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57 死と復活の三度目の予告  10章 32〜34節

 32 さて、一行はエルサレムへ上る途上にあった。イエスは一行の先頭に立って進まれるので、人々は驚き怪しみ、後に従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二人を呼び寄せ、自分の身に起ころうとしていることを彼らに語り始められた。 33 「さあ、わたしたちはいよいよエルサレムへ上って行く。そこで人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告したうえ、異邦人に引き渡す。 34 異邦人は彼をなぶりものにし、唾をかけ、鞭打ち、殺してしまう。そして、三日の後に人の子は復活する」。

十字架の福音の告知

 イエスと弟子たちの一行はフィリポ・カイサリアのあたりの境界を越えて、いよいよイスラエルの聖なる地に入り、一路エルサレムへ向かわれる。この最後の旅の途上で、イエスはエルサレムで自分の身に起ころうとしていること、すなわち受難と死について弟子たちに奥義を明かされる。マルコは「途上で」という表現を、この旅の最初(八・二七)と最後(一〇・五二)に用い、その間でも繰り返し用いる(九・三三、三四とここの一〇・三二)。マルコにはマタイの「山上の説教」やルカの「平野の説教」のようなイエスの言葉のまとめはないが、マルコはこの最後の旅の途上をイエスが福音の奥義を語られる舞台としている。ここでイエスは、福音の核心である苦しみを受けて復活する人の子の奥義を、三回にわたって弟子たちに語られることになる。
 ここで、「先頭に立って進まれる」イエスと、「後に従う者たち」の姿が対比されている。イエスはエルサレムでご自分の身に起こることを承知のうえで、ただそれが成就しなければならない神のみ旨であるから、みずから先頭に立って進んで行かれる。そのイエスに対する人々の態度は二つに分けて描かれている。まず主語を特定しないで、「人々は驚き怪しみ」と描かれる。これはイエスの力ある業を見て驚き、イエスを取り巻いていた人々であろう。彼らはあえて危険な地に向かわれるイエスの意図が理解できず、ただ驚き怪しんだのであろう。それに対して、「後に従う者たち」というのは、「わたしたちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」(前段二九節)と言った弟子たちであろう。弟子たちはエルサレムで起こることを聞かされているので、イエスの破滅は自分たちの破滅であると感じて、「恐れた」のである。今こうして受難の地エルサレムに向かって「先だって進まれる」イエスは、やがて復活者としてガリラヤに向かって弟子たちに「先だって進まれる」ことになる(一六・七)(両方の箇所は同じ動詞である)。
 「するとイエスはまた十二人を呼び寄せ、自分の身に起ころうとしていることを彼らに語り始められた」。イエスがご自分の死と復活を予告されるのはこれで三度目である。このことは、この死と復活を予告する言葉がこの最後の旅の中心主題であることを示している。そして、これは単なる将来の出来事の予告ではなく、マルコが世に示そうとする福音の言葉そのもの(ホ・ロゴス)として取り扱われ、重視されているのである(八・三二の講解参照)。「十二人」はこの秘密を受け継ぐ者たちとして、教団において重要な立場を占めることになる。
「さあ、わたしたちはいよいよエルサレムへ上って行く。そこで人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告したうえ、異邦人に引き渡す。異邦人は彼をなぶりものにし、唾をかけ、鞭打ち、殺してしまう。そして、三日の後に人の子は復活する」。
 この三度目の予告の言葉は、先の二回の予告に比べると、受難の描写が具体的で詳しくなっている。九章三一節(二回目の予告)に見られるように、イエスご自身は「人は人々の手に渡される」という謎の言葉でこの奥義を語られたのであろうが、これが受難の予告として伝承されるときに、伝承の担い手である教団はイエス受難の具体的な詳細を熟知しているのであるから、その表現がだんだんと詳しくなってくるのは自然の流れである。そして、この三回目の予告の言葉はほとんど受難物語の要約になっている。だから、これらの言葉は事後予言にすぎないのであって、あまり意味のないものであるという考えもあるが、そうではない。これらの言葉でマルコは、イエスが将来の出来事を予告されたことよりもむしろ、福音の本質を示そうとしているのであり、この福音書の核心をなす最も重要な言葉として繰り返しているのである。これらの言葉は「受難予告」というよりは「十字架の福音の告知」と呼ぶべきであろう。もともと福音とは復活された方を宣べ伝える報知であるが(それで受難予告の言葉において復活は何の説明もなく、端的に「三日後に復活する」と事実が述べられるだけである)、そのさいマルコは、人の子であり、復活された栄光の主である方が、地上でまず苦しみを受けなければならなかったという点に、福音の本質を見ているのであり、それをこの三回にわたる受難予告の言葉で告知しているのである。
 それで、この三回の受難予告の言葉にはそれぞれ、このイエスに従おうとする弟子たちへの訓戒が続くことになる。第一回目の受難予告の後に「自分を捨てて従え」という訓戒が(八・三四〜九・一)、第二回目の受難予告の後に、「すべての人の後になり、仕えよ」という訓戒(九・三三〜三七)が続く。そしてこの第三回目の受難予告の後に、「すべての人の僕となれ」という次の段落(一〇・三五〜四五)が続くことになる。これは弟子たちに、イエスの受難にあずかることによって、「十字架の福音」を身をもって体得せよとの呼びかけである。