市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第16講

16 海辺の群衆 3章 7〜12節

7 それから、イエスは弟子たちをつれて海辺に退かれた。すると、ガリラヤからきた大勢の群衆がついてきた。それにユダヤからも、 8 エルサレムからも、イドマヤからも、さらにヨルダンの向こう側や、ツロ、シドンのあたりからも、大勢の群衆が、イエスがなさっていることを聞いてみもとにやって来た。 9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意するように、弟子たちに言われた。 10 それは、多くの人を癒されたので、病苦に悩む人はみなイエスに触ろうとして、身を投げかけてきたからである。 11 また、汚れた霊どもはイエスを見るごとに、彼の前にひれ伏して叫び、「あなたこそ神の子です」と言った。 12 すると、イエスはご自分のことを人にあらわさないように彼らにきびしく命じられた。

海辺の群衆

 「それから、イエスは弟子たちをつれて海辺に退かれた」。

 前段(三・一〜六)で見たように、イエスが会堂で安息日に癒しの業をされたことによって、ユダヤ教との決裂は決定的となった。ユダヤ教と決裂するということは諸教派の中の一つと対立するということではない。その社会の神聖な体制全体に対立し反逆することである。ユダヤ教を代表する者たち、すなわち社会を支配している者たちの殺意を感じられたイエスは、彼らが支配する会堂を去り、弟子たちをつれてガリラヤ湖の岸辺に退かれた。この時以後、故郷のナザレの会堂に入られたこと(六・二)を除いて、イエスが会堂に入って教えられたことは報告されなくなる。

 「すると、ガリラヤからきた大勢の群衆がついてきた。それにユダヤからも、エルサレムからも、イドマヤからも、さらにヨルダンの向こう側や、ティルス、シドンのあたりからも、大勢の群衆が、イエスがなさっていることを聞いてみもとにやって来た」。

 イエスはすでに「ガリラヤ全土を巡り歩いて諸会堂に入り、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出された」(一・三九)のであるから、ガリラヤ中にその名が知れわたっており(一・二八)、ガリラヤの人々が大勢集まってきたのは当然である。しかしそれだけでなく、サマリヤを隔てた南のユダヤからも、またユダヤ教の牙城であるエルサレムからも、イエスがなさっていることを伝え聞いて、大勢の人々がはるばるガリラヤ湖畔のイエスのもとに集まってきた。
 ガリラヤとユダヤはユダヤ教徒の地であるが、その境を越えてさらに南のイドマヤ、東の「ヨルダンの向こう側」、北のティルスやシドンの地方からも大勢の人々がやって来た。これらの地域は異教徒の地域であるか、異教徒と混じっている地域である。これらの地名が列挙されているのは、イエスのもとに集まってきた人たちがユダヤ教徒だけでなく、周辺の異教徒も大勢いたことを示している。当時の状況からしてガリラヤ湖畔に集まったユダヤ人以外の人々は近隣の僅かの民族に限られているが、この湖畔の光景はやがてイエスのもとに世界の諸民族が集うようになることを象徴しているようである。

 「イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意するように、弟子たちに言われた。それは、多くの人を癒されたので、病苦に悩む人はみなイエスに触ろうとして、身を投げかけてきたからである」。

 マルコが描写する湖畔の情景は、神の救いの力を求める群衆の熱気を伝えているが、それと同時に癒しを求めて無秩序に押し迫る群衆の混乱を印象づける。その混乱を避けるためにイエスは小舟を用意させて、押し迫る群衆から離れようとされる。

 「また、汚れた霊どもはイエスを見るごとに、彼の前にひれ伏して叫び、『あなたこそ神の子です』と言った。すると、イエスはご自分のことを人にあらわさないように彼らにきびしく命じられた」。

 小舟を用意するように命じられたことは語られるが、その小舟を利用されるのは四章に入ってからである(一節および三五〜四一節)。ここではまだ陸地におられて悪霊を追い出しておられる。「汚れた霊ども」も霊の世界の住人として、イエスが霊界でどのような方であるかを知っている。「あなたこそ神の子です」と叫ぶ霊どもに、イエスはそれを言い触らさないようにきびしく命じられる。ここにも再び「メシアの秘密」の動機が現れる(これについては後でまとめて扱う)。
 この段落で「海」というのはガリラヤ湖を指している。しかし用語は西の大海(地中海)を指す語と同じであるから、当時の人々の意識に合わせて、ここでも「湖」ではなく「海」と訳しておく。「海」はイスラエル人にとっては神に敵対する怪獣が住んでいる所であり、混沌の象徴であり、恐怖の対象であった。そして、この段落が描写する「海辺の群衆」の光景は、「飼う者のない羊のような」群衆が助けを求めてイエスのもとに無秩序に押し迫っている光景であり、それは神なき混沌の中にある世界の諸民族を象徴しているかのようである。
 この「海辺の群衆」から離れてイエスは「山に登り」、そこで十二人を選び、そこから彼らを群衆の救いのために派遣される(次の段落)。これは神なき混沌の中にある世界の諸民族に、選ばれて天の奥義を委ねられた者(キリストの民)が派遣されて、神の救いの業が進められていくことを思い起こさせる光景である。このように、この「海辺の群衆」の段落は、次の段落「十二人を選ぶ」の前景としてここに置かれていると考えられる。