市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第28講

権威の章




28 突風を静める  4章 35〜42節

35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。 36 そこで弟子たちは群衆を去らせ、イエスは小舟に乗っておられるので、そのまま乗り込んでお連れした。ほかの舟も一緒に行った。 37 すると、激しい嵐が起こり、波が舟の中にうち込んで来て、舟に満ちそうになった。 38 ところが、イエス自身は船尾の方にいて、枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして言った、「先生、わたしたちが滅びるのを、何とも思われないのですか」。 39 イエスは起きあがって風を叱り、海に向かって、「静まれ、黙れ」と言われた。すると風は静まり、大なぎにになった。 40 そこでイエスは弟子たちに言われた、「何をそんなに恐れるのか。どうしてそんなに信仰がないのか」。 41 彼らは大きな恐れに陥り、互いに言った、「この方はいったい誰だろうか。風や海さえもこの方には従うのだ」。

湖畔の出来事

 ガリラヤの諸会堂で「神の国」を宣べ伝えられたイエスは、安息日に病人を癒されたことから律法学者やファリサイ派の人々から命を狙われるようになり(三・一〜六)、もはや会堂での働きは困難になり、ガリラヤ湖に退き、湖畔で活動されるようになった(三・七〜一二)。「十二人」を創設するという重要な業のために一度山に入られたが(三・一三〜一九)、「再び湖のほとりで教え始められた」(四・一 新共同訳)。こうしてマルコは四章から五章にかけて、ガリラヤ湖およびその湖岸の地域でのイエスの働きをまとめて記述する。四章と五章は「湖畔の章」と名づけてもよいであろう。
 まず、湖岸で譬を用いて「神の国」のことを教えられた言葉がまとめられ(四・一〜三四)、それに続いて湖上または湖岸の地域でなされた「力ある業」が三つの記事にまとめられている(四・三五〜五・四三)。その三つの記事とは

 一 嵐を静める(四・三五〜四一)
 二 レギオンを追い出す(五・一〜二〇)
 三 ヤイロの娘を生き返らせる(五・二一〜四三)

であるが、三つとも「向こう岸に渡る」という表現で始まっており、湖を舞台にしていることが明かである。ただ、その中で第二の「ゲラサ人の地」はガリラヤ湖から五〇キロも離れているので、湖畔の出来事とは呼びにくいし、豚が「海に落ちて溺れ死んだ」という事実と矛盾する。マタイはこの困難を解決するために、これを「ガダラ人の地」としているが、それでもガリラヤ湖からは一〇キロも離れている(マタイ八・二八)。マルコがガリラヤの地理に暗く、彼の記事には地理上の不整合がしばしば見受けられるが、ここもその一例であろう。それだけにかえって、マルコがこの記事を「向こう岸に着いた」とか「海に落ちた」と言って、湖畔の出来事とした意図が際だってくる。
 この三つの記事は、ほかの病人の癒しや悪霊を追い出す業の記事とは異なり、イエスの「力ある業」の中でも特に顕著なものとして、ある特定の意図をもって一つにまとめられていると考えられる。その意図は「イエスは誰であるか」という奥義を指し示すことであると考えられる。嵐を静めるイエスは地上の諸力を支配する権威を持つ方として、レギオンを追い出すイエスは地下の霊界を支配する権威を持つ方として、そして死んだ娘を生き返らせるイエスは死を超える天界を支配する権威を持つ方として指し示されている。こうしてイエスが世界の主であることが宣べ伝えられているのである。
 「天上、地上、地下」という世界の三区分は当時の人々の共通のものであった。現代の科学的な考えからする「自然」という観念は当時の人々にはなかったわけで、存立の根本原理の異なる「自然界と人間界」が別々に存在するのではなく、人間を含む万物が同じ原理の上に立つ一つの世界を構成し、その世界に「天上、地上、地下」の三つの場があるとされていたのである。それで「イエス・キリストは主である」という初代教団の信仰告白は、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」という形を取ることになる(フィリピ二・一〇 新共同訳)。マルコはこの信仰告白を、イエスがなされた業によって指し示そうとしているのである。もちろん、イエスが地上におられる限り、世界の主である栄光は隠されている。それを直接見ることはできない。それは「しるし」をもって指し示されるだけである。マルコはここでそれをしていると言える。

嵐に命じる方

 さて、おびただしい群衆に囲まれて、病人をいやしたり譬を用いて「神の国」のことを教えたりして、一日中働かれたイエスは、夕方になって静かな場所を求めてであろうか、「向こう岸に渡ろう」と言われた(三五節)。イエスは押し迫る群衆から離れて舟の中から教えておられたので、弟子たちはその舟に乗り込んでそのまま沖へ漕ぎ出した(三六節)。イエスは船尾の方で、おそらく舟板を枕にして眠りこんでおられた(三八節)。イエスも一日中の働きの後、すっかりお疲れになったのであろう。イエスも渇き、空腹を覚え、疲れはてて眠る方である。わたしたちと同じような人間である。このことは、この個所が世界の主であるイエスを指し示そうとする所であるだけに、イエスの二つの面の対照を深く印象づける。
 湖の半ばまで来た時、突然山から激しい突風が吹き下ろしてきた。周囲を山で囲まれたガリラヤ湖は、気象状況の変化により、不意に山から吹き下ろす突風が襲うことが稀ではなかった。この時の突風は激しいもので、波は逆巻き小舟の中にうち込み、舟に満ちてきて、舟は沈みそうになった(三七節)。ベテランの漁師である弟子たちでさえ恐怖に捉えられ、「先生、わたしたちが滅びるのを、何とも思われないのですか」と叫び出すほどであった(三八節)。
 この嵐の中で眠っておられる姿に、イエスという方の在り方がよく現われている。イエスは日常座臥すべての瞬間、父の懐の中におられるのである。だから、その身体は嵐に弄ばれて翻弄されていても、その魂は父の懐の中でいささかも動じることなく、激動する状況の中に泰然としておられる。イエスも霊の問題、とくに罪の問題に関しては、エルサレムを望み見て嘆き悲しんだり、ゲッセマネで血の汗をしたたらせるほど苦悩される。しかし外界の状況はイエスの魂を動揺させることはない。それはイエスが自分の存在を完全に父に委ねきり、その魂が完全に父と結びついて一つになっておられるからである。われわれの場合は逆である。罪のような神と関わる霊の問題について恐れたり動揺することは少なく、病気や失敗のように、外面の状況が少し不都合になると、慌てたり恐れたりする。それは神とのつながりが無いか微弱であるからである。
 イエスが波を見て恐れている弟子たちに、「何をそんなに恐れるのか。まだ信仰がないのか」と言われる時、その「信仰」とはこのような神への委ねと結びつきを指しておられるのである(四〇節)。「まだ信仰がないのか」と嘆かれるのは、弟子たちがイエスにつき従って学ぶようになってから月日が経っているのに「まだ」このような信仰がないのか、とか、イエスの一声で嵐は静まっているのに「まだ」その現実が信じられないのか、という意味よりも、イスラエルの長い歴史の中で訓練されてきたのに、神がその民に求めておられる信仰が「まだ」持てないのか、という嘆きであると考えられる。イエスだけがこの信仰を体現して成就されたが、イスラエルの民はついにこの信仰に到達することができなかった。その落差がこの嵐の状況であらわになっているのである。
 イエスが風を叱り、波に向かって「黙れ。静まれ」と命じられると、風はやみ、波はおさまって大凪になった。どうしてそのようなことがありうるのか、説明のしようがない。われわれもこの事実の前に、弟子たちと同じように「この方はいったい誰だろうか。風や海さえもこの方には従うのだ」と、驚き畏れてひれ伏すしかない。四一節の「大きな恐れに陥り」は、もはや嵐に対する恐れではない。異次元の神秘的実在に直面した人間の魂が本能的に感じる畏怖である。われわれはイエスにおいて、今まで全く知られていない神的実在に触れているのである。その驚きと畏怖から、「この方はいったい誰だろうか」という叫びが出てくる。そして、これがこの個所(四・三五〜五・四三)の隠れた主題になっているのである。