市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第39講

39 聾唖の人を癒す  7章 31〜37節

 31 それから再び、イエスはツロの地方を去って、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた。 32 すると人々が、耳が聞こえず口がきけない人を連れてきて、その人に手を置いてくださるようにと願った。 33 そこで、イエスはこの人を群衆の中から連れ出して一人だけにし、その人の両耳に指を差しこみ、唾してその舌に触り、 34 天を仰いでうめき、「エパタ」と言われた。これは「開け」という意味である。 35 するとたちまち、耳が開き、舌の拘束が解けて、はっきりと話すようになった。 36 イエスは人々に、誰にも話さないように命じられたが、そう命じれば命じるほど、人々はますますさかんにこの事を言い広めた。 37 人々はすっかり驚いて言った、「この方のされたことは、何もかもすばらしい。聞こえない人たちを聞こえるようにし、話せない人たちを話せるようにされた」。

旅の行程の問題

 三一節に描写されているイエス一行の行程は、不可能とまでは言えないが、きわめて不自然なものである。ガリラヤ湖から北西約六十キロのティルスに出て、そこから地中海沿いに北へ約三十五キロにあるシドンを経て、ガリラヤ湖南東に広がるデカポリス地方を通り抜け、再びガリラヤ湖に戻ってきた、という行程になる。琵琶湖をガリラヤ湖になぞらえると、琵琶湖からいったん福井へ行き、福井を去って、金沢を経て、奈良県を通り抜け、再び琵琶湖に戻ってきたことになる。この後すぐ、イエスの一行はガリラヤ湖から北へ約四十キロのフィリポ・カイサリアの地方に来ている(マルコ八・二七)。そうすると、一連の北方地域の旅行の中にガリラヤ湖へ戻って来たことが不自然な形で挿入されていることになる。これはガリラヤ湖近くでの二度目の供食の出来事を入れるためにマルコが造った記事であろうか。それとも、当局の追求を逃れるためか、その他の動機でイエスの一行がわざと不自然な行程で旅をしたのであろうか。どちらかに決める決定的な根拠はない。
 なお、三一節は「それからイエスはティルス地方を出て、シドンを通り、またガリラヤ湖の近く、デカポリス地方の真中に来られた」と訳すことも可能である(シュニーヴィント、塚本訳)。そうすると、一行はここでもなお異教徒の地(デカポリス)にいることになり、この癒しの奇跡も次の四千人の供食の出来事も異邦の地で起こったことになる。旅の行程がどうであろうと、また出来事がどこで起こったものであろうと、事の本質に関わるものでないとして、ルカがしているように、五千人の供食の後ただちにペトロの告白に続けてもよいであろう(ルカでは北方地域への旅は一切触れられず、ペトロの告白や山上の変容はガリラヤであったことになっている)。

エッファタ !

 イエスがガリラヤ湖に来られた時、「耳が聞こえず口がきけない人」が連れてこられ、イエスがその人を癒されたことがここで報告されている。しかも、この種の奇跡の報告には珍しく、イエスがその人をどのようにして癒されたのか、比較的詳しく描写されている。「その人の両耳に指を差しこみ、唾してその舌に触り」というような仕草や、「天を仰いでうめき」というような態度は、イエスがこの癒しに深い思いと意味を込めておられることをうかがわせる。その時イエスが発せられた「エッファタ」という万感をこめた叫びが、それを聞いた弟子たちの耳に忘れがたい印象を刻みつけたのであろう、アラム語のまま保存され伝えられることになる。
イエスがこの癒しの行為に込められた深い思いと意味は、この記事が置かれている位置が示唆している。すなわち、ここでイエスは神の民イスラエルを代表する権力者から追われて、苦難の旅が始まっている。イスラエルはついにイエスが語りかける神の言葉を聞くことができなかったのである。神が最後に語りかける時に、その耳が聞こえなかったのである。耳が聞こえないため、その口がイエスへの信仰告白と神への賛美へと開かなかったのである。この神の民の悲劇を深く憂い、その耳が開かれることを切に願われる思いが、この呻きと叫びに込められているのであろう。
 イエスの「エッファタ(開け)」の一言で、この人の耳はたちまち開いて聞こえるようになり、それまでこの人の言語器官を縛りつけて話すことができなくしていた力が解けて、はっきりと話すことができるようになった。このような描写からすると、この人は生まれながら耳が聞こえないので言語を習得できなかった人ではなく、成人になってから何らかの病気で突然聴覚と言語器官が麻痺し、聞くことも話すこともできなくなったしまったのであろう。霊的な原因でそうなる場合もあったようで、福音書では「口を利けなくする悪霊」のことが語られ(ルカ一一・一四)、イエスも「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」を相手にしておられる(マルコ九・二五)。この人の場合も、「舌の拘束が解けて」というような表現からすると、このような悪霊の力に捕えられていたという前提で描かれていると考えられる。身体的な原因であれ、霊的な原因であれ、このような囚われの状態から人間を解放して、聞くことも話すこともできる人間の本来の状態に回復する力は、イエスの中に来ている神の霊だけである。「エッファタ」というイエスの権威ある命令は、囚われている人を解放する。この「開け」という命令は、人間を閉じこめている獄舎の門に対する神の終末的命令の響きを地上で響かせている。
 この驚くべき業を見た人々は、「この方のされたことは、何もかもすばらしい」と賛嘆し、イエスが口止めされればされるほどこのことを言い広めた、とマルコは締め括っている。先に述べたように、マルコがこの記事をここに置いたのは、イスラエルがイエスを通してなされる神の最後の語りかけを聞くことができないことに対する嘆きを伝えるためであるとするならば、この最後の人々の賛嘆は、イスラエルがイエスに対して本来取るべき態度を示そうしていると言える。イエスはイスラエルに対して本当に善いことだけをされたのである。イスラエルは本来、自分たちの救い主をこの賛美をもって受け入れるべきであった。「聞こえない人たちを聞こえるようにし、話せない人たちを話せるようにされた」イエスの業に、「そのとき、…聞こえない人の耳が開く。…口の利けなかった人が喜び歌う」という預言(イザヤ三五・五〜六)が成就していることを悟るべきであった。このように素直にイエスを賛美する人々の姿によって、イスラエルが全体としてはその耳が聞こえなくてイエスを拒み退けたことに対する嘆きが一層際立つことになる。