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21 神の国の奥義と譬  4章 10〜12節

10 イエスがひとりでおられた時、内輪の者たちが十二人と一緒に、譬のことをお尋ねした。 11 その時イエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、外のあの人々にはすべてのことが譬の形、すなわち謎になるのだ。 12 それで、『彼らは見るに見るが、認めず、聞くに聞くが、悟らず、立ち帰って赦されることがない』ようになるのである」。

奥義と謎

 一〇節の「譬のことをお尋ねした」の譬は複数形であるので、先行する「種まきの譬」のことを尋ねている(ルカ八・九はそう理解しているが)のではなく、譬で語られる理由をお尋ねしたと理解すべきであろう(マタイ一三・一〇はそう理解している)。
 もともと一一〜一二節のイエスの言葉は独立の伝承であって、イエスの「神の国」宣教の全体について語られたものであった。ところが、そこで用いられている「譬」《パラボレー》という用語に引きづられて、譬の章に入ってきたと考えられる。たしかにギリシア語では《パラボレー》(譬、比喩)という用語が用いられているが、アラム語にまで遡って考察すると、イエスが用いられたアラム語は《マトラー》であると推定できる。この《マトラー》というアラム語(ヘブル語では《マーシャール》)は、譬とか比喩だけでなく、寓喩、寓話、諺、格言、象徴、謎も含むあらゆる種類の比喩的表現を意味している。ここでは、「奥義が授けられる」とか「秘密が打ち明けられる」(新共同訳)との対比で用いられていることからして、「謎になる」、「謎のままに残る」という意味に理解しなければならない。私訳では「譬の形、すなわち謎になる」と説明的に訳してある。
 ここではイエスに従う内輪の弟子たちと外の人々が対比されている。弟子たちには神の国の奥義が授けられているが、外の人々には授けられていないので、イエスが語られる言葉はすべて謎として残ることになる、というのである。マルコは、本来独立して伝承されていたこのイエスの御言(みことば)葉(一一〜一二節)を譬に関するものとして用いて、イエスが弟子たちだけに「種まきの譬」を説明されたことの前置きとし、さらに自分の言葉で「人々には譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてを解き明かされた」(四・三四)と説明している。しかし、イエスのこの言葉はもっと視野が広く、もっと底が深いと思われる。
 「視野が広い」というのは、これは譬に関するだけでなく、イエスの「神の国」宣教の全体に関する言葉である、ということである。イエスはガリラヤでの宣教において「神の国」のことを民衆に明白な言葉で語られたが、その核心的な部分についてまだ隠されていることがあった。それは特に「イエスは誰であるか」という問題、イエスの人格の秘密である。このことはペトロが「あなたこそメシアです」と告白した時から教え始め(八・三一)、受難の地エルサレムに向かう旅の途上で弟子たちだけにひそかに打ち明けられた秘密である。この秘密についてのイエスの教えは、山上でイエスの姿が変わった時に天からの声でも保証された。このイエスが「多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する人の子」であるという秘密こそ、「神の国の奥義」である。これを認め、理解することなしには、イエスが語られる「神の国」の言葉は謎のままに残るであろう。
 「底が深い」というのは、「奥義が授けられる」ということが、たんに譬の意味やイエスの人格の秘密が打ち明けられるということだけでなく、「イエスに従う者に賜る聖霊」によって「神の国」の現実が体験されることまで含んでいる、ということである。弟子たちは復活後の主から聖霊を受けるまでは、苦しみを受ける人の子の奥義を理解することができず、譬の意味を自分で悟ることもできなかったのである。たとえからし種のように僅かなものであっても、聖霊によってイエスが生きておられた世界と同じ世界に生きる現実がなければ、イエスが語られた言葉は、譬だけでなく明白な教えの言葉も含めて、すべてが謎になってしまう。「外の人々」として止まり、イエスに従う者に与えられる聖霊によって無条件の神の恩恵を味わうことがなければ、「貧しい者は幸いである」とか「悲しんでいる者は幸いである」というような言葉は謎である。「敵を愛せよ」という言葉ですら、理解しがたい謎になる。さらに力ある業(奇跡)や十字架の死まで、イエスのすべてが謎になる。
 さらにこの「外の人々にはすべてが謎になる」ことがどのような結果に至るのかが、イザヤの預言(六・九〜一〇)の引用によって語られる。ここに引用されているイザヤの預言は、イザヤが預言者として召された時、イスラエルの民が結局彼の預言を受け入れないで、「悔い改めていやされることがない」ようになるという結果を予言するものであった。いまイエスの宣教にも同じことが起こっている。イスラエルの民はイエスの力ある業を繰り返し見ていながら、そこに神の力と恵みの働きを認めず、また、イエスの権威ある言葉を何回も聞きながら、そこに神の呼び掛けの声を聞いて悟ることがなく、この最後の機会に自分たちの主に立ち帰ることがないのである。それは彼らがイエスを信じて従うことがなく、いつまでも「外の人々」として止まっているので、イエスがされる業も、イエスが語られる言葉も、すべてが謎のままに残るからである。イスラエルの中でイエスに従ったごく一部の「残りの者」だけが、神の国の奥義を授けられ、世界に対する神の恵みの業の担い手になるのである。
 なお、このイザヤの預言は普通、「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず」と訳されることが多いが、これでは「一応見ているようであるが、実際は認めず、一応聞いているようであるが、実際は聞いて悟ってはいない」という意味になる。けれども、ギリシア語の引用文は「見るに見るが、認めず、聞くに聞くが、悟らず」という文章であり、「繰り返して見るが、認めず、繰り返し聞くが、悟らず」の意味である。