市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第26講

26 「からし種」の譬  4章 30〜32節

30 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どのような譬でこれを示そうか。 31 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、どんな種よりも小さいが、 32 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣をつくることができるほどになる」。

からし種

 パレスチナに旅行した知人から、持ち帰ったからし種を見せていただいたことがあるが、それはゴマ粒をずっと薄くしたような大きさであった。わたしたちが「ゴマ粒のように小さい」とか「ケシ粒のように小さい」と言うように、イエスの時代の人々にとっては、「からし種」は小さいものを象徴するものであったのであろう。ところが、その目にもとまらない「からし種」が成長すると二メートル半から三メートルの高さになり、木のように枝を張って、人の目を驚かせる。この譬では小さな始まりと大きな終わりとの驚くべき対比が語られている。その小さい始まりの中にすでに大きな終わりが含まれて実在しているのである。
 マタイ福音書(一三・三一〜三三)では、この「からし種」の譬は、同じような意味を持つ「パン種」の譬と組合わされて一対の譬になっている。小量のパン種は大量の粉に比べると有るか無いか分からないようなものである。ところが一晩たって朝になってみると、粉全体が発酵して膨れている。ここでも、小さい始まりの中に大きな結果がすでに含まれていることが語られている。
ところで旧約聖書では、空の鳥が巣を作るほどの枝を張った大きな木は、広い世界を覆い多くの臣下を養う大帝国を象徴する譬である(エゼキエル三一章、ダニエル四章)。また、粉全体を発酵させるパン種は、過越祭のハガダ(解釈書)によれば、悪意と邪悪の象徴であった(コリントT五・六〜八参照)。ところがイエスは大胆に、この二つの比喩を悪の力としてではなく、神の支配を語る比喩として用いておられる。イエスの譬には、たとえば借用証を書き替えさせる不正な管理人を賞めるというように、常識的な道徳や思想をひっくりかえすような意外な表現もあることを考えると、このように大木やパン種が「神の国」の比喩として用いられていることも驚くにはあたらないであろう。

神の国の顕現

 さて、マルコ福音書四章に収められている譬の中で、「種まき」、「成長する種」、「からし種」の三つの譬は、種を比喩として用いている点で共通しているだけでなく、内容も相通じるものがあり、すでにマルコ以前に一まとまりの伝承として伝えられていたと考えられる。この三つは内容上、「神の国」の比喩であるという点で共通している。ただ、「成長する種」の譬と「からし種」の譬には、明白に「神の国はこのようなものである」とか「神の国を何に比べようか」というように、それが「神の国」の比喩であることが述べられているのに対して、「種まき」の譬にはそのような明白な提示はない。これはおそらく、本来「神の国」の譬であったものが、先に見たように、福音の宣教とそれを聴く者の態度の比喩と解釈されて伝えられていく過程で、その解釈にふさわしくないので外されるようになったのではないかと推測できる。
 先に述べたように、「種まき」の譬を教団の解釈から解放してイエスの「神の国」宣教の本来の場に戻して理解すると、ここにまとめられている「神の国」の三つの譬は、一つの共通の使信を語るものであることが分かる。それぞれの譬の解釈で見てきたように、強調する側面は異なるが、この三つの譬はみな「神の国」到来について「隠されているもので顕れないものはない」という同じ原理を語っているのである。
 イエスの中にすでに「神の国」・「神の支配」が到来している。イエスが神の霊を受けて親しく父との交わりに入り、その御霊によって父の恩恵の支配を宣べ伝え、悪霊を追い出し病気を癒して、サタンの支配からの解放のしるしを現わされた時、イスラエルが長い歴史の中で終わりの日に到来すると待ち望んでいた「神の支配」が、時満ちてついに地上に来たのである。イエスの宣教と癒しの働きはこの「神の支配」到来の宣言であった。それはイエスの中に実現しており、またイエスを信じてその言葉を受け入れ、癒しなどの恵みの業に与った「貧しい者たち」の小さい群れに来ている。しかしその「神の支配」はなお隠された形で来ているのである。
 群臣を従えて王宮に座し、一国に命令している人物であれば、その支配は目の前に見ることができる。ところがイエスは漁師などの小さい弟子の群れを率いてガリラヤの町を巡回する一人の宗教教師にすぎない。しかも宗教当局から神聖な律法の違反者として追われ、ついに支配権力によって処刑される人物である。そのような人物が「神の支配はわたしの中に来ている。わたしこそその支配を体現する者である」と言っても、誰が信じることができようか。それは人の目には見えない現実である。「神の支配」はイエスの卑しい姿や弟子たちの貧しい群れの中に隠されている。しかしどのように隠されていても、それが「神の」現実である以上、必ず顕れる時が来る。
 たしかに、「神の支配」がすべての人の目の前に栄光をもって顕れる日はまだ来ていない。しかし「神の支配」の現実はすでに隠された形で来ている。そしてその目に見えないような小さい現実の中に、終わりの時に顕される大きな栄光が含まれている。「神の支配」はすでに始まっている。その中に含まれる終わりが圧倒的な力と栄光をもって顕れる時がすぐに来る。イエスはこのような終末の到来の「すでに」と「いまだ」との間の緊迫した関わりの場に生きておられるのである。 
 ここにまとめられている「神の国」の三つの譬は、「神の国」という終末的現実の「すでに」と「いまだ」の緊迫した二つの面の関係を見事に指し示している。日常土に親しみ作物を作っている聴衆たちは、これらの譬を聴いて納得したことであろう。彼らが「そのとおりだ」と納得した時、彼らはすでに「神の支配」に捉えられ、その緊迫した終末の場に立たされているのである。今わたしたちも主イエス・キリストにあってこの譬を聴く時、いま自分が置かれている終末の場がどのようなものであるかを自覚させられる。わたしたちはキリストにあって聖霊を受け、すでに「神の支配」の現実の中にいる。しかしその現実は、神に敵対する生まれながらの人間本性の中に覆い隠されたり、世界の中であまりにも微弱な勢力であって、この世の権力に圧倒されているように思われ、旅路の途中で立ちすくむような思いをする。その時、これらの譬がわたしたちを励ます。どのように小さくて覆い隠されていても、またどのように悪い地に蒔かれていても、それが神の現実である以上、その全容が栄光の中に顕れる時がかならず来る。この滅びの世界、死の存在が、栄光の天地、復活のからだに変えられる。それがいつ、どのようにしてであるかは知らない。しかしわたしたちの中にすでに始まっている現実の中にそれが含まれていることを確信し、その時を待ち望みつつ今を生きるのである。