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56 金持ちと神の国  10章 17〜31一節

 17 イエスが旅に出ようとされたとき、ひとりの人が走りよって来て、ひざまずいて尋ねた、「善い師よ、永遠の生命を受け継ぐには、何を為すべきでしょうか」。 18 イエスはその人に言われた、「なぜわたしを善い者と言うのか。神おひとりの他に善い者はない。 19 戒めはあなたが知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、欺き取るな、父と母を敬え』」。 20 すると彼は言った、「師よ、それらのことはみな、わたしは若い時から守ってきました」。 21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた、「ひとつ足りないことがある。行って、持っているものをみな売り払い、貧しい者たちに施しなさい。そうすれば、天に宝を持つことになる。それから、わたしに従ってきなさい」。 22 この言葉を聞いて、彼は顔を曇らせ、悲しんで去って行った。多くの財産を持っていたからである。
  23 そこで、イエスは弟子たちを見回して言われた、「財産のある者が神の国に入るのは、なんとむずかしいことであろう」。 24 弟子たちはイエスのこの言葉に驚いた。すると、イエスは再び答えて言われた、「子たちよ、神の国に入るのは、なんとむずかしいことであろう。 25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がやさしい」。 26 そこで、弟子たちはますます驚き慌てて、互いに言った、「それでは、いったい誰が救われることができようか」。 27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである」。 28 するとペテロが言い出した、「ごらんください。わたしたちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」。 29 イエスは言われた、「あなたがたによく言っておくが、わたしのため、また福音のため、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てる者はだれでも、 30 今この世では迫害と共に、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を百倍も受け、来るべき世では永遠の生命を受ける。 31 だが、多くの最初の者が最後になり、最後の者が最初になるであろう」。

永遠の生命への問い

 前の段落に続いて、「神の国に入る」という主題が取り上げられる。前の段落では、子供のように受け入れる者でなければ、神の国に入ることはできないことが語られたが、この段落ではそのように受け入れることができなかった者の姿を通して、神の国に入ることは人間の業と力によることではなく、神の恩恵の力によることが示される。この段落は二つの部分から成っている。

一 イエスに従うことができなかった金持ちの物語(一七〜二二節)
二 神の国に入ることについてのイエスと弟子たちとの対話(二三〜三一節)

 「イエスが旅に出ようとされたとき、ひとりの人が走りよって来て、ひざまずいて尋ねた」。 ひざまずくのは通常のラビに対する態度ではない。この人はイエスをたんなるラビ(律法の教師)を超えて、自分の人生の究極の問題を託することができる導師また尊師と仰いでひざまずいたのであろう。もともとイエスはラビではない。正式の律法の教師になるために必要な年限の神学教育をラビのもとで受けられたことはない。そのイエスを「善い師よ」と呼んで、そのみ前にひざまずいたのは、彼がイエスの中に働く神の霊の権威に打たれていたからである(ヨハネ三・二参照)。彼はこの方に自分の人生の究極の問題の解決を求めた。
 「善い師よ、永遠の生命を受け継ぐには、何を為すべきでしょうか」。これはイスラエルに属する人にとって究極の問題である。イスラエルとは神の約束に生きる民である。神が約束してくださっているものを「受け継ぐ」ことこそ、イスラエル人の最大の関心事である。その約束の内容は、み国とか生命とか栄光というようなさまざまの用語やその他の象徴で語られ、それを「受け継ぐ」とか、それに「入る」とか、それに「あずかる」というように用いられた。それで、「生命を受け継ぐ」ことは「神の国に入る」ことと同じ終末的な祝福を指すことになる。イエスが「地を受け継ぐ」(マタイ五・五)と言われたのも、エジプトを出たイスラエルが約束されたカナンの土地を受け継いだことを象徴として、同じことを言っておられる。
 ここで「永遠の生命」という用語になっているのは、この物語が伝承されてゆく過程でヘレニズム世界の影響を受けた可能性が考えられる。この表現は、ここで問題になっている事柄がもはやユダヤ教という特殊な宗教の枠内の問題でなく、死に定められている人間すべてにとって切実な問題であることを示している。(ヨハネ福音書はこの「永遠の生命」を中心的な用語とすることで、より普遍的な性格を獲得していると言える。)
 ユダヤ教は実践的な宗教である。この目的に到達するためには何を為すべきかだけを問う。ギリシア人であれば真理の認識を、仏教徒であれば悟りを問題にするであろうが、ユダヤ人は実生活上の行為だけを問題にする。この人の問いは典型的なユダヤ人の問いである。同時に、死を超える永遠を慕い求めないではおれない人間の普遍的な問いでもある。この問いにイエスは正面から答えられる。
 イエスはまず「善い師よ」という呼びかけに対して、「なぜわたしを善い者と言うのか。神おひとりの他に善い者はない」と応えられる。イエスは自分を善しとすることを拒まれる。神だけを善しとして、ご自分を含めて人間に善を帰すことを厳しく退けられる。神だけを善とし自分を無とする、すなわち神を一切の価値の源泉として、自分の中には善いものは何もないという立場に徹すること、これがイエスという方の人格の秘密である。イエスを父なる神と並ぶ子なる神とする後代の三位一体の神学上の立場から、イエスのこの宣言は御子の無罪性や神性と抵触しないかという議論が今も真面目に行なわれている。奇妙な議論である。イエスはこのように自分を無としておられるからこそ罪がないのである。もしイエスが自分の力と善とに立っておられるのであれば、われわれと同じく生まれながらの人間性の罪の中におられることになる。イエスの聖性は生まれながらの特別な本性にあるのではなく、人間としての本性はわれわれと同じでありながら、イエスだけが神の前に完全に自分を無として神に満たされておられたところにある。この言葉は後の教団のキリスト論から出ることは考えられないし、また開祖を美化する宗教伝承の傾向にも反するので、イエスご自身の口から出たものであり、イエスの人格の秘密を示す貴重な言葉である。同時にこの言葉は、問う人の目を自分自身から神に向けさせて、問題の解決がどの方向にあるのかを指し示している。

自分を捨てよ

 その上でイエスは、「何を為すべきでしょうか」という問いに答えられる。何を為すべきかを問うのであれば、それに対する答えはすでに与えられている。すなわち神の戒め、律法が何を為すべきかを教えている。そして、その「戒めはあなたが知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、欺き取るな、父と母を敬え』」と続くことになる。ここに上げられている六つの戒めは、モーセの十戒の倫理的な部分を(順序は違っているが)引用したものである。イスラエル人にとって最も基本的な戒めである。
 これを聞いて彼は言った、「師よ、それらのことはみな、わたしは若い時から守ってきました」。彼はここで、このような問い方をする自分の立場そのものが間違っていることに気づくべきであった。イエスの答えは、自分が何かを為すことによって永遠の生命を受け継ごうとする彼の立場そのものを衝いているのである。彼は、何か自分が為すことによって、永遠の生命を受け継ぐことができるという立場で生きている。けれども、それが神の戒めを守ることであれ、人間が成し遂げることによって永遠の生命を受け継ぐことはできない。それはまったく別の原理によるのである。彼がその立場にとどまるかぎり、どのように熱心に努力しても、永遠の生命を受け継ぐことはできない。それは彼自身がもっともよく知っているはずである。戒めはすべて守ってきたが、永遠の生命を受け継ぐ確証は自分の中にないのであるから。
 ひたすらな態度で永遠の生命の世界を追い求め、自分の前にひざまづいている青年を、イエスは見つめ、いつくしんで言われた、「ひとつ足りないことがある。行って、持っているものをみな売り払い、貧しい者たちに施しなさい。そうすれば、天に宝を持つことになる。それから、わたしに従ってきなさい」。この足りない「ひとつ」は、先に上げられた戒めに並んで付け加えられるべき「ひとつ」ではない。この「ひとつ」は彼が今立っている場を根底からひっくり返す「ひとつ」である。
 イエスは青年に、自分の財産を貧しい人たちに施す慈善の業が一つ足りないと言っておられるのではない。神の前に自分の持っているもので立とうとする立場そのものを完全に放棄するように求めておられるのである。地上には自分のものを何ひとつ持たず、ただ天にだけ価値あるものを持つ者、すなわち完全に「貧しい者」となって、イエスの仲間になり、イエスに従ってくるように求めておられるのである。「永遠の生命を受け継ぐ」とか「神の国に入る」ということは、自分が為したことや自分が所有しているものによるのではなく、イエスに従い、自分を無とするイエスの在り方に合わせられることによるのである。それはやがて、「イエスに従う者に賜る聖霊」(使徒行伝五・三二)によって現実に体験することになる。
 「この言葉を聞いて、彼は顔を曇らせ、悲しんで去って行った。多くの財産を持っていたからである」。マルコはこの人のことをただ「ひとりの人」としているが、マタイは「青年」としている(一九・二〇、二二)。この物語は、イエスの「わたしに従ってきなさい」という言葉からも、一つの召命物語と考えられるので、この人はペトロらと同じ年代の青年としてよいであろう。イエスは幾人かの青年に「わたしに従ってきなさい」と言って、イエスと共に神の国の宣教に携わるように召されたが、この青年のようにイエスを尊敬しながらも、従いきれずに去っていった者もいたのである。イエスが「塔を建てようとする人」や「敵を迎え撃とうとする王」の譬を用いて、「同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子となることはできない」と言われた(ルカ一四・二八〜三三)のは、このような場合に関するものであろう。ペトロたちは一切を捨ててイエスに従ってきたのであるが、この青年は多くの財産を持っていて、それを捨ることができないため、イエスを生命の道を体現している師と尊敬しながら、イエスに従いきれない非力を悲しんで去って行った。この青年の姿をきっかけにして、「神の国に入る」ことについてイエスと弟子たちとの間で対話が展開される。

神にはできる

 そこで、イエスは弟子たちを見回して言われた、「財産のある者が神の国に入るのは、なんとむずかしいことであろう」。青年は「永遠の生命を受け継ぐ」ことを問題としたが、イエスはこれを「神の国に入る」と表現しておられる。先に見たように、両者は同じ事柄を指している。そして、イエスがおられる所では、「神の国に入る」とか「命に入る」ことは将来の約束であるだけでなく、人が目の前に直面している現実の問題である。今、自分を無として「子供のように受け入れる」か、自分を捨てないで拒むか、現実の問題である。たしかに、自分を捨て、自分を無とすることは魂の姿であるから、地上の財産を持っているかどうかには無関係である。しかし実際には、財産のある者がその魂において自分を捨てて無となることはきわめて難しい。人間の本性は自分が所有しているものを拠り所にして生きる姿勢が身についていて、それから脱却することはほとんど不可能である。もし本当に魂が無の境地にいるのであれば、その境地に徹するために財産を捨てなければならなくなった時には、実際に捨てることができるはずである。それが人間にとって不可能であることを、この青年の姿が示している。
 このことは、青年期に信仰に入る人が多く、中年期以後に信仰に入る人はきわめて少ないという事実が裏書きしている。青年期にはまだ自分の財産がないのが普通であり、あっても人生の意義や理想の追求の熱意の前に財産などは問題にしない時期である。そのような時期にイエスに出会うと従いやすい。ところが、中年期以後だんだんと地位や財産が増し加わってくると、それを捨てることはもちろん、そういうものを拠り所としない生き方はますます難しくなる。この物語の人物は青年にしてすでに多くの財産を持っていたので、イエスに従うことができなかったのである。
 弟子たちはイエスのこの言葉に驚いた。イスラエル人にとって富は神の祝福のしるしである。イエスの言葉は弟子たちの宗教的常識を覆すものであった。イエスが語られる「神の国」はいつも人間の思いを覆す。弟子たちはこの驚きを語り合い、中にはイエスに質問する者もあったのであろう。
 イエスは再び答えて言われた、「子たちよ、神の国に入るのは、なんとむずかしいことであろう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がやさしい」。金持ちだけに限らず、そもそも人間が神の国に入るのは難しいことなのだ、とイエスは言われる。別の箇所で、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」というイエスの言葉も伝えられている(マタイ七・一四)。しかし、間違ってはいけない。イエスが「難しい」とか「門は狭い」と言われる時、それは普通の意味の難しさ、たとえば日本で一流の大学に入るのは難しいとか、門が狭いと言われるのとは全く違った意味である。
 普通難しいことというのは、高い能力のある者が懸命に努力してすぐれた成果をあげることによって、やっと達成できることである。しかし、神の国に入ることは、そういう意味で難しいのではない。イエスは何の能力もない子供を指して、「神の国はこのような者たちのものである」と言っておられる。誰でも神の国に入ることができる。資格や能力は要らない。神の国に入るのが難しいのは、「子供のように受け入れる」ことの難しさ、すなわち自分を無資格・無価値・無能の場に置くことの難しさである。人間は本性的に自己の価値を主張し、自分の力や努力に拠り所を求める。だから、自分を無の立場に置くことは、人間の本性に反することであって、これほど難しいことはない。そして、自分の持ち物が多い人ほど難しいことになる。自分が所有しているものは財産だけではない。地位や名誉や知識も自分の所有である。持ち物は人間の本性的な自我性を目覚めさせ、強め、撞き固める。このような自分の持ち物が多い人が神の国に入るのは、「らくだが針の穴を通る方がやさしい」、すなわち、まず不可能なことだと言われるのである。
 そこで、弟子たちはますます驚き慌てて、互いに言った、「それでは、いったい誰が救われることができようか」。人間の宗教的常識からすれば、持ち物が多い人、すなわち能力のある立派な人ですら神の国に入るのがそのように難しいとすれば、平凡な人間はとうてい救われない、ということになる。ここでも弟子たちの驚きは、イエスの中に到来している「神の国」がいかに人の思いを超えたものであるかを示している。 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである」。たしかに人間は自分で自分を無にすることはできない。それは人間の本性に反することである。それができるのは神だけである。ここで、財産を捨てることができず去っていった金持ちの青年の問題に対して解決が与えられている。その解決の方向はすでに「神おひとりの他に善い者はない」という冒頭のイエスの言葉によって指し示されていたが、ここで明白な言葉で提示される。「永遠の生命を受け継ぐ」とか「神の国に入る」ためには、自分が持っているものを捨て切り、自分を無としなければならないのに、人間にはそれができない。青年はそれができないことを悲しんで去っていった。彼は「人にはできない」という場所で引き返してしまった。もう一歩、「しかし、神にはできる」という場に身を翻して飛び込めば、神の国を見ることができたのである。
 では、神はどのようにして人のできないことを成し遂げられるのであろうか。それは反抗を力ずくで撃ち砕いて成し遂げるという仕方ではなく、人間の弱さを自らに引き受けるという、人間が思い浮かべることもできないような意外な仕方で為して遂げられた。それがイエス・キリストの十字架である。イエスが十字架の上に血を流して死なれた時、それはわれわれ人間の罪のためであった。すなわち、自己の価値を主張して、神の恩恵に平伏そうとしない人間の自我性という根源的な罪を自らに引き受けての死であった。神はイエスの十字架において人間のかたくなな自我心を打ち砕かれた。今、イエスを信じてその十字架に合わせられる者は、自我の砕けを恩恵として賜るのである。
 この「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである」というイエスの言葉は奇跡を期待する場面でよく用いられる。たとえば、もはや人の力では治る見込みのない病気の癒しを神に祈り求める時、このみ言葉が信仰の根拠となる。その通りである。おそらく病人を癒し悪霊を追い出すという宣教活動を展開した初期の教団でも、この言葉はそのような奇跡の業を根拠づける言葉として用いられ、単独で伝承されていたのであろう。もし、そのような独立の言葉を「神の国に入る」ことや人間の救いを主題とする対話の中に用いたのはマルコの編集によるものとすれば、マルコの人間理解や救済理解はたいへん深いものがあると言わなければならない。この言葉を人間の救済という文脈で用いることができるのは、十字架の救いを深く理解している者だけであるから。

すべてを捨てる者

 そこでペトロが言い出した、「ごらんください。わたしたちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」。多くの財産を持っているため自分を捨てることができず、イエスのもとから去って行った青年と違って、ペトロをはじめ弟子たちはイエスに召された時、ただちに家業や家族を捨ててイエスに従ってきた。財産のある者が神の国に入ることはまず不可能なことだと言われたイエスの言葉に対して、ペトロが弟子たちを代表してこう言ったのは、「わたしたちはすべてを捨てて従ってきた以上、神の国を受け継ぐことは確かでしょうね」という気持ちであろう。
 それに対してイエスは言われた、「あなたがたによく言っておくが、わたしのため、また福音のため、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てる者はだれでも、今この世では迫害と共に、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を百倍も受け、来るべき世では永遠の生命を受ける」。イエスが改まって重要なことを語りだされる時の「アーメン、わたしはあなたがたに言う」が、ここで用いられている。ここで語られていることはイエスの真実にかけて保証されているのである。ペトロたちがしたようにイエスに従うために家族や家業を捨てることは、イエスの復活以後においてはイエスをキリストであるとする福音を証し宣べ伝えるために家族や家業を捨てることになる。それで、イエスが「わたしのために」と言われたところは、初代の教団では「福音のために」と重なって伝承されることになる。教団においては、「イエス」とは復活して彼らの中に生きておられるキリストに他ならない。ここで、イエスのために捨てる家族のリストに妻が含まれていないこと、捨てる方のリストには父があるのに受ける方には父がないこと、また捨てる家業は畑だけで舟や網がないというようなことは特別な意味を持つものではなく、家族や家業を捨てることを具体的に表現するのにそのリストが不完全であっただけと理解すべきであろう。
 イエスのため、すなわち福音のために家族と家業を捨てる者が受ける報いは、時代思想の「二つの《アイオーン》(世)」の枠組みの中で、今の「この世」での報いと「来たるべき世」での報いの二種類に分けて語られている。しかし実質的には一つの報いである。それは自分を捨ててイエスに合わせられて生きる者に与えられる神の生命、イエスが生きておられるのと同質の生命である。その生命によって生きる時、この世ではイエスが苦しみを受けたように迫害も受けなければならないが、同じ生命に生きる者たちの交わりの豊かさや生きることの喜びの深さを味わうことが許される。イエスに従う者たちの交わりにおいては、すべての人が父や母となり、兄弟姉妹となる(マルコ三・三三〜三五参照)。「百倍も受け」という表現はその豊かさを示している。そして、この生命はこの世だけで終わるのではなく、「来たるべき世」において神の前に生きることができる生命、終末的生命である。それは復活にいたる生命である。この生命によって生きる時はじめて、この世の人生は苦難の中にあってもまことの豊かさを宿すものとなる。この命の現実に入ることが「神の国に入る」ことである。
 この神の国に入ることについての対話の最後に、「だが、多くの最初の者が最後になり、最後の者が最初になるであろう」という言葉が置かれている。これは人の運命の変転を語る当時の格言であったらしい。それをイエスが神の国の一面を語るのに用いられたのが伝承されたのであるが、マタイとルカでは違った場面で用いられている。マルコがここに置いたのは、神の国に入るのは人間的な評価では最も先に入ると見られている者ではなく最後になると見られている者だという、価値の逆転を語るこの段落を一般に親しまれている格言で締め括るためであろう。この逆転は旧約聖書以来の伝統である。強大な民ではなく弱小の民が、兄ではなく弟が選ばれてゆく。そして福音においては聖職者ではなく、取税人や遊女が(マタイ二一・三一)、イスラエルではなく異邦人が(ルカ一三・二八〜三〇)先に神の国に招かれる(なおマタイ二〇・一〜一六も参照)。