して何かとがめるべきことがあれば、赦しなさい。それは、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのとがを赦してくださるためである」。人を赦すこと、それによって神から赦された者として祈る、すなわち「赦し」の場で祈ることが教えられている。祈りにおいてこれが重要であることは、これが最も基本的な祈りである「主の祈り」の内容の一つに取り入れられていることからもうかがえる。
 祈りにおいては、神と祈る者との関係がよいことが第一に大切である。祈る者が神から嫌われ、受け入れられていないならば、その祈りは神の手を動かすことはありえず、独り言か呟きに終わってしまう。それで古来、人間は祈りを捧げる神に喜ばれるようになるために様々な方法を用いてきた。それが「宗教」であるとも言える。供犠、すなわち神々に供え物や犠牲を捧げることは最も古くから用いられている方法、人類と共に古い方法である。供犠という儀礼行為には、神への献身の表明とか、神に嫌われる罪や汚れを清めるとか、神との交わりの確認というような様々な意味合いがある。しかし、供犠全体には、祈りを捧げる神に喜ばれ、祈りが聴かれるようにしようという意図が根底にある。宗教が進化して倫理的な面が強くなってくると、神の戒めを守ることが神に喜ばれ、祈りが聴かれる根拠にされるようになる。たとえば、ユダヤ教においては、イスラエルが安息日の律法を二回完全に守るならば、神はイスラエルの民の祈りを聴きいれ、ただちに救いを送ってくださると言われている。このような人間の宗教的な営みを背景にして、祈りについてのイエスの教えを聞くと、その特別な意義が際だってくる。
 イエスも祈りにおいては、まず何よりも祈る者が神と正しい関係にあることが大切であることを前提にしておられる。しかしイエスは、神と正しい関係にあるために、供犠とか戒律順守というような宗教的営みをいっさい求めておられない。また道徳的な完璧さも要求しておられない。ただ「人を赦す」ことだけを求めておられる。祈りについてのイエスの教えをまとめたこの箇所で、それ以外のことは言われていないという事実が重要である。イエスが祈りの場について語るのに、供犠とか戒律順守という宗教的行為、また道徳的清浄さにいっさい触れないで語られるのは、祈りが神に聴かれる祈りになるためには、そういう宗教的道徳的行為はいっさい関係がないということを意味している。
 人を赦すのは、祈る者が神に赦されるためである。人間は神に赦されるのでなければ、神との正しい関係にあることはできない。どのように多くの供え物や犠牲を捧げても、またどのように熱心に戒律を守り、道徳的に立派な生活をしても、それで祈りが聴かれる資格ができるのではない。「赦し」とは資格のない者を無条件で受け入れる神の恩恵の働きである。この神の恩恵だけが人を正しい場で祈ることができる者とするのである。そして、人は恩恵の場で祈るためには、みずから恩恵の原理に生きる者、すなわち人を赦す者でなければならない。人を赦さないことは恩恵の原理を否定することであって、みずからを神の恩恵の場から追い出すことを意味する。イエスが示される神は、隣人を赦す者を赦して受け入れ、隣人を赦さない者は赦すことなく受け入れない神である。イエスが宣べ伝えられる「神の支配」とは恩恵の支配のことである。このことは、「仲間を赦さない家来の譬」(マタイ一八・二一〜三五)に詳しく語られている。

なお、人を赦すことと神に赦されることとの関係については、拙著『マタイ福音書講解T』の中の、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という主の祈りを講解した箇所を参照のこと。

神の愛と神の信

 この段落は祈りについてのイエスの教えをまとめた箇所であるが、その内容は、以上に見てきたように、「信じて祈る」ことと「赦して祈る」ことの二点に尽きる。マルコがこのようにまとめたのは、イエスの祈りについての教えの中でこの二点が最も印象深く重要なものとして伝承されていたからであろう。そして以上に見たように、「信じて祈る」とは神の信を拠り所にして祈ることであり、「赦して祈る」とは神の恩恵の場での祈りであることが理解できた。祈りは人間が神との関係で生きるときの最も具体的な姿であるから、イエスが祈りをこのように語られたのは、イエスが神との関わりに生きる人間の姿をこの二点に要約されたことを意味している。イエスが祈りについてこのように語られるのは、イエスご自身がこのような神の信と神の恩恵の場に生きておられたからである。このように見てくると、イエスは旧約の詩編の祈りの世界を見事に体現成就しておられる方であることが分かる。
 先に見たように、詩編に現れているイスラエルの祈りは、「主の慈しみとまこと」だけに依り頼み、この二つを自分の存立の土台として賛美することであった。「主の慈しみ《ヘセド》」は、資格のない者に、ときには背く者にさえ注がれる主の不変の優しさとか慈愛のことである。《ヘセド》を指す用語としてギリシア語訳旧約聖書では《エレオス》(憐れみ)が用いられている。これは、ここで恩恵と呼んできたものと同じ内容である。人間が神との関わりの中に生きて祈ることができるのは、自分の側の資格によるのではなく、ただ資格のない者を赦し無条件で受け入れてくださる神の慈しみ、憐れみ、恩恵によるのである。その恩恵の場にとどまって祈るには、自分も人を赦す者でなければならないのである。イエスが「祈るときには、人を赦しなさい」と教えられるのは、「主の慈しみ」に依りすがって祈ったイスラエルの祈りを、具体的に成就するのである。
 そして、先に詳しく見たように、「神の信に生きよ」というのは、「主のまこと(エメスまたはエムナー)」を拠り所として祈ったイスラエルの祈りの完成であった。イエスこそ完全に神の信に生きた方である。こうして、イエスはみずから、「主の慈しみとまこと」によって祈る詩編の祈りを成就する方として、弟子たちに神の信に基づき、神の恩恵の場で祈ることを教えられるのである。そして、これは祈りについての教えであるだけでなく、神との関わりに生きようとする人間にとって、「神の信」と「神の恩恵」だけが拠り所であるという、人間にとって最も基本的な真理を照射するのである。
ところで、神との関わりの中に存在する人間にとって最も基本的な拠り所である「神の信」と「神の恩恵」のうち、「神の恩恵」の方は「神の愛」という表現で新約の福音において強調されている(とくにパウロとヨハネにおいて)。福音は、神は愛である、キリストの十字架は神の愛の顕現であり、この神の愛によってわたしたちは救われるのであると声を大にして宣べ伝える。しかし、「神の信」の方はなぜか救いの土台として明言されることがほとんどない。「神が信である」ということはあまりも当然のことと考えられているのであろうか。神の信が完全でないならば、神が語られた言葉は中身のない空しいものとなり、信仰は成り立たなくなる。神の言葉に基づく自分の救いも不確かなものになり、世界はその意味を失い混沌に帰する。神の信は世界の存立の基礎であり、わたしたちの救いの土台である。イスラエルは、詩編が示しているように、このことをよく知っていた。福音に生きる者は、それ以上に明確に「神の信」を拠り所にしていることを自覚し賛美すべきではないであろうか。神の愛を受け、神の愛によって救われていることを自覚することが、神の愛に生きる人間を生み出していくように、神の信だけを拠り所にして存在していることを自覚することが、このあまりにも不真実で偽りに満ちた人間社会に、神的な不変の信を確立していく道である。