市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第29講

29 レギオンを追い出す  5章 1〜20節 

 1 こうして一行は海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場から出てきて、イエスに向かって来た。 3 この人は墓場を住まいとしており、この人を繋いでおくことは、鎖をもってしても、もはや誰にもできなかった。 4 彼はたびたび足かせや鎖で繋がれたが、鎖は引きちぎり、足かせは砕くので、誰も彼を押さえつけておくことができなかったのである。 5 そして、夜昼たえまなく墓場や山の中にいて、叫びつづけ、石で自分を打ちたたいていた。
 6 ところが、この人が遠くからイエスを見て、走ってきてひざまずき、 7 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、わたしとあなたと何のかかわりがあるのですか。神かけてお願いします。わたしを苦しめないでください」。 8 それはイエスが彼に、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。 9 また、彼に「おまえの名は何というのか」と尋ねられると、彼は「わたしの名はレギオンといいます。わたしたちは大勢ですから」と答えた。 10 そして、自分たちをこの土地から追い出さないように、しきりにイエスに願った。
 11 さて、その地の山麓で豚の大きな群が放牧されていた。 12 そこで、彼らはイエスに願って言った、「わたしどもを豚の中に送り込んで、その中に入って行くことができるようにして下さい」。 13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て行って豚の中に入った。すると群は崖から海へなだれをうって駆け下り、ほぼ二千匹の豚が海の中で溺れ死んだ。 14 豚を飼う者たちが逃げだして町や村々に言い触らしたので、人々は何事が起こったのかと見に来た。 15 彼らはイエスのところまで来て、悪霊に取りつかれていた人が服を着て正気になって座っており、それがまさしくレギオンを宿していた者であるのを見て、恐ろしくなった。 16 悪霊に取りつかれていた人の身に起こったことと豚のことで起こったことすべてを見た者たちは、人々に詳しく語って聞かせた。 17 すると、人々はイエスに自分たちの土地から出て行ってくださるように頼み始めた。 18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行かせてくださるように願い出た。 19 しかしイエスはお許しにならないで、彼に言われた、「自分の家に帰り、家族の者たちのところに戻りなさい。そして、主が自分にどんな大きなことをしてくださったのか、またどんなに憐れんでくださったかを、彼らに知らせなさい」。 20 そこで彼は立ち去り、デカポリスの地方に、イエスが自分にしてくださったことをことごとく言い広め始めたので、人々はみな驚嘆した。

悪霊との戦い

 マルコはイエスの「神の国」宣教の最初の業としてカファルナウムの会堂における悪霊の追放を取り上げている(一.二一〜二八)。その後も「神の国」の宣教と悪霊の追放の業はいつも一体として扱われてきた。イエスの中に来ている神の御霊の力によって悪霊が追い出される時、サタンの支配が打ち破られ「神の支配」が到来していることが宣言されているのである。イエスはそう理解しておられたし、批判者たちもこの点を争って、イエスの業を悪霊たちの頭の力によるものとした(三・二〇〜三〇)。
 マルコはイエスの悪霊追放を戦いとして描いている。イエスの力に直面した悪霊は、まず抗議の言葉をもって対抗し、時には哀願し、イエスの神の子である実体を暴露して抵抗し、「出て行け」という命令に痙攣させたりして最後の抵抗を試み、それからやっと観念して従う。マルコはカファルナウムの会堂の場合とここのゲラサ人の場合をイエスの悪霊追放の業の典型的なケースとして、かなり詳しく具体的に描写している。両者は基本的には同じ図式を示しているが、ここのゲラサ人の場合は石や鎖や足枷や墓場というような状況で悪霊の支配がいかに強力なものであるかが強調され(三〜五節)、それだけイエスによってもたらされた「神の支配」の力強さが際だっている。マルコはこれをイエスの悪霊追放の業の中で最も重要で典型的なケースとしてここに置いているものと考えられる。
 追い出された悪霊が豚の中に入ることを求め、許されて豚の大群に入り込み、豚が海になだれ落ちて溺れ死んだという記述は、当時の民衆の奇跡伝承に見られる作意や誇張(外典福音書にはよく見られる)を極力抑えて書いている福音書では、珍しく、やや異様に感じられる記述である。アラム語に詳しいJ・エレミアスはこれを言語上の誤解から生み出された奇跡の記述の例として挙げている。彼によると、ここで悪霊の名として用いられているアラム語には、「軍団」と「兵士」という二つの意味があった。悪霊の答えは本来「私は兵士という名の者だ。私の同類は数が多いから(われわれは兵隊同志のようにお互いに似ている)」という意味であったろう(ギリシア語原文では、悪霊は「われわれの名」ではなく単数の「私の名」と言っている)。ここでこのアラム語の名が誤って「軍団」の意にとられた結果、「私の名は軍団という。われわれの数は多いから(われわれの一軍団がこの病人に取りついている)」ということになり、この病人に何千という悪霊が取りついているという表象が生まれたのである。
 また、当時のユダヤ教やヘレニズム世界で悪霊を追い出す祈祷師は、悪霊が出て行ったことを劇的に証明するために、窓を開けさせて、その窓から悪霊が逃げて行く際に窓際の花瓶を倒していくのを見せたりした、と伝えられている。このように悪霊の働きに関して具体的な観念を持っている当時の民衆の間にこの物語が伝えられれていく過程で、追い出し命令を受けた悪霊が、出て行く代償に入り込む別の身体を要求し、許しを得てたまたま近くにいた豚の大群に入り込んだというような形になっていったことは十分に推察できる。
さらに、ゲラサ人の地はデカポリス(十の町)と呼ばれる異教徒たちの土地にあった。そこではユダヤ人が不浄の動物としていみきらう豚が飼われていた。ユダヤ人からすれば、汚れた霊が汚れた動物に入って滅んだという形での物語は、彼らの信仰に合致するので、大いに歓迎されたことであろう。そして歓迎され得意げに伝えられる物語は誇張されて大げさになる傾向がある。
 このように、イエスが一人の異教徒から悪霊を追い出して救われた出来事が、言語上の誤解や民衆の悪霊観念、さらにユダヤ教の不浄観によって、伝承されていく過程でこのような形の物語になっていったものと推察される。しかし、これはあくまで推察による物語形成の説明であって、伝承の形成過程やその説明が大切なのではない。重要なことは、イエスが異教徒を、従って広く人類を支配している悪霊に対しても絶大な支配権をもっておられるという事実である。マルコはこの事実を宣言するために、一つの劇的な悪霊追放の物語をここに置いたのである。
 最後に(一四〜一七節)、この出来事に直面した土地の人々の対応が伝えられている。彼らは鎖をもってしても繋ぎ止めておくことができなかった狂暴な人が正気になっているのを見て、その人が救われたことを喜ぶのではなく、自分たちのところに未知の異常な力が来ていることに恐れをなし、その力が大切な多くの豚を滅ぼしてしまったことに不安を感じたのであろう、イエスにその土地から出て行くように求めた。普段から魂よりも物、神よりも富を愛して大切にしてきた精神が、自分たちのところに来てくださったまことの救い主を追い返す結果になった。彼らはイエスの中に来ている神の祝福を見ることも受けることもできなかったのである。
 悪霊から解放されて正気に戻った人は、イエスに従って一緒に行きたいと願ったが、イエスはこれを許されず、家に帰るように命じられた(一八〜二〇節)。今まで社会から隔離され、まったく交わりのなかったこの人が、家や村の一員として受け入れられ、社会との交わりを回復したことになる。これはたしかに神の救いの大切な結果である。しかし、このように疎外された人が社会に復帰することを、救いの業の目的と理解することは福音の質を見誤ることになる。よく伝道説教において、堕落して社会から疎外された人生を送っていた人が信仰によって更正し、社会で認められる立派な人物になったことが救いであるかのように語られるが、もしそうであれば、はじめから疎外されていない社会的に立派な人は神の救いは必要でなくなる。逆に福音を信じたために家や社会から追い出され孤立する場合もある。福音は社会に復帰させる力もあるが、社会から孤立させる結果を生む場合もある。福音が信じる者に与えようとするものは、罪の支配力から解放し、復活に至る神の生命に生きるようにすることである。このような質の生命に生きることが、社会に復帰させる力ともなり、社会から迫害される原因にもなるのである。
 この人の場合のように、わたしたちが今いる家や社会は、そこでわたしが主の憐れみと自分にしてくださったことを証するために、主から遣わされている場である。信仰の故に尊敬を受けても迫害をうけても、結果を顧慮することなく今自分が置かれている場でキリストの救いを証言することがわたしたちの使命である。
 悪霊と戦うというようなことは、科学的に無知な時代のことであると考えるのは誤りである。現代でも神に敵対する霊が人を捉え狂わせることが多い。今世紀においても、ナチスや神格化された天皇制の下の日本の歴史を見ると、民族全体が悪霊に取りつかれ狂わされていたとしか言えないような悲劇があった。このような力と戦い正気に立ち帰るにはキリストの霊の力による他はない。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、・・・・天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エペソ六・一二新共同訳)。