市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第41講

41 天からのしるし  8章 11〜13節

 11 パリサイ派の人々が出て来て、イエスに議論をしかけ、イエスを試そうとして天からのしるしを求めた。 12 イエスは霊において深く呻いて言われた、「この時代は、なぜしるしを求めるのであろうか。よく言っておくが、この時代にしるしは決して与えられない」。 13 そして、彼らをあとに残して、再び舟に乗り、対岸へ去って行かれた。

しるしの要求

 「ファリサイ派の人々」の考え方や教義については、これまでに断片的ながら触れてきた。彼らの基本的な立場は、モーセ五書に書かれている律法であれ、昔の学者たちの言い伝え(ハラカ)であれ、神の律法を厳密に守ることがイスラエルが主の民として救われ完成される唯一の道であるとするものであったから、安息日に対する態度に典型的に見られるように、律法を無視するようなイエスの態度や教えを放置することはできなかった。ここでも彼らはおそらく律法に対するイエスの態度を糾弾するために議論をしかけたのであろう。そして、イエスがモーセの律法を変更したり廃止したりするのであれば、そうする権威がある者であることを証明する「天からのしるし」を見せるように要求したのである。
 当時多くの霊能者たちが病気を癒し悪霊を追い出したりしていた。イエスが単なる霊能者ではなく、神から遣わされた預言者であり、しかもモーセ律法を超える預言者であるならば、モーセにまさる「天からのしるし」を示して、自分がそういう者であることを証明しなければならない、と彼らはイエスに迫っているのである。たとえば、「モーセは荒野で天からマンナを降らせてイスラエルの民に食べさせたが、あなたはそれに勝るどんなしるしを行なうのか」と迫っている(ヨハネ六・三〇〜三一)。
 この時だけではなく、イエスの生涯にはこのような「しるし」、すなわちイエスが神から来られた方であることを証明する「しるし」の要求がつきまとっていた。証明を要求するのは信じようとしない心から出る。イエスは「この時代は、なぜしるしを求めるのであろうか」とか、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」(マタイ一二・三九)と言って、彼らが「しるし」を要求するのを嘆いておられる。
 その時代の者たちの不信仰だけではない。イエスは彼らの「しるし」の要求の背後に試みる者(サタン)の働きを見ておられる。イエスが彼らの要求に対して「霊において深く呻いて」おられたのは、この決定的な時におけるイスラエルの不信仰に対する嘆きだけではなく、彼らの要求を通して働きかけるサタンとの戦いから出る呻きでもあろう。マタイとルカが伝える「荒野の試み」の記事は、その成立の由来はどうであれ、イエスの生涯を通してつきまとっていた試練と誘惑を要約したものと考えられる。その中で石をパンに変えよとか、神殿の高い屋根から飛び降りてみよとかいう要求の記事は、民衆や批判者たちが突き付ける「しるし」の要求を、イエスがご自分の内面の戦いとして受けとめ、「霊において激しく呻き」ながら戦い、その誘惑を克服されたことを物語るものであろう。
 イエスは「この時代は、なぜしるしを求めるのであろうか」と言って、「この時代」の不信仰を嘆いておられる。ここに用いられている《ゲネア》というギリシア語には「世代」とか「時代」という意味と共に「人種」という意味もあるので、ここで「この民」、すなわちユダヤ人一般の不信仰が嘆かれているという解釈も可能であるが、この語の背後にあると考えられるヘブライ語ないしアラム語には「人種」の意味はないのと、「このゲネア」は福音書においてはいつも激しい非難と終末的な裁きの対象として語られていることからして、やはり「世代」とか「時代」という意味に理解すべきであろう。ここでイエスの出現を迎えた世代のユダヤ人が、イスラエルの歴史の最終局面を担う者として、その責任を問われているのである(ルカ一一・五〇〜五一参照)。まさにイスラエルの歴史を成就すべきその世代がかくも不信仰であることを、イエスは嘆いておられるのである。
 彼らの「しるし」の要求に対して、イエスは「よく言っておくが、この時代にしるしは決して与えられない」と言って拒絶される。ここの原文は「よく言っておく。もしこの時代にしるしが与えられるとすれば」となっている。これはマタイ一二章三九節との並行関係から見て、本来「もしこの時代にしるしが与えられるとすれば、それはヨナのしるしだけであろう」というものであったが、ヨナのことが理解できない人々の間で伝えられる過程でその部分が抜けて、他にはしるしは与えられないという部分が、激しい拒絶の表現として伝えられたものと考えられる。
 イエスは証明を求める者たちに直接復活を指し示されることはないが、聖書にある三日三晩大魚の腹の中にいたヨナの物語を指し、「ヨナにまさる者がここにいる」と言って、ご自分が復活によってヨナのしるしを成就する者であること、すなわちイスラエルの歴史を成就する者であり、イエスに直面しているこの世代がイスラエルの歴史の最終局面を担う世代であることを宣言しておられる。その世代はイエスの復活において神の究極の「しるし」に出会うことになるが、それを待つまでもなく、今目の前におられるイエスが「しるし」なのである。この「しるし」を見ることができない者たちには、もはやいかなる証明もありえない。彼らは彼らの不信仰に放置される。イエスは「彼らをあとに残して、再び舟に乗り、対岸へ去って行かれた」。