市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第19講

19 イエスの母と兄弟 3章31〜35節

31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32 ときに、群衆がイエスを囲んで座っていたが、人々はイエスに、「あなたの母と兄弟たちが外であなたを捜しています」と言った。 33 するとイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」。 34 そして、周りに座っている人々を見回して言われた、「見よ、ここにわたしの母、わたしの兄弟たちがいる。 35 神の御心を行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」。

血縁を超える共同体

 三一節の場面はおそらく前段の「身内の者たちがイエスを取り押さえに来た」場面とは別のものであろう。しかし、イエスを連れ戻そうとした点では同じである。前段と合わせると、イエスは世間の人々からは気違い扱いにされ、宗教的権威者たちからは悪魔の手先という烙印を押され、身内の者たちからは迷惑者扱いにされ、母や兄弟たちからも理解されず、ただ一人、ご自身の中に来ている神の御霊の現実に忠実にその業を進めてゆかれる。イエスの中にはあらゆる人間の理解を超える神の終末の事態が来ているのである。そのようなイエスを慕い、イエスに従い、イエスの言葉に耳を傾ける者たちがイエスを囲んで座っている。彼らはおそらく先ほど選ばれた「十二人」を中心として、悪霊を追い出され病気を癒された婦人たちや、神の恩寵に縋らないではおれない「貧しい人たち」であろう(ルカ八・一〜三参照)。
 このような人たちを指してイエスは、「見よ、ここにわたしの母、わたしの兄弟たちがいる」と言われる。全く無条件に彼らをご自分と一体の者たちと扱っておられる。この一言に、マルコは伝えていないあの祝福の言葉が聞こえる。「あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものである」(ルカ六・二〇)。
 「神の御心を行う者」というのは宗教的道徳的律法を完全に守り行う者のことではない。その点については他の誰よりも立派であったファリサイ人たちは退けられている。「行う」は人間の在り方全体を問題にしている。これは神の御心にかなう在り方をしている者、すなわち砕けた心で神の恩寵を受け、ひたすら恩寵に縋って生きている者たちのことである。そのような者たちこそイエスを長兄とする神の家族の一員として、神の生命に生きる者となる。
 ここでは「神の国」が家族関係の用語で語られている。そのことによってかえって印象的に、地上の血縁関係が「神の国」においては全く無意味なものとして退けられている。イエスの兄弟、姉妹、また母として、イエスが生きておられる生命と同じ生命にあずかり、イエスと共に生きる者たちの共同体、そこに神の国がある。そのような神の家族の中に生まれるためには、血縁関係をはじめ一切の人間的な関わりは何の役にも立たない。一人一人が自分の全存在をかけて、イエス・キリストにおいて最終的に啓示された神の御心に従う、すなわちイエス・キリストを信じる以外には道はない。キリストを信じて神の御霊を受け、御霊によって新たに生まれる者が、「血すじによらず、ただ神によって生まれた」者として、神の家族の中で、イエスの兄弟、姉妹、また母として生きるのである。