市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第52講

52 つまずき  9章 43〜48節

 43 もし、あなたの片手があなたをつまずかせるならば、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入る方が、両手が揃ったままで地獄の消えない火に落ちるよりもよい。 [44 そこでは蛆は絶えず、火は消えることはない。] 45 また、あなたの片足があなたをつまずかせるならば、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入る方が、両足が揃ったままで地獄に投げ込まれるよりはよい。[46 そこでは蛆は絶えず、火は消えることはない。] 47 また、あなたのひとつの目があなたをつまずかせるならば、それを投げ捨てなさい。片目で神の国に入る方が、両眼が揃ったままで地獄に投げ込まれるよりはよい。 48 そこでは蛆は絶えず、火は消えることはない。

地獄

 「つまずかせる」という共通の用語を結び目として、前のみ言葉にこの段落が続く。しかし、「つまずかせる」という内容はかなり違っている。前の段落では小さい者を苦しめる行為であったが、ここでは自分の体の一部が自分の信仰を妨げるきっかけになることである。手や足や目が人を信仰から引き離すというのはどういうことか、その具体的な内容は何も語られていない。マタイは、目について「みだらな思いで他人の妻を見る」という文脈に置き、手についても同じような性質のこととして、同じ段落に置いている(マタイ五・二七〜三〇)。
 イエスが「地獄」《ゲヘナ》のことを語られるのは、マルコ福音書ではここだけである。ルカでは「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方を恐れよ」(一二・五)という一箇所だけである。マタイではマルコとルカのこれらの言葉との並行箇所の他には、律法学者に関するお言葉が二つある(二三・一五、三三)くらいである。たしかにイエスは地獄について真剣に語っておられる。しかし、むしろその数の少ないことに注目すべきであろう。
 《ゲヘナ》とは、エルサレム南西にある「ヒンノムの谷《ゲヒンノム》」から来たギリシア語である。その谷では、王国時代に子供を焼いてモレクに捧げるという忌まわしい祭儀が行なわれ、預言者から「殺戮の谷」と呼ばれるようになると呪われた(エレミヤ七・三一〜三四)。イエスの時代にはこの谷は汚物を焼き捨てる場所となり、ユダヤ教では劫火が燃える永劫の処罰の場所を指すようになった。「そこでは蛆は絶えず、火は消えることはない」という表現は、この谷の様子から生じたイメージである(四四節と四六節は有力な写本に欠けている)。
 イエスはこのような当時の人々の地獄の表象を踏襲しておられるが、(源信が「往生要集」でしたように)地獄の姿を詳しく展開されることはない。ただ地獄に陥ることの恐ろしさを真剣に取り上げておられるのである。この真剣さは、「いのちに入る」こと、あるいは「神の国」に入ることの真剣さの裏側である。イエスにおいては、「神の国」は単なる思想ではなく、父なる神との交わりという現実である。その現実に入るか否かは、人生にとって最も真剣な問題である。「神の国」が人間にとって真剣に問題とするべき現実であるだけに、その現実に入る可能性が永久になくなることは、もっとも恐ろしいことである。地獄とは神との交わりから永劫に断ち切られることであって、人間にとって根源的な絶望である。イエスはこの絶望に陥ることを真剣に問題にされているのである。
 この真剣さが「あなたの片手があなたをつまずかせるならば、それを切り捨てなさい」というような言葉で表現され、さらに足と目と、たたみかけて強調される。これは、片手が信仰のつまずきになったからといって、実際に片手を切り捨てることを求めておられるのではない。体の一部を切り捨てたとしても、つまずきがなくなるわけではない。つまずきとは心の問題だからである。「片手でいのちに入る方が、両手が揃ったままで地獄の消えない火に落ちるよりもよい」と続いているように、信仰によって父なる神との交わりの現実にとどまることは、五体満足で健康な体を維持することよりも、はるかに真剣で重要な問題であることを言っておられるのである。われわれにとっては、キリストの現実にとどまることは、体の死生よりも重大な事柄であると言える。