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33 バプテスマのヨハネの死  6章 14〜29節

14 さて、イエスの名が知れ渡るようになったので、ヘロデ王の耳にも入った。ある人々は「バプテスマのヨハネが死者の中から生き返ったのだ。それで、奇跡を行なう力が彼の内に働くのだ」と言い、 15 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「彼は預言者たちの中の一人のような預言者である」と言っていた。 16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネが生き返ったのだ」と言った。
 17 というのは、このヘロデは自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤと結婚したのであるが、このことで彼は人を遣わしてヨハネを捕らえ、獄につないでいた。 18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていないことだ」と言ったからである。 19 そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思っていたが、できないでいた。 20 それは、ヘロデがヨハネを義人であり聖者であると知って畏怖を感じ、彼を保護していたからである。ヘロデはヨハネの話を聴くと非常に悩むのであるが、それでもなお進んで彼の話を聴いていた。
 21 ところが、よい機会が訪れた。ヘロデは自分の誕生日の祝いに、重臣や将校、それにガリラヤの有力者たちを招いて宴会を催したが、 22 そこへこのヘロデヤの娘が入ってきて舞をまい、ヘロデと列座の人々を喜ばせた。そこで王は少女に「何でも欲しいものを言いなさい。おまえにあげよう」と言った。 23 さらに、「欲しければ、わたしの王国の半分でもあげよう」と誓って言った。 24 少女は座をはずして、母親に「何をお願いしましょうか」と尋ねた。すると母親は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。 25 そこですぐ、少女は急いで王のもとに入ってきて願って言った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、いただきとう願います」。 26 王は非常に悩んだが、誓ったのと列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。 27 そこで、王はただちに衛兵を遣わして、ヨハネの首を持ってくるように命じた。衛兵は出ていって、獄中でヨハネの首を切り、 28 その首を盆にのせて持ってきて少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 29 ヨハネの弟子たちはこれを聞いて、やって来て遺体を引き取り、墓に納めた。 

ヨハネの処刑

 マルコは、ヨハネが捕らえられた時をイエスのガリラヤ宣教の開始の時とした(一・一四)。今ヨハネの処刑をここに置くことによって、マルコはイエスの活動が新しい時期に入ったことを示唆していると考えられる。イエスご自身も初代の教団もヨハネをイエスの先駆者と見ていたのであるから、マルコがヨハネの逮捕とか処刑というような重大な出来事をイエスの生涯の時期を画する意義のあるものとしたことは理解できる。先駆者の処刑はイエスの時が迫っていることを示していることになる。
 ヨハネ処刑の経緯を伝える物語は、洗練されたギリシア語の文体やエステル記の影響を受けていると見られる構成やその内容から、福音的伝承ではなく、ギリシア語を話すユダヤ教徒の間で形成された伝承であろうと考えられる。マルコはそれをそのまま素材として用いているが、マタイはずっと簡単なものにし(一四・一〜一二)、ルカはいっさい省略して処刑の事実だけを伝えている(九・七〜九)。
 ヨハネ逮捕の状況については以前に触れたが(一章一四節への注解参照)、ガリラヤとペレヤの領主ヘロデが自分の兄弟の妻であるヘロディアと結婚したことを、ヨハネが律法違反(レビ一八・一六、二〇・二一参照)として非難したことが、直接のきっかけとなったとされている。権力を恐れることなく、主の名によって王を批判するヨハネの姿は、ダビデ王の前のナタン、アハブ王の前のミカヤ、アハズ王の前のイザヤなどのように、イスラエル預言者の伝統を受け継いで、まことに預言者らしい姿である。とくに、アハブ王と対決し王妃イゼベルの激しい憎悪を受けた預言者エリヤの姿が、この終りの日のエリヤとされるヨハネと重なる。
 ヨセフスの「古代史」によると、ヘロデはヨハネを死海東岸のマケルスの城塞の獄につないだとされるが、「重臣や将校、それにガリラヤの有力者たち」を宴に招いたのであるから、ガリラヤの主都テベリヤにあるヘロデの宮殿での出来事である可能性が大きい。王妃ヘロディアはヨハネを恨み、なんとかしてヨハネを殺そうとしたが、ヘロデがヨハネを神の聖者として畏怖し、保護していたので果たせなかったとされている。
 マルコは、ヨハネを獄につないでおきながら、悩みつつもなお進んで彼の言葉に耳を傾け、彼を王妃の殺意から守っているヘロデの矛盾した姿(そのようなこともありえないことではないが)を伝えているが、これはおそらくマルコの手元に届くまでの伝承の物語をそのまま用いたからであろう。マタイは物語を単純にしている。ヘロディアではなくヘロデ自身がヨハネを殺そうと思っていたのであるが、民衆がヨハネを預言者として尊敬しているので、民衆の反感を恐れて殺すことができないでいた、というのである。この物語の方が真相に近いものであろう。王妃ヘロディアがヨハネを憎み殺そうとしていたのも事実であろうが、狡猾な権力者ヘロデは、良心の悩みからヨハネを殺すことができないでいた、というよりは、彼自身もなんとかして殺したいのだが、民衆の反感を恐れて殺せなかったのである。
 これは当時のガリラヤにおけるメシア運動の熱気からしても十分推察できる。そもそもヘロデがヨハネを逮捕投獄したのは、燃え盛っている反ローマ的なメシア運動によって不穏な状況にある自分の領地ガリラヤで、民衆に対するヨハネの巨大な影響力を恐れたからであろう。ヨハネをメシアであると考える人々もかなりいたようであるから、ヨハネを処刑すれば騒乱は避けられないと心配したのは当然である。ヘロディアの娘の願いに応えてヨハネを処刑する決断をするときに悩んだのは、良心の悩みではなく、騒乱の心配からの悩みであったのであろう。
 宴会の客の前で踊ったのは、ヘロディアの連れ子サロメであった。宴席の一場の余興の褒美に、神の人の血塗られた首が提供されたのである。想像するだけでも吐き気をもよおす光景である。これは、権力の維持のためには人間の生命や尊厳を塵のように軽んじる権力者の冷酷、自分の虚栄を傷つける者に対する女の憎悪や情念、道理を焼き尽くす恋情の炎、そして何よりも自分の思いを貫くために神を憎み退ける人間の高慢、こうした人間性に巣くうあらゆる罪が凝集して現われた光景である。
 まことに、イエスがヨハネについて言われたように、「エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は彼を好きなようにあしらったのである」(マルコ九・一三)。この世は神を恐れることなく、自分の本性にしたがって、自分の思いのままに、神から遣わされた先駆者を扱ったのである。そうであれば、この世は彼の後に現われる「人の子」にも同じようにするであろう。ヨハネの処刑をイエスご自身はどのように受けとめられたのかについては、福音書は沈黙している。けれども、ヨハネをご自分の先駆者として認めておられたイエスが、彼の処刑をご自分の受けるべき杯としておられたことは、その後の言動から十分推察することができる。いずれにせよ、ヨハネの死はイエスの死を予表する出来事として、イエスの生涯の時期を画する出来事として、ここに置かれているのである。

イエスの評判

 このようにヨハネを処刑したヘロデの耳にイエスの活動についての噂が入ってきた。イエスが病人を癒し、悪霊を追い出し、様々な力ある業を行い、権威をもって「神の国」の到来を宣言しておられるのを見た人々は、イエスを「預言者」ないしは「神の人」、「神の聖者」として、すなわち、神から遣わされた人、神の霊を宿し神の霊によって語る人として受け入れ、噂するようになっていた。
 その中には、ヨハネが処刑されたことを伝え聞いて、ヨハネが舞台から退いた後にガリラヤに現われて活動されたイエスを、ヨハネが生き返って働いているのだと考える人たちもあった。すでにヨハネは広く民衆から預言者と信じられていたので、昔の預言者たちについて伝えられているような奇跡がヨハネについても起こることが信じられ期待されていたのであろう。イエスが行なっておられる驚くべき奇跡は、死者の中から生き返った預言者だからこそできることだ、とされたのである。
 ある人々はイエスをエリヤだと考えた。当時の人たちの間では、預言者マラキが「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」(三・二三)と予言したように、神の最終的な審判が行なわれる直前にイスラエルにはエリヤのような偉大な預言者が出現して、神の民をその日に備えさせると信じられていた。イエスの働きの中にエリヤの出現を見た人たちもいたのである。
 また、ある人たちはイエスを「預言者たちの中の一人のような預言者」とした。イスラエルで「預言者たち」といえば、アモス、ホセヤ、イザヤ、エレミヤなど聖書に名をとどめている一連の預言者たちを指している。だからこの表現は、イエスをこのような昔の預言者たちの系列に立つ預言者と見ていることを示している。いずれの見方にも共通していることは、終りの日を前にして、ながらく途絶えていた預言の霊が再来していることをイエスの働きの中に見ていることである。    
 ヘロデはこのようなイエスの噂を耳にした時、「わたしが首を切ったあのヨハネが生き返ったのだ」と言った。ヘロデがこう言ったのは、狡猾で冷酷な権力者にも、心の奥底には神の人を惨殺したことに対する神の報復を恐れる不安があったからであろう。イエスを生き返ったヨハネだと感じたヘロデの不安と恐怖心は、ますます増幅され、イエスをも殺さないではおれないように駆り立てたのである(ルカ一三・三一)。