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55 子供と神の国  10章 13〜16節

 13 イエスにさわっていただこうとして、人々が子供たちをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちがこの人々をとがめた。 14 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた、「子供たちをわたしのところに来させなさい。止めてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15 あなたがたによく言っておくが、子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはない」。 16 そして、子供たちを抱き、ひとりひとりに手を置いて祝福された。

イエスと子供

 イエスは病人や病気の箇所に触れて病気を癒された(マタイ八・一五、九・二九、マルコ七・三三など)。それで病気に苦しむ人々はイエスにさわろうとして押し迫ったのであった(マルコ三・一〇、五・二七、六・五六)。人々はイエスが「神の人」であり、イエスとの接触によって神の力が注がれると信じたのである。そうであれば、子の健やかな成長を願う親が、神の祝福の力を得るために、「イエスにさわっていただこうとして、子供たちをみもとに連れてきた」のは自然なことである。
 「ところが、弟子たちがこの人々をとがめた」。なぜ弟子たちがこのような親の行為をとがめたのか、彼らの動機を正確に推測することは難しい。マルコが伝える弟子たちの姿、とくにこの最後の旅の途上での言動から推察すれば、弟子たちはイエスがエルサレムに入られるとき「神の支配」が大いなる栄光の中に現われると信じており、自分たちもその大いなる出来事に加わって大きな働きをするのだと、高揚した気分でいたのであろう。そのようなところに、何の役にも立たない小さい子供を連れてくるのは場違いなことであり、自分たちの大いなる事業の邪魔になるだけだと考えたからであろう。
「イエスはこれを見て憤り」、子供を自分のところに連れてくるように命じられる。イエスが憤りを見せられるのは、自分になされた悪に対してではなく、「小さい者」が無視され、苦しめられるのを見られるときである。イエスは弟子たちに言われる、「子供たちをわたしのところに来させなさい。止めてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。「このような者たち」というのは、先にも述べたように、子供のように純粋で無垢な者という意味ではない。子供のように自分で何もできない者、受けるだけで何も差し出すものを持たない者、無力、無価値な者という意味である。「神の国」とか「神の支配」は、弟子たちが考えているような、偉大な者たちの偉大な働きによって形成される偉大な王国ではなく、このような「小さい者」、「貧しい者」たちの中に成就する神の働きであり、神の恩恵の支配である。ここでも、イエスが見ておられる「神の国」と弟子たちが期待している「神の国」とが、正反対の方向を向いていることが分かる。
イエスは言われる、「あなたがたによく言っておくが、子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはない」。「神の国」とは人間の大いなる働きの頂点にあるものではなく、神が恩恵によって人間に差し出して下さっている現実である。人間はその現実を受け入れることができるだけである。その際、自分の価値や功績や資格を差し出すことはできない。そうすることは「神の国」を自分の力で築こうとすることである。「神の国」は「子供のように受け入れる」、すなわち自分からは何も差し出すものがない者として受け入れることができるだけである。そのように受け入れる者でなければ、神の恩恵の圧倒的な働きの場である「神の国」に入っていくことは決してできない。

信仰によって

 このように「子供のように受け入れる」ことを「信仰」と言う。だからパウロが「信仰によって義とされる」と言うとき、彼はイエスのこのみ言葉と同じ事を言っていることになる。「義」とは人間が神に受け入れられて持つ神との栄光ある繋がりであり、「義とされる」とはそのような繋がりに入れられることてあって、イエスが言われる「神の国に入る」ことと同じ現実を指しているからである。そして、パウロの福音において「信仰によって義とされる」ことが中心であるように、イエスの「神の国」の宣教において、このみ言葉は中心的な位置を占めている。
 イエスがあらたまって「神の国」について重大な発言をされるとき、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」と言われる(この私訳では「あなたがたによく言っておくが」と訳している)。マルコはこのようなイエスの「アーメン句」を十三箇所で伝えているが、この句はその中でも重要な中心句である。おそらくこのみ言葉は「神の国」について最も重要なみ言葉の一つとして、「アーメン句」の形で独立して伝承されていたのであろう。マルコはこの段落に見るように、それを子供たちがみもとに来るのを妨げないようにと語られた時の発言としているが、マタイは別の構成の中で用いている。すなわち、弟子たちが誰がいちばん偉いかと論じ合ったとき、イエスが一人の子供を中に立たせて語られた言葉としている(マタイ一八・一〜三)。
 ルカはマルコの構成に従っているが、人々は「乳飲み子」まで連れて来たとしている(ルカ一八・一五)。これは(七十人訳とルカではギリシア語は違っているが)詩編八編二節(原典三節)の影響か、それとも何もできない無力な者という理解を強調するために選ばれた用語と考えられる。この理解を深め徹底させていったところに、ヨハネ福音書の「よくよく言っておくが、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」(三・三)とか、「よくよく言っておくが、だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(三・五)という表現が出てくる。すなわち、この生まれながらの人が徹底的に無力・無価値なものとして否定されて死に、神の恩恵の働きだけによって生まれ出たまったく別の主体によらなければ、神の国の現実に入ることはできない、というのである。ヨハネ福音書のこの表現の背後には、マルコが伝えるイエスのこのみ言葉の強力な伝承があると考えられる。そうだとすれば、「神の国に入る」というヨハネにはやや異質な表現が用いられていることも説明がつくことになる。
この段落は、「そして、子供たちを抱き、ひとりひとりに手を置いて祝福された」というイエスの具体的な祝福の行為で締め括られる。