市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第24講

24 「秤」の譬  4章 24〜25節

24 また、イエスは彼らに言われた、「聞くことに気をつけなさい。あなたがたが量るその秤で、自分にも量り与えられ、さらに増し加えられる。 25 持っている人は与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられるからである」。

聞くことに気をつけよ

 この「秤」の譬は、マタイ(七・一〜二)とルカ(六・三七〜三八)では、「人を裁くな」という教えの中で用いられている。それに対してマルコは、これを譬の章の中に置くことによって、イエスが語られる譬を理解することの重要性を示すためのものとしている。
 イエスは譬を語るたびに繰り返して「聞く耳のある者は聞きなさい」と警告しておられる。イエスの譬をただの物語りとして素通りさせてはならない。「聞くことに気をつけ」、その譬がいま自分に対して何を意味しているのか、真剣に受け止めなければならない。もしわたしたちがイエスの言葉や譬を軽視したり無視すれば、神もわたしたちを無視される。わたしたちは神から何も受けることはできないであろう。もしわたしたちがイエスの言葉や譬を真剣に受け止めるならば、神もわたしたちを真剣に扱ってくださるであろう。「自分が量る秤で量り返される」という正義の原則がこの場合も適用される。
ここで「量り与えられる」という受動態は、「神が量り与えてくださる」ということの、イエスに特徴的な表現の仕方である。イエスの言葉をどのように評価し、真剣に接するかによって、神もわたしたちを評価し扱ってくださるのである。それだけでなく、正義の原則を超えて、「さらに増し加えてくださる」のである。それは値しない者へ注がれる恩恵の扱いである。
 ここで「持っている人は与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」ということが起こる。聞く耳を持っている者、すなわち信仰をもってイエスの言葉を聴く者、さらにイエスと同じ御霊による理解力をもって聴く者は、イエスの言葉を真剣に受け入れるので、神の国の奥義をいよいよ深く示し与えられて、霊の次元でますます豊かになるが、それに対して、聴く耳を持たない者、すなわち悟りのない者は、だんだん神から遠ざかり、本来与えられている神への感受性をも失い、霊の生命の枯渇に至る。
 マルコが、本来はイエスご自身のことを言われた「あかり」の譬を、この「秤」の譬と組合せてここに置いたのは、「種まき」の譬を御言葉を聴く態度の大切さを説く譬と解釈した結果、その主題をさらに拡大強調するために、「あかり」の譬も弟子たちが受けた御言葉の光を輝かすことの大切さを説く譬として、御言を真剣に聴くことの大切さを訴える「秤」の譬と一組にしたのであろうと考えられる。