市川喜一著作集 > 第4巻 マルコ福音書講解U > 第3講

62 神殿から商人を追い出す  11章 15〜19節

 15 一行はエルサレムに来た。イエスは神殿に入って行って、神殿の中で売ったり買ったりしている者を追い出し始め、両替商の台や鳩を売る者の腰掛けを投げ倒し、 16 誰も神殿を通り抜けて器物を運ぶことを許されなかった。 17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民のための祈りの家と呼ばれるべきである』と書かれているではないか。ところが、おまえたちはそれを強盗の巣にしてしまっている」。 18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どうにかしてイエスを殺そうとたくらんだ。群衆がみなその教えに感嘆していたので、彼らはイエスを恐れたからである。 19 夕方になるといつも、イエスの一行は都の外へ出て行った。

イエスの怒り

 神殿の境内では、参拝に来る人々のために犠牲の動物を売ったり、普通の貨幣を神殿に納めることができる通貨に両替する商人がいて、売り買いが行われていた。神殿に入られたイエスは、境内で売り買いする商人を激しい勢いで追い出された。「誰も神殿を通り抜けて器物を運ぶことを許されなかった」というのは、水を運ぶ容器など生活や商売のための器物をもって、近道をするために神殿の庭を通り抜けようとする者を追い返された、ということであろう。商人の台や腰掛けを投げ倒して追い出すという、ほとんど暴力的な行為は、この時のイエスの怒りがいかに激しいものであったかを示している。ヨハネ福音書(二・一五)は、神殿でイエスは縄で鞭を作って羊や牛を追い出されたと伝えている。共観福音書はどれもイエスが鞭をふるわれたとは言っていないが、この時の激しい行動を描くのに、イエスが鞭をふるわれたとすることは、イエスの怒りを象徴するのにふさわしいことである。イエスの行動は、終わりの日について「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」(ゼカリヤ一四・二一)と記されている預言を思い起こさせる。
 イエスは商人を追い出して言われた。「『わたしの家は、すべての国民のための祈りの家と呼ばれるべきである』と書かれているではないか(イザヤ五六・七)。ところが、おまえたちはそれを強盗の巣にしてしまっている」。これは、神殿で売り買いする商人だけでなく、その背後にあって彼らの商売を組織監督し、利潤を吸い上げて私腹を肥している貴族的祭司階級に対する断罪、さらに、そういう体制を容認して成立している神殿宗教そのものへの断罪である。ヨハネ福音書では「商売の家」となっているが、エレミヤの神殿批判の言葉(七・一一)の影響から、さらに激しい「強盗の巣」という言葉を用いた伝承をマルコは用いている。
 宗教とは本来神への祈りそのものであり、宮とか教団は祈りの場でなければならない。ところが宗教はしばしば、民衆の信仰心を利用して財貨を奪う巧妙な体制になってしまう。すでにエレミヤは神殿をそう見ていた。いまイエスは、壮麗なエルサレム神殿が民衆収奪の拠点になっていると弾劾される。このような公然の非難を聞いて、神殿を依り所としている祭司階級がイエスを憎むのは当然である。
 「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どうにかしてイエスを殺そうとたくらんだ。群衆がみなその教えに感嘆していたので、彼らはイエスを恐れたからである」。彼らがイエスを殺さなければならないと考えたのは、宗教を看板にして私腹を肥している偽善を衝かれたからだけではない。イエスの言動に神殿の存立そのものを否定し、ひいては神殿を根拠づけている律法そのものを否定する面があったからである。祭司階級だけでなく、律法学者たちもイエスを放置することはできなかったのである。

粛正か崩壊予言か

 この時のイエスの行動はふつう「宮清め」とか「神殿粛清」と呼ばれる(本稿でもこれまで便宜的にそう呼んできた)。「粛清」と言うのは、堕落した部分を改革して、本来の姿を取り戻すことである。たしかに、この箇所だけを見る限り、イエスは神殿を粛清しようとしておられるように見える。しかし、イエスご自身が神殿をどう見ておられたかは、すぐ後で弟子たちに明白な言葉で語っておられる。イエスは、「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」(一三・二)と言って、神殿の徹底的な壊滅を予言しておられるのである。そう見ておられる以上、神殿で鞭をふるわれたのは、神殿を「粛清」するためではなく、神の裁きによる「壊滅」を指し示すための象徴行為であったと理解すべきである(この物語は、エルサレム原始教団が神殿と協調している時期に伝承される過程で、「粛清」へと和らげられた可能性がある)。先に「いちじくの木を呪う」の段落で見たように、マルコがこの記事をいちじくの木が枯れた出来事と一体として語っている事実も、イエスの行為が粛正ではなく、神殿崩壊の予言であることを示している。「強盗の巣にした」という弾劾は、「本来の祈りの家に戻せ」という粛清の叫びではなく、「だから、その壊滅は避けられない」という予言の声である。ヨハネ福音書(二・一九)は、この時イエスが「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われたと伝えている。マルコでも、イエスの裁判の時に、イエスがそう語られたのを聞いたという証人が登場している(一四・五八)。正確な言葉は分からないが、イエスがこの象徴行為をされたときに、神殿の壊滅を予言する言葉を口にされた可能性は十分ある。これは、日本の状況にたとえれば、国家神道の全盛期に伊勢神宮の壊滅を予言するようなもので、当局者がイエスを殺そうとしたのも当然である。
 このように、いちじくの木を呪われたことと神殿で鞭をふるわれた行為は、イスラエルの民とその神殿に対する裁きを示す象徴行為であると理解できる。ろばの子に乗って都に入られた柔和な王は、最後まで反逆して王を殺そうとする民に向かって、この二つの象徴行為によって厳しい審判を予言される。