市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第23講

23 「あかり」の譬  4章 21〜23節

21 また、イエスは彼らに言われた、「あかりが来る時、ますの下や寝台の下に置かれることがあろうか。燭台の上に置かれるではないか。 22 隠されているもので現われないものはなく、秘密にされているもので明るみに出ないものはないからである。 23 聞く耳のある者は聞きなさい」。

ひかりの到来

 「ます」というのは本来穀物を量る器であるが、窓や煙突のない小さな一部屋の農家では、ランプを吹き消すといやな煙や匂いがたちこめるので、「ます」をかぶせて消したといわれている。そうするとこの譬は、「夜になって部屋の中にランプが持ってこられた時、すぐにますをかぶせて消してしまったり、寝台の下に置いてあかりを隠すようなことをするであろうか。それは燭台の上に置かれて、夜のあいだ家の中のすべての者をあかるく照らすではないか」という意味になる。
 ではこの譬でイエスは何を語ろうとされたのか。この譬がどういう状況で誰に対して語られたのかが分からないので、いろいろな理解が可能であり、その意味を決定することは困難である。マタイはこれを弟子たちに対して語られたものとして、弟子たちが立派な行いによって自分の光を人々の前に輝かすように求める譬として、「山上の説教」の中に置いている(五・一四〜一六)。ルカもこの譬を、弟子たちが内面の光を消さないように警告する譬と理解している(一一・三三〜三六)。けれどもマルコでは、ただ「隠されているもので現われないものはなく、秘密にされているもので明るみに出ないものはない」という原理を語るための譬として用いられている。ところでこの原理は、福音書の中で様々の異なった文脈で用いられているが、先の「種まき」の譬で見たように、イエスにおいては本来「神の国」到来の原理を語るものである。そうすると、この譬も本来は弟子の心構えを諭すためのものではなく、イエス御自身の中に到来している「神の国」を語るための比喩であったのではないかと考えられる。
 このことは、「人があかりを持ってくる」のではなく、「あかりが来る」というやや不自然な表現が使われていることにも暗示されている。イエスはしばしば「わたしが来たのは」とか「人の子が来たのは」という表現を用いておられるが、ここでも御自身が光として世に来たことを語っておられるのではないかと考えられる。光がすでに到来して輝いている。どうしてすぐにますをかぶせて消してしまうことができようか。どうして寝台の下に置いてその光を隠すことができようか。誰かが力ずくで消そうとしたり隠そうとしても、ひとたび到来したこの光は必ず現われ、明らかになってくるのである。イエスは御自身の中に到来している神の国の現実を「あかり」にたとえて、このように言っておられるのではなかろうか。
 そうだとすると、この譬が語られた状況としては、弟子や周囲の人々から危険を警告され身を隠すように忠告されたような時が、ふさわしい状況として考えられる(ルカ一三・三一参照)。そのような警告や忠告にもかかわらず、イエスは内に到来している光を消したり隠したりすることなく、身を挺してその光を輝かし世を照らされるのである。このように、共観福音書では譬で指し示されている光の到来が、ヨハネ福音書では明白な言葉で宣言されるに至るのである。「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」(一・九)。「わたしは光としてこの世にきた」(一二・四六)。
 イエスがあかりを隠すことなく身を挺してそれを世に輝かせたのであれば、イエスに従う弟子も同じように、上から賜る内なる光を消すことなく(ルカ一一・三三〜三六)、迫害にひるむことなく、自分の光を世に輝かしていかなければならない(マタイ五・一四〜一六)。マタイとルカは、「聴く耳がある」弟子の立場でこの譬を聴いた時の理解を述べていると言えるであろう。