市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第42講

42 パン種  8章 14〜21節

 14 さて、弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中にはパン一つのほかは何も持ち合わせがなかった。 15 イエスは彼らを戒めて言われた、「気をつけなさい。パリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種を警戒しなさい」。 16 そこで弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことを互いに論じ合った。 17 イエスはそれに気づいて言われた、「あなたがたはどうしてパンを持っていないことを論じ合っているのか。まだ分からないのか。悟らないのか。あなたがたの心は固くなってしまっているのか。 18 目があっても見えず、耳があっても聞こえないのか。あなたがたは覚えていないのか。 19 わたしが五つのパンを五千人に裂いて与えたとき、パン屑を集めるといくつの篭に一杯 になったか」。彼らは「十二篭です」と言った。 20 「七つのパンを四千人に与えたときは、パン屑を集めるといくつの篭が一杯になったか」。彼らは「七つです」と言った。 21 するとイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。

弟子たちの無理解

 この物語は現形では不自然である。イエスが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種を警戒しなさい」と明白に語って、実際の食料のことではなく教派的教義や政治家的偽善を警戒するように言っておられるのに、その後で弟子たちはパンを持っていないことを論じ合っている。この物語は本来、パンがないことを心配している弟子たちに、彼らが本当に心配しなければならないのは食物のことではなく、彼ら自身の内面に巣くうファリサイ精神であることをイエスが教えられたものであろう。
 このような物語本来の流れは、マタイ福音書の並行記事(一六・五〜一二)の方に比較的よく保存されている。そこでは、パンがないことを心配している弟子たちに、五つのパンを五千人に、七つのパンを四千人に与えた出来事を思い起させたうえで、「わたしがパンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」(一一節)と言われている。マルコは結論を先に置く(一五節)ことによって、弟子たちの無理解ぶりを際立たせている。
 弟子たちが「パンを持っていないことを互いに論じ合った」のは、これからの旅の行程を考えて、食料がないことを心配し、その対策を議論したり、そうなった責任を互いになすりつけたりしたのであろう。あの五つのパンを五千人に、七つのパンを四千人に与える奇跡を体験したすぐ後で、このようにパンの欠乏を心配するのは、イエスの中に到来している事態についての全くの無理解にほかならない。イエスが「あなたがたはどうしてパンを持っていないことを論じ合っているのか。まだ分からないのか。悟らないのか」と言って、彼らの無理解を嘆かれる時、それはファリサイ精神の害毒を彼らが理解していないことを嘆いておられるのではなく、彼らがあのパンの出来事を体験していながら、その終末的な意義を悟らない彼らの無理解が嘆かれているのである。そのことは、それに続いてイエスが「あなたがたは覚えていないのか。…」と言って、あのパンの奇跡を思い起させておられることからも明白である。
 ここでの弟子たちの無理解に対するイエスの嘆きと叱責には激しいものがある。イエスは「まだ分からないのか。悟らないのか。あなたがたの心は固くなってしまっているのか。目があっても見えず、耳があっても聞こえないのか」と言って、畳みかけるように叱責の言葉を連ねておられる。「目があっても見えず、耳があっても聞こえない」とか「悟ることがない」という表現は、先には、「神の国」の秘密が打ち明けられている弟子たちの集団から見た「外の人々」について用いられていた(マルコ四・一二)。ところがここでは、弟子たち自身についてさらに激しい調子で用いられている。
 「外の人々」とは違って、弟子たちは常にイエスの身近にいて、「神の国」の奥義を教えられ、イエスの人格の秘密を指し示す出来事を目撃することを許されてきた。その弟子たちがここまで来て「まだ分からない」のである。とくにあのパンの出来事についての無理解はどうしたことか。あの出来事をパン屑を集めた篭の数まで思い起させて、「まだ悟らないのか」と彼らの無理解を嘆かれる。イエスの中に到来している終末的な事態が、あのような驚くべき形で指し示されているのに、弟子たちはそれを見ることができないのである。終わりの日に成就する神の支配を体現する方が目の前におられて、その方と一緒にいるのに、パンの欠乏を心配し、自分たちで対策を立てなければならないように考えて議論しているのである。このような弟子たちの無理解と不信仰に対して、昔預言者が神の言葉を聞いも悟ることもなかったイスラエルの民に投げかけた激しい叱責の言葉(イザヤ六・一〇など)が、そのままイエスの唇に上る。この事実は、いくら懇切に教えられても、人間の本性にはどうしても神の事態を理解することができない暗闇があることを示している。今イスラエルから拒まれて受難の旅の途上にあるイエスは、弟子たちをも含む全イスラエルの悟りのないかたくなな心を深く嘆き、激しく叱責されるのである。

パン種

 この場面でイエスが「パン種」のことを口にされるのは、食料のことではなく、人の内面に巣くって全体を駄目にしてしまう人間的宗教性のことを警告するためである(マタイ一六・一一)。弟子たちがパンのことで議論しているのを知って、「あなたがたが本当に心配しなければならないのは、食べ物のパンのことではなく、ファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ派の精神なのだ」と諭しておられるのである。マタイでは「ファリサイ派」と「サドカイ派」と言われ、ルカでは「ファリサイ派」だけが名指しされている(一二・一)。マルコでは「ファリサイ派」と「ヘロデ」となっている。ここでは「ヘロデ」は単数形が用いられているが、他の所(マルコ三・六、一二・一三)では「ヘロデ派の人々」として行動している。ここでもヘロデ個人というより、ファリサイ派やサドカイ派と並んで「ヘロデ派」のことが言われているとしてよいであろう。「ヘロデ派」の内容はあまり分かっていない。特定の宗教的立場を指す名称ではなく、当時のガリラヤとペレアの領主であったヘロデ・アンティパスの政治的手先として行動した者たちの呼称であろう。このヘロデは自分の権力維持のためにバプテスマのヨハネを処刑し、イエスの命も狙っていたのである。
 「パン種」は、イエスは大胆に「神の国」の譬として用いておられる(マタイ一三・三三)が、ユダヤ教では普通、人間の内面に隠されている悪い性向の象徴である。僅かのパン種が全体を膨らませるように、人間の内面に隠されている僅かの邪悪な精神や誤った原理が、人間全体を堕落させたり腐敗させたりする(コリントT五・六〜八やガラテヤ五・九で、パウロもこのような意味のユダヤ教の用例を踏襲している)。イエスはここで「パン種」をそのような意味で用いておられる。信仰の世界では、内面に隠されている邪悪な心や誤った原理は、たとえ外には表れない僅かなものであっても、まことの生命を台無しにしてしまうのである。命の道を歩もうとする者は、食料の欠乏よりも何よりも、このようなパン種を警戒しなければならないのである。
 さて、この「パン種」の内容は何であろうか。ルカはこのパン種を「偽善」と理解し(一二・一)、マタイはこれを彼らの「教え」と理解している(一六・一二)。マルコは特定の理解の仕方を挙げないで、聞く者の理解に委ねている。しかし「ファリサイ派の人々のパン種」と言えば、その教えも偽善も含めて、ファリサイ派の人々の在り方全体を指すことは明らかである。そしてここで(マタイの並行記事も合わせると)ファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ派という当時のユダヤ教社会の代表的な立場の者たちの在り方が、それが少しでも混入すれば神との正しい関わりの全体を駄目にしてしまう危険なパン種として警告されているのである。
 「ファリサイ派」の本質は律法主義である。律法の順守が神と人間の関係の土台であるとして、律法を熱心に研究し厳格に実行しようとする。それは律法を行なった自分の功績を救いの根拠とするので、行なわない者を神との関わりのない「罪人」として裁き、行なう自分を「義人」として誇る(しかもその行いは、誇りとか高慢という内面に巣くう根源的な罪をそのままにして、外面の行為が律法にかなっているかどうかを問題にするので、必然的に偽善に陥る)。
 それでファリサイ派は、律法をどれだけ守っているかどうかには全く無関係に、彼らのいう「罪人」を神の民として招き入れられたイエスの福音に最も激しく敵対したのである。イエスが宣べ伝えられた「神の国」は「恩恵の支配」であって、ファリサイ派ユダヤ教の「律法の支配」とは真正面から対立するものである。それで、「神の国」に生きようとする者の中に僅かでも律法主義が入ってくると、すなわち少しでも自分の価値や功績を誇り、それを自分の救いの土台にしようとする精神が混入すると、恩恵の支配は名目だけのものになり、「神の国」の全事態が形骸化する。それはもはや神の霊による圧倒的な神の働きの場ではなくなり、人間の能力が構築する汚れた朽ちるべき建物、「白く塗られた墓」にすぎなくなる。
 キリスト者個人としても、最も警戒しなければならないのは、知識の不足でもなく、人生上の失敗や道徳的な過ちでもなく、この律法主義のパン種である。信仰生活の中に少しでも自分の価値や功績に頼ったり誇ったりする心が入ってくると、その分だけ確実に聖霊の働きを妨げ、喜びや感謝は減少し、不安や高慢が増加する。そしてついにはキリストの確かさそのものが壊され、信仰は単なる形骸化した思想にすぎないものになってしまう。
 キリスト教会は特別にこの律法主義を警戒しなければならない。教会ほど律法主義のパン種が入りやすい所はない。「罪人を招く」福音を唱えていながら、実際には人々にまず教会の基準にかなった者になることを求め、そうなった者だけに救いを約束する「義人を招く」教会になっていないであろうか。教会は「恩恵の支配」の事態をよほどしっかりと把握し身につけていないと、福音の保持者として存続することはできないであろう。
 マタイは「サドカイ派」の名もあげているが、これはエルサレムの祭司階級の者たちが多く祭儀的な関心が強いとか、モーセ五書しか権威を認めないとか、ファリサイ派と違う点もあるが、律法主義であることは変わらない。ここで律法主義のパン種について言われたことは、そのままサドカイ派にも当てはまる。
 「ヘロデのパン種」は性質が異なる。これは律法主義というような宗教的な原理ではなく、ヘロデに典型的に見られるような、真理よりも権力を愛し、真理を押し潰してでも自分の権力を維持しようとする、人間の隠れた支配欲の本性である。この本性から、人間が形成する集団にはいつも、外に向かっては自己の支配を拡大しようとする衝動、内においては支配を争う権力争いが絶えないのである。もしキリスト教会がこのような人間本性に引きずられて自己自身を目的とする集団になってしまうと、もはや神の恩恵が支配する場ではなくなり、真理は押し潰されてしまう。教会が自己の存立や拡大を目的とするのでなく、神の栄光と福音の真理のために自己を否定して仕えていくことは、聖霊の圧倒的な力のもとで初めて実現できることであろう。