市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第54講

54 離婚について  10章 1〜12節

 1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤ地方に行き、ヨルダン川の向こう側に渡られた。するとまた、群衆がみもとに集まってきたので、いつものように、また教えておられた。 2 すると、パリサイ派の人たちが近づいて来て、イエスを試みようとして質問した、「夫が妻を離縁することは、律法にかなうことでしょうか」。 3 イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたにどう命じたか」。 4 彼らは言った、「モーセは離縁状を書いて妻を去らせることを許しました」。 5 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたの心がかたくなであるため、モーセはこの規定を書きしるしたのである。 6 しかし、創造の初めから、神は人を男と女に造られた。 7 それゆえに、人は父と母を離れて妻と結ばれ、 8 二人は一体となる。このように、彼らはもはや二人ではなく、一体である。 9 それで、神が一つのくびきに繋がれたものを、人が離してはならない」。
 10 家に入ってから、弟子たちが再びこのことについて尋ねた。 11 そこでイエスは彼らに言われた、「誰でも妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を行なうのである。 12 また、妻が夫と別れて他の男と結婚するならば、姦淫を行なうのである」。/p>

創造の秩序

 マルコの構成では、イエスはこの時点ではガリラヤのカファルナウムにおられることになっている。ガリラヤからユダヤに行くには、普通ヨルダン川の向こう側(東ヨルダン)を経てユダヤに入ることになる。しかも、イエスの一行にはヨルダン川を渡らないで直接サマリヤ経由で行くことに困難な事情があったとすれば(ルカ九・五一〜五六)、「そこを去って、ユダヤ地方に行き、ヨルダン川の向こう側に渡られた」という行程は、不可能ではないが不自然である。この不自然さを除くために、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側へ」の「と」を取って「ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方」(マタイ一九・一)と読む写本や、「ヨルダン川の向こう側を通ってユダヤ地方に入られた」とする写本がかなりある。読者に分かりやすくなるように書き替えるのが写本の傾向であるから、不自然な行程を示す本文の方が本来の読み方であろう。
 その行程はともかく、イエスが最後にエルサレムに入られる前にヨルダンの向こう側に行かれたという事実は、弟子たちに記憶され伝承されていた(ヨハネ一〇・四〇)。イエスは死を目前にして、「時が来る」までのしばしの時を、エルサレムから離れた比較的安全な所で弟子たちとだけで過ごそうとされたのであろう。しかしそこでも「群衆がみもとに集まってきたので、いつものように、また教えておられた」ということになる。最後の最後まで、イエスは飼う者のない羊のような群衆を憐れみ、「神の国」の教えを説き続けられたのである。そしてここでも、イエスを陥れる材料を得ようとする批判者たちの策謀は止むことはなかった。「ファリサイ派の人たちが近づいて来て、イエスを試みようとして質問した」のである。

 彼らの質問は、「夫が妻を離縁することは、律法にかなうことでしょうか」というものであった。律法の立場からは、離婚が許されていることに疑問の余地はなかった。律法には明白に離婚を前提にした規定があるからである(申命記二四・一〜四)。ただ離縁の理由について意見が分かれ、議論されているだけである。それにもかかわらず、彼らがイエスにこの質問をしたのは、イエスが日頃から離婚を姦通だとする厳しい発言をしておられること(マタイ五・三二参照)を知っていて、「離縁は許されない」という発言を群衆の前で引き出し、イエスが律法の明文を無視する者であるとの公然の証拠を得ようとしたのであろう。マタイの並行箇所(一九・三〜九)はこのような理解で構成されている。すなわちマタイにおいては、イエスが創世記を引用して離縁を否定された後で、彼らは「それでは、モーセ律法の離縁の規定はどうなるのか」と詰め寄っている。
このように仕掛けられた罠をイエスは見事に破られる。イエスは逆に「モーセはあなたがたにどう命じたか」と尋ねて、彼らの口から「モーセは離縁状を書いて妻を去らせることを許しました」という律法の明文の規定(申命記二四・一)を引き出し、その律法に安住している彼らの在り方そのものが神の御心に反していることを暴露される。彼らが当然の拠り所として引用する律法の規定そのものが、実は神から離反している人間のかたくなな心を責めているのだという、彼らが夢にも思わなかった律法の本質を示される。
イエスは彼らに言われる、「あなたがたの心がかたくなであるため、モーセはこの規定を書きしるしたのである」。直訳すれば、「あなたがたの心のかたくなさに向かって」この規定が書かれたというのである。人間が神から離反せず、その心が神の愛に満ちているならば、このような規定は必要なかったのである。人間は神に対してどこまでも自分を主張しようとするかたくなさによって神から離れ、その在り方は自我中心となり、対人関係もその自我性によって破綻をきたすことになった。夫婦関係においても、お互いの心は離れ離れになり、もはや一緒に暮らすことがお互いの不幸になるという状況が生じる。その不幸をやわらげ、とくに弱い立場の者(古代では社会的に立場が大変弱かった女性)を保護するために、その社会が許す範囲内で離婚を認める立法が必要になる。モーセ律法の「離縁状」というのも、離縁された妻に再婚する自由を保証するための文書であった。モーセ律法にしても現代の民法にしても、結局は離婚に関する法律は「人の心のかたくなさに向かって」制定されたものと言える。もともと法律とは大部分そういう性質のものであろう。律法の性格がこのようなものである以上、律法を守っているから、律法が許す範囲で行動しているから、自分は神の国に入る資格がある(これが律法学者のいう義)と考えるのは、とんでもない思い違いであるということが理解できる(マタイ五・二〇参照)。
 では、神の前で人間は本来どのような姿で生きるのか。イエスは創造の秩序ともいうべき人間本来の在り方を、創世記冒頭(一〜二章)の創造の記事を要約して語られる。「創造の初めから、神は人を男と女に造られた。それゆえに、人は父と母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」。人間が男と女として存在しているという事実の中に、信仰は創造者の意志、創造の秩序を見る。人間が男と女として存在しているのは、創造者がそのように人間を造られたからである。そして、男と女が結ばれて一体とならなければ人類が存続できないという事実の中に、結婚が創造者が定められた秩序であり、二人が一体となることが創造者の意志であることを見る。一人の男と一人の女が結婚によって結ばれる時、それは偶然や好悪や便宜から二人が一緒に暮らし、その中で生物学的な生殖が行われるというにすぎないものではない。それは創造者の定めにより、「彼らはもはや二人ではなく、一体である」という出来事が起こっていることなのである。結婚は性の結合を核として、男性と女性が全存在・全生涯をもって一つに結ばれることである。この一体性は創造者が定められた秩序であり、自我性という人間本性を克服する創造者の恵みの業として、人間の共同生活の中に起こる出来事である。
 結婚における男女の一体性が、このように神の恵みの業である以上、人間がその一体性を自我心のゆえに壊すようなことはしてはならない。「それで、神が一つのくびきに繋がれたものを、人が離してはならない」のである。結び合わせるのは神の恵みの業であるが、引き離すのはいつも人間の自我心である。相手に対する思いやりのない自己主張が、二人の心を引き離し、それがだんだんと二人の共同の生活を困難にしてゆき、ついには別れざるをえないようにさせる。この場合、とくに社会的に強い立場にある方の責任が重い。

恩恵としての結婚

 このように、イエスは離婚を創造者の根源的な秩序に反することとして否定される。ところが、批判者たちだけでなく弟子たちも、モーセの律法を神聖な秩序として鍛えられてきたユダヤ人であるから、明白に離婚を認めているモーセ律法に反して、また、離婚せざるをえない状況がしばしば起こるという人間の現実を無視して、イエスが離婚を否認されることには納得できないものが残ったのであろう。群衆や批判者たちの前では語られなかった秘密の教えがあるのではないか、さらに立ち入った説明を求めて、「家に入ってから、弟子たちが再びこのことについて尋ねた」のである。
 そこでイエスは彼らに言われた、「誰でも妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を行なうのである。また、妻が夫と別れて他の男と結婚するならば、姦淫を行なうのである」。「姦淫してはならない」という戒めは、モーセ律法のもっとも基本的な戒めである「十戒」の中の一つである。律法の立場では、相応の理由があり離縁状を渡して夫が妻を離縁したのであれば、他の女と再婚しても、それは律法によって許されていることであるから、姦淫したことにはならない。また、夫と別れた女が他の男と再婚しても、離縁状があるかぎり、合法的な行為であって、姦淫したことにはならない。ところが、イエスは律法のうえでは許されている再婚も、神が合わせられた結婚の一体性を破る行為として、姦淫を行なっているのだとされる。このように、律法が認めている離婚と再婚を、イエスは全面的に否定されている。このような違いはどこから来るのであろうか。
 それは、律法が成立している場と、イエスが生きておられる場との違いから来る。律法は人間の「心のかたくなさに向かって」書き記されたものであり、自我性という人間本性の場に成立している。それに対して、イエスは神の恩恵が支配している場に生き、そこから語っておられる。モーセ律法も現代の法律も、本性的な自我心から離婚せざるをえない状況が生じるという人間社会の現実を直視して、そのような場合に弱い立場の者(おもに女性と子供)を保護するために、また社会の秩序を維持するために、離婚に関する規定を細かく定めるようになる。その規定は社会の文化的状況によって違ってくる。それに対して、イエスは神の恩恵が圧倒的に支配している場での結婚の姿を語っておられる。そこでは、人を男と女に創造された神の「二人は一体となる」という定めが、その方の恩恵の働きとして実現しているのである。この根本的な場の違いを理解していないと、イエスの発言はただ律法に対して極端に厳格な解釈をする立場だとする程度の理解に陥る。そして、教団も含めて、われわれはイエスの言葉を律法の次元で受け取る傾向から逃れられないようである。
 すでにマタイは、離縁を否定したイエスのこの発言に、「不品行以外の理由で」という句を付け加えている(マタイ五・三二、一九・九)。これは、マルコの本文では離婚も再婚も絶対にできないことになるので、それを一段階やわらげて、不品行の場合、すなわち妻が他の男と関係を持ち続けるような場合には、離婚も許されるとしたわけである。これでは、当時の離婚理由に関する律法学者たちの論争の中で、厳格な立場をとったシャンマイの立場とあまり変わらないものと受け取られる危険がある。
 当時ラビたちの間で、申命記二四章一節の「妻に何か恥ずべきことを見いだし」という離婚理由について論争があり、食物を焦がすことまで含めて広く解釈するヒレル学派と、不品行だけに限るべきだと厳格に解釈するシャンマイ学派が対立していた。ラビたちは離婚が許されることを前提にしてその理由について論争したのであるが、マタイは離婚は創造者の意志に反することであるという主張をしているのであるから、たしかにその方向は違っている。しかし、この句を付け加えることによって、イエスの発言が、きわめて厳格な条件つきであれ、離婚の理由を論じている律法の立場からの発言だとする理解に道を開く可能性がある。ユダヤ人信徒が多かったマタイの教団ではそのような傾向があったのであろう。
 ルカは離婚に関するこの段落を欠いている。ルカがマルコに基づいてその福音書を書いたとすれば(これはほぼ学界の定説になっている)、ルカがこの段落を省略した理由が問題になる。その理由を説明する確かな根拠はない。しかし、ルカの省略は(マタイの付加と共に)、離婚と再婚を全面的に否定するイエスのこの発言を受け取ることに、初代の教団がある種の困難を感じていたことを示唆しているのではないかとも推測される。
 教団が感じるこの困難は、マタイ(一九・一〇)が伝える弟子たちの言葉によく現されている。離婚と再婚を全面的に否定するイエスの発言を聞いて弟子たちは驚き、「妻に対する夫の立場がそのようであれば、結婚することは得策ではありません」と言っている。それに対するイエスの言葉は示唆深い。イエスは「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」と言っておられる(一九・一一新共同訳)。すなわち、イエスが語られた離婚とか再婚がありえない夫婦の一体性の事態は、恵まれた者だけに起こる出来事、恩恵の出来事であるというのである。一組の男女が離婚も再婚もしないで生涯添いとげることができるのは、その男女の律法(道徳)を守りぬく立派さに基づくものではなく、神の憐れみ、恩恵によって可能になったものである。だから、離婚も再婚もしないで初めの結婚を貫いたからといって、人間が誇るべきことではなく、特別に大きな恩恵を受けてそうなったことを感謝することができるだけである。貰いの多い乞食が貰いの少ない乞食を批判できないように、多くの恵みを受けて離婚再婚をしないですんだ者は、そうせざるえなくなった者を批判したり、そうしないように要求する立場にはない。
 このように結婚の一体性が恩恵の事態である以上、教団は律法として離婚や再婚を禁じることはできない。恩恵によって生きる教団は、止むを得ない事情や人間性の弱さから生じた破局の傷を癒し、当事者がさらに神の恩恵に生きるように励ますことが、その使命である。