市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第22講

22 「種まきの譬」の説明  4章 13〜20節

13 また、イエスは彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬が理解できようか。 14 種まく人は御言葉をまくのである。 15 道端にまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、彼らは御言葉を聞くが、すぐにサタンが来て、その人たちにまかれた御言葉を取り去っていくのである。 16 石地にまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、彼らは御言葉を聞くと、すぐ喜んで受け入れるが、 17 自分の中に根がないので、しばらく続くだけで、あとで御言葉のために患難や迫害が来ると、すぐつまずいてしまう。 18 茨の中にまかれたとは、また別の人たちのことである。彼らは御言葉を聞くが、 19 世の思い煩いや富の惑わし、それにさまざまなことについての欲望が入ってきて、御言葉をふさぐので、実を結ばなくなる。 20 そして、良い地にまかれたとは、御言葉を聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことである」。

比喩の寓喩(ぐうゆ)化

また、イエスは彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬が理解できようか」。

 弟子たちも聖霊を受けるまでは、イエスの譬を理解することができなかった。それで、イエスの譬は弟子たちの解釈を入れることなく、イエスが語られた譬の本体だけが語り伝えられて、聞く者の状況に応じて自由で豊かなイメージを与えることになったのは、却って幸いであった。ところで、譬や比喩は抽象的な叙述よりも記憶に強く印象づけられるので、比較的よく原型が保たれるものであるが、それでもイエスの譬が初代のヘレニズム世界の教団の中で語り伝えられ、ついに福音書という形にまとめられていく過程で、多少の変容は避けることができなかった。そもそも、イエスはアラム語で語られたのであるが、それがギリシア語に翻訳されて伝えられたのであるから、異なる言語から生じるイメージが違ってくるのは避けられない。さらに、イエスの「神の国」宣教と初代教団の福音宣教の状況を比べると、聴衆の生活や文化的背景が決定的に異なっており、それに応じて譬の語り方にも微妙な変更が加えられてくる。何よりも、教団や福音書記者が置かれている状況が譬の語り方に強い影響を及ぼしている。
 このような変化の中で最も目立つのは、イエスの単純な比喩が寓喩として解釈されて伝えられていることである。寓喩(アレゴリー)というのは、細部の一つ一つに意味を持たせて構成された象徴的な(そして普通は教訓的な)物語である。福音書には寓喩として解釈されて伝えられている譬が多いが、以下の「種まきの譬」の説明もそのような寓喩的解釈の典型であるので、これを用いて寓喩的解釈とはどのようなものかを見よう。
「種まく人は御言葉をまくのである」。まず、イエスが語られた「種まきの譬」で、種とは神の言葉を指すと解釈される。そして種が落ちた道端、石地、茨の中、良い土地という四種類の土地は、御言葉を聞く人間の心または態度であると解釈され、この「種まきの譬」は御言葉の宣教に接した者に、正しい態度で御言葉をうけいれるようにという勧告的な説教になっている。
 その際、譬の一つ一つの細部がそれぞれ意味を持たせられている。道端は踏み固められた頑なな心、鳥はサタン、石は患難や迫害、根がないのは熟慮のない浅薄な心、茨はこの世の思い煩いや富の誘惑やさまざまな欲望である。最後の良い土地と豊かな実については自明のこととして解説はついていないが、正しい信仰心とそれによって生じる信仰生活が意味されているのは明らかであろう。このように解釈された譬は、御言葉を聴く者の態度に関するまことに分かりやすい勧告になっているので、これ以上の説明はもはや必要ではないであろう(このような解釈の仕方がイエスの言われた「神の国の奥義」であるとは考えられない)。
 このような寓喩的解釈がイエス御自身から出たものではなく、初代の教団から出たものであることは、ここに用いられている用語からも明らかになる。まず、「御言葉」(ホ・ロゴス)という用語は福音を意味する術語で、初代教団によって造られ、広く用いられていたものであった。ところが、イエスが語られたとされる言葉の中では、この「種まきの譬」の説明の箇所以外には、どこにも使われていない。また、「御言葉を受け入れる」、「御言葉につまずく」、「御言葉のために迫害が起こる」、「御言葉が実を結ぶ」などは、福音の宣教に関する使徒時代の典型的な表現であって、それがこのように短い段落に集中的に用いられていることは顕著な事実である。さらにこの他にも、この段落には使徒時代特有の用語や比喩の用い方が多く見られる。このような用語の観察からすると、この解釈は初代の教団から出たものであるという結論は避けることができない。
 初代の教団は、福音を宣べ伝えることを使命とする状況の中で「種まきの譬」を聴き、その譬の中に福音を聴いた者たちの対応の仕方の違いが見事に象徴的に描かれているのを見出したのであった。教団はその理解を主イエスから賜ったものとし、それをイエスの言葉として、福音を聴く者への信仰の勧めの説教としたのであった。
 このように、この解釈を教団から出たものとすることは、この解釈の価値を低くするものではない。福音を宣べ伝え、御言葉を聴くという状況では、この解釈は真理であって、主が語っておられることとして受け取るべきものである。この解釈が教団から出たものであることを明らかにしたのは、イエスの譬を一つの状況での解釈に閉じ込めてしまわないためである。イエスは譬だけを語って、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言って、その理解は聞く者一人一人に委ねられた。聞く者の状況が違えば、譬が生み出すイメージも違ったものになるであろう。何よりも聞く者の霊の状況によって、譬が語りかける内容も浅深の度が違ってくるであろう。同じ人であっても、同じ譬を聞く度に、その時の信仰の状況によって違った霊感を受けることは、よく体験することである。譬の理解には特に聖霊の照明を祈り求めなければならないわけである。
 先の「種まきの譬」そのものの講解において、この段落の寓喩的解釈を度外視したが、それはこの譬の理解を福音の宣教と聴く者の態度という特定の状況からする解釈に閉じ込めないで、できるだけイエスの「神の国」宣教という本来の場に自分を置いて理解するためであった。その講解で明らかにしたように、「種まきの譬」は本来、イエスの宣教の働きの中に「神の国」が隠された形ですでに到来しているという、きわめて終末的な使信を語るものであった。それは聞く人間の心や態度を超えて、時が満ちて神の支配が圧倒的な力をもって到来している現実を描くものであった。ところが、教団による解釈はこの譬を福音の言葉を聴く人間の心構えや態度の問題にしている。それも真理である。けれども、もしこの解釈だけに限定してしまって、譬本来の終末的な迫力を見失うならば、イエスの譬を正しく理解したことにはならないであろう。

福音書理解の原理

 今回この「種まきの譬」の説明(四・一三〜二〇)を初代教団による解釈として、それを度外視してイエスの譬の本来の使信を追求したが、このような方法は現在の福音書理解の問題点を典型的に示しているので、ここで改めて、われわれの福音書理解の原理について簡単に触れておくことにする。
 イエスは何ひとつ書いたものを残されなかった。それでイエスの教えの言葉や為された業はすべて、直接教えを聞き、業を見た弟子たちの口を通して信徒たちに伝えられ、それが信徒たちの群れ(教団)の中で大切に保存され、口から口へと伝えられていった。こうして弟子たちから伝えられた内容は《パラドシス》(言い伝え・伝承)と呼ばれ、主イエスの教えとイエスの中に為された神の業を語るものとして、深い畏敬と最大限の忠実さとをもって伝えられ、保存されたのであった。そのような多くの「伝承」が主題ごとに結集されてまとまりのある大きな伝承グループとなり、さらにそれらの伝承ないし伝承グループが結集・編集されて文書として書き記されるに至る。それが「福音書」である。この福音書の成立過程に関する研究は、現代の聖書学の最大の関心事のひとつであり、その研究は詳細を極め、大きな成果を収めてきた。
 福音書の成立過程についての学問的研究の成果のひとつは、伝承が伝えられていく過程でどのような変化を受けたかを(ある程度)解明したことである。まず、伝承の担い手(教団)の状況を解明することによって伝承が受けた影響を明らかにし(様式史的研究)、さらに、それぞれの福音書記者が伝承を編集して福音書を文書として書き記した際に、その著者の神学的傾向によって受けた影響を明らかにした(編集史的研究)。伝承が受けた変化の個々の内容については、なお議論の余地があり、決定的になっていないものが多い。けれども、現代において福音書の理解を志す者は、福音書の文面の背後にこのような複雑な伝承の歴史があることを無視することはできないであろう。
 ところで、このような学問的研究は両刃の剣である。一方では、それは聖書の文言の機械的・教条主義的な拘束から信仰者を解放し、歴史的な制約を切り開いて聖書の使信の本質に迫るために必要な鋭利なメスとなる。わたしも自分の聖書理解と信仰の形成にこのような学問的研究から実に多くのものを受けている。他方、学問的研究は聖書の人間的・歴史的側面を明らかにすることによって、聖書を神の言葉と信じてきた人々の信仰を揺るがせ、時には破壊的な影響を及ぼしてきた。また、このような学問的な成果に目を奪われ、その成果を受け入れることが信仰であると錯覚している人々(神学者に多い)は、時とともに変転する学説の信奉者にすぎず、仮説の上に信仰を置く者であって、信仰の本質を見失っているのである。
 では、われわれの信仰の根拠はどこにあるのか。一言で言えば、それは聖霊によって主イエス・キリストとの交わりに生きているという事実である。イエスは復活して主キリストとして立てられ、今も生きておられる方である。福音が宣べ伝える主イエス・キリストを信じ、このイエス・キリストに自己の全存在をかけて従う者に神が与えてくださる聖霊によって、このキリストとの交わりに生きているという事実こそが、われわれの信仰の根拠であり、実質である。この事実が内にある時、聖書は、ある特定の歴史的状況の中で人間の手で書かれた文書であるという限界の下にありながら、キリストについて証しをすることによって、内にある霊の現実に光を与える神からの啓示となる。この時、聖書の学問的研究がどのような説を提出しても、信仰は全然別の根拠に立っているのだから揺(ゆ)るぐことなく、却って学問的研究の成果は霊的信仰の中に消化され、聖書成立の際の人間的な要素を突き抜けて、福音の本質に迫るために用いられるようになるのである。
 イエスの中に働いて「神の国」を宣べ伝えさせた聖霊と、使徒や初代の信徒たちの中に宿ってキリストの福音を宣べ伝える力となり、聖なる伝承を保持して福音書を生み出させた聖霊と、いま信じる者に与えられる聖霊は同じ霊である。ここに福音書理解の根本原理がある。それぞれ時代は違い、状況は異なる。またそれぞれに課せられた使命も異なる。学問的研究はそれぞれの歴史的状況の相違を解明してくれる。しかし同じ御霊が一貫している限り、それは信仰を揺るがすものではなく、歴史的相違を超えて神の啓示の本質に迫る助けとなる。この福音書講解もそのような願いと祈りをもって進められている。