市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第20講

譬(たとえ)の章




20 「種まき」の譬(たとえ) 4章1〜9節

1 それからまた、イエスは海辺で教え始められた。すると、おびただしい群衆がみもとに集まってきたので、イエスは小舟に乗り込み、それに座って水上に出られた。群衆はみな陸地にいて水際まで迫っていた。 2 イエスは人々に譬で多くのことを教えられ、その教えの中でこう言われた、 3 「聞きなさい。種をまく人が種まきに出ていった。 4 まいていると、ある種は道端に落ちた。すると鳥が来て、その種を食べつくした。 5 ほかの種は土が多くない石地に落ちた。すると、土が深くないのですぐ芽を出したが、 6 日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びて作物をふさいでしまったので、実を結ばなかった。 8 また、ほかの種は良い地に落ちた。そして芽を出し、成長して実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。 9 そして言われた、「聞く耳のある者は聞きなさい」。

イエスと譬(たとえ)

それからまた、イエスは海辺で教え始められた。すると、おびただしい群衆がみもとに集まってきたので、イエスは小舟に乗り込み、それに座って水上に出られた。群衆はみな陸地にいて水際まで迫っていた。

 しばらく山や家の中の光景が続いたが、舞台は再びガリラヤ湖の湖畔に戻る。イエスが外で教えておられることが知れると、おびただしい群衆が集まってきて、イエスは群衆に押しつぶされそうになるという光景(三・七〜一二)が再現する。その時、小舟を用意するように言っておられたことが、ここで現実に役立つ。イエスは用意されていた小舟に乗り込み、岸を離れ水上に出られる。群衆はそれでもイエスに少しでも近づこうとして水際にまで迫る。
 群衆がイエスに近づこうとするのは、イエスの体に触ることによって病気をいやしていただくためであった(三・一〇)。今イエスは水上におられて触ることはできない。今イエスと群衆をつなぐものは聞こえてくるイエスの言葉だけである。人々はイエスに直接触れて力を受けたいという熱意を、イエスの言葉をきくことに向けなければならない。イエスに触って力を受けるのは一瞬のつながりである。それに対してイエスの言葉を聴いて従うことは永続的な真実の人格的なつながりである。イエスは人々にこのようなつながりを求めて、直接触れることができない所に身を置いて、「聞きなさい。聞く耳のある者は聞きなさい」と呼びかけられる。

イエスは人々に譬で多くのことを教えられ、その教えの中でこう言われた。

 ここからイエスの譬による教えが始まるのではない。イエスが神の国のことを語られる時、その言葉はほとんどが譬である。すでにマルコ福音書のこれまでに見てきたところだけでも、人間をとる漁師、医者を必要とする病人、花婿と一緒にいる婚礼の客、古い服と新しいつぎ布、葡萄酒と革袋、内輪で争う国や家、略奪者の譬など多くの譬が用いられている。「神の国」という霊の次元の現実を語るには、どうしても目に見える地上の事実を比喩として用いて語らざるをえないからである。
 当時のユダヤ教という背景から見る時、イエスの譬は全く新しいものである。イエス以前の時代のユダヤ教においては、ラビたちが譬を用いて教えたことはユダヤ教文献にはほとんど何一つ伝承されていない。律法学者たちは律法の多くの規定の解釈や適用の仕方を事細かに研究することに明け暮れており、それを民衆に教えて順守を求めるだけであった。イエスは「律法学者のようにではなく、権威ある者として」、ご自分の中に聖霊によって到来している「神の国」の現実を端的に語り出された。その際、その内容を民衆に呈示する器として、また批判者に対する反論の武器として、生活者であれば誰でも理解できる用語である譬を用いられたのである。
 マルコはイエスが語られた多くの譬の中から典型的なものを選んでここ(四・一〜三四)にまとめて置き、それにイエスが譬を用いて語られる意義についても付け加えて、イエスの「神の国」宣教の特質を伝えている。象徴とか比喩は抽象的叙述よりも強い印象を記憶に刻みこむことは一般に承認されている。それで「わたしたちがイエスの譬を読む場合、特に忠実な伝承と関わっており、イエスの側近くにいるのである」、「イエスの譬は伝承の原始岩の一断片である」(J・エレミアス)。今その譬の一つを聴こう。

種まく人の譬

 「聞きなさい。種をまく人が種まきに出ていった。まいていると、ある種は道端に落ちた。すると鳥が来て、その種を食べつくした。ほかの種は土が多くない石地に落ちた。すると、土が深くないのですぐ芽を出したが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びて作物をふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い地に落ちた。そして芽を出し、成長して実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。

 この譬をもってイエスは何を言おうとしておられるのであろうか。この種をまく農夫の体験はどのような意味で「神の国」の現実と対応しているのであろうか。この譬についてはその解釈がすぐに与えられている(四・一三〜二〇)が、今はその解釈を度外視して(そうする理由は後で触れることになる)、イエスの神の国の宣教の場に居合わせた者として、この譬を一つの全体として素直に聴いてみよう。
 一つの全体として聴くというのは、たとえば種とは何を指すのか、道端、鳥、石地、茨とは何を意味するのか、というような細部に捉われないで、この農夫の体験を語る譬が全体として訴えようしているただ一つの点に焦点を合わせて聴くということである。イエスが神の国のことを語られる時、一つ一つの細部に意味を持たせた物語である「寓話」《アレゴリー》を語られることはまずない。イエスは「比喩」《パラボレー》を用いられる。すなわち、神の国の一つの側面に焦点を当てて、その内容に対応する日常生活の経験を横に置いて(《パラボレー》とは「並べて置く」という意味の語から来ている)、それによって見えない神の国の現実を指し示される。この譬でも、農夫の体験が神の国のどのような内容と対応しているのかを聴くようにしよう。
 この譬で語られている種蒔きの仕方は、われわれが親しんでいる農法から見るとずいぶん非常識な仕方のように見える。われわれが知っている種蒔きは、前もってよく耕された畑に丁寧に種を蒔いていく。けれどもイエスの時代のパレスチナでは、刈った後まだ耕されていない土地に種を散布するように蒔き、その後全体を耕したのである。悪い場所に落ちて失われる種も多いが、収穫の時が来ると、その畑全体が豊かな実を実らせる。このような農法をしている人たちがこの譬を聞いた時、種が落ちた土地の種類によって収穫が違ってくるというような理解はしなかったであろう。種蒔きの時には失われるものが多いが、畑は全体としては時が来れば必ず豊かな収穫をもたらすものだという語りかけを聴いたであろう。この譬の主人公は畑ではなく農夫である。本来この譬にふさわしい呼びかたは、「四種類の畑」の譬ではなく、「種を蒔く人」の譬である。あるいはもっと内容を伝えるには「ひるまぬ農夫」の譬と呼んだほうが適切かもしれない。
 これは「対照の譬」の一つである。一方では種蒔きの時に無駄に失われてしまう種が多くて、農夫の働きが徒労に終わるように見えることが、道端、石地、茨の中と具体的な描写を三つ重ねることで強調される(四〜七節)。他方それとの対照で、ある種はよい土地に落ちて、農夫に豊かな収穫をもたらす。この収穫は畑全体としての収穫であって、その豊かさが三十倍、六十倍、百倍とますます大きくなる数字を三回繰り返すことによって強調される(八節)。ここでの対照は無益徒労に見える種蒔きの状況と豊かな収穫の対照である。農夫は豊かな収穫を望み信じて種をまく。それがどのように無駄になるように見えても、ひるむことなく種をまく。その信頼は時が来れば必ず豊かな収穫で報いられることを彼は知っているからである。

 そして言われた、「聞く耳のある者は聞きなさい」。

 このように「種まきの譬」が本来種まきの時の状況と収穫の時を対照する譬であるならば、わたしたちはこの譬から「神の国」のどのような内容を聞き取ることができるのであろうか。イエスは譬だけを語って、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言ってその理解を聞く者一人一人に委ねられる。「聞く耳」のある者は、自分にも身近なこの種まきの苦労と収穫の喜びの体験の中に「神の国」の奥義を見て歓喜するであろう。しかし「聞く耳」のない者には、この譬は「神の国」と何の関わりもない謎のまま残る。
 では「聞く耳」とは何であろうか。それはイエスを信じてイエスと結ばれ、イエスが生きておられたのと同じ霊をもって生きるという人間の在り方である。イエスは神からの霊を受け、その霊によって父との一体の交わりの中に生きられた。そしてこの御霊の事態を「神の支配」・「神の国」と呼んでおられるのである。従って、イエスが語られる「神の国」の譬を理解するには、イエスと同じ御霊に導かれていることが必要である。その霊によって初めて、イエスの譬の背後にある霊の事態を直感理解することができる。それがなければ、学問的な分析研究だけでは譬を理解することはできないであろう。
 この譬を理解するうえでもう一つ大切な前提は、聖書では「刈り入れ」とか「収穫」はいつも終末的な救いの時を指し示す比喩であるという事実である。それは厳しい審判と選別の時でもあるが、同時に喜びに満ちた栄光の顕現の時である(イザヤ九・三、ヨエル四・一三、マタイ三・一二、黙示録一四・一五など)。イエスもその譬の中でしばしば「刈り入れ」とか「収穫」の光景を「神の国」の終末的な出現の比喩として用いておられる(マルコ四・二九、マタイ一三・三〇、ヨハネ四・三五など)。この「種まきの譬」には「刈り入れ」とか「収穫」という用語は出てこないが、種まきの状況との対照で収穫が主題になっていることは明らかである。つまりここでも、イエスの宣教の基本的な内容と一致して、終末的な事態である「神の国」到来の使信が響きわたっているのである。
 イエスはこの譬で「神の国」到来の原理だけを語っておられる。すなわち、神はこの地上に栄光の種子をまかれた。その種は人間の不信や頑なさの中で失われてしまったように見えるが、それが神の種子である以上、その栄光は時が来れば必ず豊かに現れるのである。イエスはこの原理だけを語って、その具体的な内容については、聞く者の状況に応じて聞き取るように、聞く者一人一人に委ねておられる。では、いま福音を信じキリストにあって生きる者は、この譬にどのような内容を聞き取るのであろうか。

三重の内容

 わたしはこの譬に三重の内容を聴く。第一は、イエスの出現によってイスラエルの歴史が成就し、今「神の国」が到来している、救いの時が臨んでいるという喜びの告知である。「時は満ちた」という告知を譬の形で提示したものである。神は世界に「神の国」という収穫をもたらすために、まずイスラエルの民を選び、その中に種をまかれた。すなわち、将来「神の国」として出現するはずの神の業を、あらかじめイスラエルの歴史の中で行ない(たとえば出エジプト)、またその土台となる契約の言葉を与えられた。ところがイスラエルの民は心かたくなで、不信や傲慢の中に神の業と言葉を閉じこめてしまったのである。イスラエルの中に蒔かれた多くの種は悪い土地に落ちて失われてしまったように見える。しかしその中にも神は預言者を起こして、彼らの中にそのみ業とみ言葉を保存し、来るべき時に備えられた。よい土地に落ちた種もあったのである。いまや時は満ち、よい土地に落ちた種が豊かな実を結ぶ時が来た。今イエスの働きの中にイスラエルの中に与えられていたすべての約束は成就し、「神の国」は到来している。この成就の喜びが「種まきの譬」の中に響きわたっている。
 第二に、この譬は現在のイエスの「神の国」宣教の働きとやがて現れようとしている栄光との対照を語る譬として理解することができる。イエスは聖霊によってすでに「神の国」の現実を身に宿して宣べ伝えておられる。しかしその宣教は不信と敵意に囲まれて、世界に「神の国」が現れる気配はない。イエスの回りには漁師などの僅かの弟子たちと「貧しい者たち」の一群がいるだけである。イエスはご自分の宣教がイスラエルに歓呼して迎えられることはなく、かえって敵対され迫害され死にいたることを知っておられる。イエスが蒔かれる種は多くは悪い土地に落ちて失われるのである。けれどもそれは神の種であるから、それが落ちたよい土地、すなわち信じる者たちがいかに少なくても、時が来れば必ず神の支配の栄光を溢れるように豊かにこの世界にもたらすことを確信しておられる。イエスはこの譬の農夫のように、将来の豊かな収穫を確信して、敵意にひるむことなく種を蒔かれる。いまイエスが蒔いておられる種、すなわちイエスの業と言葉とは、今は敵意の中に埋もれ隠されているが、すぐに豊かな神の栄光となって輝き出ることになる。
 この第一の理解と第二の理解は、イエスの「神の国」宣教の二重性に対応している。すでに見たように、イエスの宣教には「神の国」がすでに到来しているという面と、将来すぐに顕れようとしているという面とがある。この両面の緊張に満ちた関わりかたにイエスの「神の国」宣教の特色がある。この譬はこの両面のどちらにも理解できる形で、「神の国」の到来の仕方あるいは原理ともいうべきものを見事に指し示していることになる。神が蒔かれた種は、いかに人間の不信や敵意の中に失われたように見えても、かならず豊かな実を結び、輝かしい「神の国」が顕れるのである。
 第三に、この譬は人間の死に定められている現状と神が与えてくださる復活との対照を指し示す譬として理解することができる。今福音を信じて復活者キリストに結ばれて生きる者は、聖霊によって神からの新しい生命を受けている。ところがこの神の生命はそれにふさわしくない体の中に宿っている。生まれながらの人間本性の中に巣くう罪のためにこの体は死に定められたものになっているからである。神の種は悪い土地に落ちている。神からの新しい生命は本性的に神に反抗する古い人間性の中に閉じこめられ、覆い隠されている。しかしそれが神からの生命である以上、あの畑に豊かな収穫が来るように、必ず豊かな栄光の中に顕れる時が来る。それが復活である。神は御自身に属する者たちに、神からの新しい生命にふさわしい別の体を与えようとしておられる。キリストに属する者は、イエスが復活されたように、「霊の体」を与えられて死人の中から復活する。それは今キリストにあって神の中に隠されている生命が顕現する時である(コロサイ三・三〜四)。
 イエスは「神の国」を語るのによく種の比喩を用いられたが、すでに復活されたキリストに結ばれて生きる者が、その種の比喩を復活の比喩として理解したのは自然なことである。使徒パウロは「どんな体で復活するのか」という批判に対して種の比喩をもって答えている。

 「愚かな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる」。(コリントT一五・三六〜三八)

 また、新約正典の後期のものより古いとされる「クレメンスの第一の手紙」においても、「種まきの譬」が復活の比喩として理解されていることをうかがわせる文がある。
 「実りに注目しようではないか。どのようにして種蒔きは行なわれるか。種まく人が出ていって、すべての種を地にまいた。それは畑に落ちて、乾き、露出し、腐った。それから主人のすぐれた配慮が、種を腐敗から生き返らせる。そして一つのものから多くのものが生じ、それらが実を結ぶ」(二四・四〜五)。
 そしてヨハネ福音書に至って、種を復活の比喩、死と生の神秘の象徴とする理解はイエスご自身の言葉として定着する。

 「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。(ヨハネ一二・二四)

「種まきの譬」を復活の比喩として理解することは、それを「神の国」の比喩として理解することと別の事ではない。復活こそ「神の国」の最終的な内容である。イエスはその宣教において復活について語られることは比較的少ないが、ご自身は聖霊によって十字架の死を経て復活に至る道を歩んでいることを知っておられる。それは地上の人間がまだ誰も通ったことない道である。イエスにとっても将来の復活は父の約束として信仰によって受け取るべき性質の事である。人間の目には十字架の死だけしか見えない道を、イエスは毅然として歩んでゆかれる。それはその向こう側に復活を見ておられるからである。そう確信させるのは、すでにイエスの中に復活に至らざるをえない質の生命が働いているからである。それはまだ十字架の死の中に隠されている。しかし隠されているもので顕れないものはない。これが神が支配される世界の鉄則である。イエスは「種まきの譬」によってこの「隠されているもので顕れないものはない」という神の支配の根本原理を示し、それによって「神の国」の最終内容である将来の復活の確かさを指し示しておられるのである。
 イスラエルの歴史の中に隠されていた「神の国」は、イエスの中に実を結び、世界の中に出現した。しかしイエスの中に到来した「神の国」は、今は世界の不信と敵意の中に埋もれ隠されている。けれどもそれは神の業であるから、必ず豊かな栄光の中に顕現することになる。今わたしたちがキリストにあって賜っている神の生命も、この朽ちるべき体の中に隠されているが、それは必ず復活の栄光の中に顕れて、「神の国」は最終的に成就する。このように「神の国」は隠されているものが顕になるという形で到来する。この終末的な「神の国」到来の原理が「種まきの譬」で語られているのである。