市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第12講

12 取税人レビが召される 2章 13〜17節

13 さて、イエスは再び海べに出て行かれた。すると、群衆がみなみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。 14 そして通りがかりに、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と彼に言われた。すると、彼は立ち上がって、イエスに従って行った。 15 それから、イエスが彼の家で食事の席につかれたことがあった。多くの取税人や罪びとたちが、イエスとその弟子たちと一緒に席についていた。このような人が大勢いて、イエスに従っていたのである。 16 すると、パリサイ派の律法学者たちがイエスが罪びとや取税人と一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った、「彼は取税人や罪びとらと食事を共にしている」。 17 イエスはこれを聞いて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪びとを招くためである」。

取税人(しゅぜいにん)と罪人(つみびと)

 この段落は取税人レビが召された出来事(一三〜一四節)と、彼の家での食事の情景(一五〜一七節)との二つから成り立っている。レビが召された時の様子はたった一節(一四節)で語られており、召された者がただちに従って行った様子はシモンたちの場合(一・一六〜二〇)と通じるものがある。ただレビの場合は彼が取税人であるという点が重要な意味を持っている。イエスが取税人を弟子の一人として選ばれたことは何を意味するのか、その事が続く食事の席の情景と批判者に対するイエスの言葉によって明らかにされる。
 ここではじめて「取税人(しゅぜいにん)」、「罪人(つみびと)」と呼ばれる人々が登場するので、それがどのような人たちを指すのか簡単に触れておく。
 当時の税は二種類あって、それは《ケーンソス》と呼ばれる直接税(人頭税と土地税)と《テロス》と呼ばれる間接税(通商される物品にかかる税や道路や橋を通る税など)とである。マタイ福音書一七章二五節には「この世の王たちは税《ケーンソス》や貢《テロス》を誰から取るのか」と用いられており、当時の人民が二重の税負担の下にあったことが知られる。直接税は任命された役人(税吏)が徴収したが、間接税は一定地域の徴税権を最高額で競り落した請負人が徴収に当たった。この請負人が《アルキテローネース》(関税請負人ということになる)と呼ばれ、実際の徴税はその下請けの《テローネース》(テロス徴収人)にさせた。ルカ福音書一九章のザアカイはエリコの地区の《アルキテローネース》であって、数人の部下の《テローネース》を持っていた。福音書で「取税人」と言われているのはこの《テローネース》のことであって、「関税請負人下請け」という職業の人である。
 「取税人」すなわち「関税請負人」やその下請けたちは、請け負った一定金額をローマ総督やヘロデ王家に収めればよいのであるから、実際の徴税に当たっては民衆の無知につけこんだりして出来るだけ多額の税金を取って、私腹を肥やすのを常とした。それでユダヤ教社会では、「取税人」という職業は盗賊や詐欺師と同列に置かれ、本来不誠実な不道徳的職業とされ、公職や法廷での証人の資格も認められず、民衆から蔑まれ村八分のような扱いを受けていた。「取税人」が軽蔑された理由として、彼らが異教の支配権力に奉仕する者であるからという政治的理由や、徴税に当たって異教徒との接触から受ける祭儀的汚れという理由もあったかもしれないが、おもな理由はやはり彼らの職業の不道徳性であったと考えられる。
 「罪人(つみびと)」というのは「殺人犯」とか「盗賊」という犯罪者、あるいは道徳的・宗教的な戒めに違反して世間から指弾されている人たちだけを指すのではなく、それに携わる人を不道徳・不正直にすると考えられていた職業の人たちをも広く指す用語であった。このような職業の代表的なものが「取税人」と「遊女」であり、その他にも「賭事師、高利貸し、両替商、税吏、羊飼い」というような職業がリストに挙げられている。
 福音書において「取税人と遊女」、「取税人と罪人」、あるいは単に「罪人」と呼ばれている人たちは、このような社会階層の人々であり、当時のユダヤ教の指導的立場にいた律法学者やファリサイ人たちからは「地の民」《アム・ハ・アレツ》と呼ばれ、聖なる宗教(律法)の知識なく、道徳的にもいかがわしい徒輩として軽蔑され、汚れた民、救いには縁のない民として見捨てられていたのであった(ヨハネ七・四九)。

レビの召命

 アルファイの子レビはこのような「取税人」のひとりであって、カファルナウム近くの交通の要衝に設けられた《テローニオン》(収税所、すなわち関税徴収所)に座って、交易される物品に対する関税や通行税を徴収していたのである。イエスは海辺で群衆に教えられた帰り道であろうか、通りがかりにレビが「収税所」に座っているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言って召されると、レビはただちに立ち上がってイエスに従い、弟子の群に加わったのである。
 この箇所と平行記事をなすマタイ福音書九章九〜一三節では、召された取税人の名は「マタイ」となっている。それで、「レビ」と「マタイ」は同一人であるとする説もある。するとこの人物は二つの名で知られていたことになるが、両方ともヘブル系の名であることからしてこの説には無理がある(シモンというヘブル名の人物にペトロというギリシア語系の通称名がつけられたのとは事情が異なる)。おそらく、レビは十二使徒に属していないけれども、十二使徒の中のひとりとして名をあげられているマタイがその前身は取税人であることが知られていたので(マタイ一〇・三)、第一福音書の著者がレビの召命の伝承を「使徒マタイ」の召命記事として書いたのではないか、と推定される。いずれにせよわれわれにとって重要なことは、レビとマタイが別人であるか同一人物であるかではなく、取税人がイエスの弟子として召されたという事実である。
 「それから、イエスが彼の家で食事の席につかれたことがあった」。もし、この宴席の伝承がレビの召命の伝承とは別に独立して伝えられていたのであれば、「彼の家で」というのはイエスの家を指すことになる。マタイの並行記事(九・一〇)はイエスの家を指していると読める。しかし、ルカは明らかに「レビは自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」(五・二九)としている。この食事が日常の食事ではなく、宴席または祝宴という性格のものであったことは、「席につかれた」という動詞が「横になる」という宴席での用語であることからも示唆されている。おそらく、レビはイエスのような神の人が取税人である自分を弟子として受け入れて下さったことへの喜びと感謝から、また取税人としてのこれまでの生涯に訣別することを世間に知らせるために、人を喜ばせる大きな散財をしたのであろう。
 「多くの取税人や罪人たちが、イエスとその弟子たちと一緒に席についていた。このような人が大勢いて、イエスに従っていたのである」。ここに、イエスに従ってきた人々がどのような社会階層の人たちであったかが明白に語られている。イエスに従ってきた人々の中に「取税人や罪人」が大勢いたこと、またイエスがこのような人々を受け入れ弟子とし、食事の席を共にされたことは、イエスの宣教の質を示す最も重要な指標のひとつである。そして、この事実が当時の宗教指導者たちにとって最大の躓きであった。

律法学者

 「すると、ファリサイ派の律法学者たちがイエスが罪人や取税人と一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った、『彼は取税人や罪人らと食事を共にしている』」。
ここに「ファリサイ派の律法学者たち」が登場する。彼らこそユダヤ教社会において「取税人や罪人」の対極にいる人たちである。「律法学者」というのは、ユダヤ教の律法の研鑽をつみ、聖書に通暁している学者であって、地方の会堂(シナゴーグ)やエルサレムの最高法院(サンヘドリン)において、人々を教え、裁き、宗教上の問題や国事を決定した指導階級の人たちであった。その律法に対する理解や態度にも、サドカイ派とかファリサイ派とかエッセネ派というような異なった数派があったが、その中でファリサイ派というのは律法への熱心と厳格さとで民衆の尊敬を受けていた当時の主流派であった。「ファリサイ」という語は、もともと「分離した(者)」という意味の語であり、彼らは律法順守の熱心において一般民衆とは違った者であると自負し、自分たちこそ律法の基準にかなう者すなわち「義人」であると自任していた。「ファリサイ派の律法学者」といえばユダヤ教社会では自他ともに認めるエリート、義人の中の義人であった。
 「イエスが罪人や取税人と一緒に食事をしているのを見て」、彼らが弟子たちに言った言葉は、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」という疑問文に読むこともできるが、激しい非難の気持ちを示す感嘆文として「(何たることか。) 彼は取税人や罪人らと食事を共にしている!」という読み方をとる。彼らにとって、取税人を弟子にしたり食事を共にするというようなことは、もはやその理由の釈明を聞いたり議論したりする段階のものではなく、公然たる律法違反であり、ただ非難と敵意に値するものであった。彼らは町に出たり市場に入ったりした時は、何か律法に違反して汚れたものに触れたかもしれないと恐れて、かならず水で手や体を清めるというような生活をしている人たちである。そのような人たちにとって、律法を知らず、律法を守ることのできない生活をしている取税人や罪人らと食事を共にすることは、彼らの仲間になることであり、みずからを律法の違反者とすることである。いくら病人を癒したり悪霊を追い出すような奇跡を行っていても、神の律法に違反している者が神の僕であるはずがない。「見ろ、大飯食らいの大酒飲み、取税人や罪人らの仲間」(マタイ一一・一九)というイエスに対する罵倒の言葉も、彼らが言い触らしたものであろう。

医者の比喩

 この非難の言葉を聞かれたイエスは、一つの比喩を用いて御自身がしておられることの意義を語られた。イエスは言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。医者が関わるのは健康な人でなく病人であるように、わたしが関わるのはあなたがた「義人」ではなく、あなたがたが「罪人」と呼んでいる人たちである、とイエスは言っておられるのである。
 ここで医者の比喩は、イエスが来られたのは「義人」を招くためではなく「罪人」を招くためである、という一点だけを説明するものであって、その一点を超えて解釈しようとするとイエスの言葉を誤解することになる。たとえば、医者は病人を治して健康な人にするように、イエスが来られたのは「罪人」に心を入れ替えさせ、律法に熱心な立派な「義人」にするためである、と考えるならばそれは全くの誤解である。ルカ福音書(五・三二)の「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という表現がしばしばこのように誤解されている。そうであれば、イエスもファリサイ人と同じ立場に立って、律法の順守によって「義人」を造ろうとする教師の一人にすぎなくなる。
 そうではない。イエスは彼らに「神の国の祝宴に招かれているのは、あなたがた義人ではなく、このような罪人たちである」と言っておられるのである。これは彼らの宗教に対する真っ向からの挑戦である。ファリサイ派の人たちにとって、また彼らが代表するユダヤ教においては、神の国に招かれるのは律法を守り行っている「義人」である、ということは自明の原理である。したがって、律法の知識なく、律法を守ることができないような生活をしている「罪人」たちは、神の国とは無縁な者である。それに対して、イエスはその自明の原理を真っ向から否定し、全く逆のことを宣言しておられるのである。「義人」が退けられ、「罪人」が受け入れられている。そうであれば、律法を守ることは無意味になり、律法の存在自体も無意味になるのではなかろうか。これが律法に対する冒?でなくて何であろうか。律法を与えられた神に対する反逆でなくて何であろうか。ファリサイ派の律法学者たちが激昂するのも当然である。
 このような正統ユダヤ教に対するイエスの激しい挑戦はどこから来るのであろうか。それを、マタイはこの箇所に「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい」という、預言者(ホセヤ六・六)の引用を挿入する形で示唆している(マタイ九・一二〜一三)。当時のユダヤ教の原理は「いけにえの原理」であった。すなわち、神と人との関係は人間が神に捧げるよきものによって成立するという原理である。そして、神から与えられた律法を守る行為こそ神に捧げるよきものであるから、それを積むことによって「義人」として神に受け入れられる、ということになる。それに対して、イエスが生きておられる世界は「あわれみの原理」に立つ世界であった。イエスが体現しておられる「神の支配」は「恩恵の支配」であった。人間がどれだけよきものを神に捧げることができるかではなく、何も捧げることができない人間にも神がそのあわれみをもって無条件に交わりの手を差し伸べてくださるのである。イスラエルの神は本来、預言者も指摘しているように、「あわれみ、いつくしみの神」であった。それが傲慢という人間の本性的な罪のために、人間を主人とする「いけにえの原理」の宗教に転落してしまっていたのである。
 「わたしが来たのは」とイエスが言われる時、「見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める」(イザヤ四〇・一〇)と言われていた終わりの日の到来を告げる響きを聞き逃してはならない。神が終わりの日に御自身の支配を地上に確立される時、それは神の本来の「恩恵の支配」が顕れる時である。今イエスの中に聖霊によりその「恩恵の支配」が到来し、それがユダヤ教の「いけにえの原理」を断罪しているのである。イエスの中に到来している「終末」が、人間の本性の上に立つ宗教と激しく戦っているのである。

貧しい者への福音

 さて、ここまで「取税人」とか「罪人」という用語を引用符(「 」)を用いて書いてきたが、それはこれらの用語がイエスの批判者たちの用語であり、イエス御自身もここで彼らの用語を彼らの用いている意味で使っておられるからである。イエスは彼らにこう言っておられるのである、「神の国の祝宴に招かれているのは、自分を『義人』と呼んでいるあなたがたではなく、あなたがたが『罪人』と呼んでいる人たちである」。
 ではイエス御自身は自分に従ってきた多くの取税人・遊女・罪人というような階層の人々をどう呼んでおられるのであろうか。彼らに対するイエスの語りかけの代表的な場合を聞こう。イエスは自分に従ってきた弟子たちを見て言われた(ルカ福音書六・二〇)。
 「さいわいだ、あなたがた貧しい人たちは。神の国はあなたがたのものであるから」。
イエスは彼らを「貧しい人たち」と呼んでおられる。これは預言者の用語を継承されたものと考えられる。イエスはすでにガリラヤで宣教を始めるにあたって、預言者イザヤの「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである」という聖句を引いて、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と宣言しておられる(ルカ四・一六〜二一)。イエスは、神の霊を受けたのは「貧しい人々に福音を宣べ伝える」ためであると自覚しておられた。旧約の預言書や詩篇では、「貧しい者」というのは抑圧され苦しめられていながら、それに対抗するものを自分の中に何も持たない者、ただ神に縋るほかない者のことである。イエスは当時の「取税人・遊女・罪人」たちの中に、律法に抑圧され罪の負債を抱えた「貧しい者」の姿を見て、彼らに「罪の赦し」を宣べ伝えられたのであった。
 イエスはまたこのような者たちを「小さい者」と呼んでおられる(マルコ九・四二など)。神の国の祝宴にあずかる者、神との交わりを得てまことの生命の喜びに至る者は、このような「貧しい者」、「小さい者」である。それは、神の国とは無条件の恩寵だけが支配する場であって、自分に何の価値も資格も無い者だけが入ることのできる世界であるからである。
 ヨハネが弟子を遣わして、「『来るべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかに誰かを待つべきでしょうか」と尋ねたとき、イエスは「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり」と為しておられる業を列挙された後、最後に「貧しい人々は福音を聞かせられている。わたしにつまづかない者は、さいわいである」と言っておられる(ルカ七・一八〜二三)。この最後の「貧しい人々が福音を聞かされている」ことは「盲人は見え……死人は生きかえり」という奇跡以上に驚くべきこと、人間の思いをはるかに超える終末の出来事である。それが今この食卓で起こっていることなのである。「つまづかない者はさいわいである」というのは、特にこの最後の出来事について言われている。
 直訳すると「貧しい人々は福音されている」とでもすべき表現が用いられているが、これはたんに「福音の話を聞かされている」というのではなく、福音によって招かれ、福音の祝福を与えられ、福音が告知している神の国の現実にあずかっている、という内容を持っている。ヨベルの年が成就したのだ。ヨベルの年には負債は赦され、抑圧は取り去られ、本来の資産が回復される(レビ記二五章)。今、イエスの中に終わりの日の「恩寵の支配」が到来している。そこでは、罪は赦され、律法の抑圧は取り去られ、まったく無条件で何の資格も無い者に神との交わり、いのちの喜びが回復されている。
 ここに引用した「貧しい者」に関するイエスの言葉をマルコは伝えていない。しかしマルコは取税人や罪人たちと食事を共にされたイエスの行為を伝えることによって、「貧しい者」に福音を宣べ伝えられたイエスを何よりも雄弁に語っているのである。オリエントの社会では、食事を共にすることは生活と運命を共にする仲間であることを確認する行為であった。とくにユダヤ教社会では、食事を共にする者たちは神の前における共同体を形成した。それは、食卓を共にする一人一人が裂かれたパンの一片を食べることにより、主人が唱えた神への賛美と祝福にあずかるからである。イエスは取税人や罪人たちと食事を共にすることによって、彼らが御自分の中に到来している神の国の祝福にあずかる仲間であると公然と宣言しておられるのである。また、これは「天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」時の先取りの宴でもある(マタイ八・一一)。
 こうして見ると、イエスが「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて《メタノイア》に至らせるためである」(ルカ五・三二)と言われる時の《メタノイア》の意味はおのずから明らかであろう。それは、道徳的・宗教的悔悛というようなものではなく、罪人が神の恩寵の招きに応えて、自己に閉じこもって陥っていた絶望の場から、身を翻して神が無条件で備えてくださっている祝宴へと向かうことである。それは喜びに満ちた「立ち帰り」である。
 現代のキリスト教会は果たして「罪人」を招いているだろうか。いつの間にか「義人」を招くようになっているのではなかろうか。まず人を自分たちの規準にあった「義人」に変えて、それから「義人」になった者にだけ神の救いとか祝福を約束しているのではなかろうか。その「規準」には、酒や煙草をのまないことから、特定の進歩的な社会思想をもって社会改革を実践することや、特定の教義を信奉することまでさまざまな形があるが、その規準にあわない者を退けているならば、それは「義人」を招く教会である。
 十字架の福音はいまも「罪人」を神の国の祝宴に招いている。神の子キリストがすべての人の罪を負って死なれた以上、すべての人は死んだのである。すなわち、十字架はすべて人間の側の価値を打ち砕いてしまったのである。もはや、誰も自分の資格や価値をもって神の前に出ることはできない。自分を無価値・無資格の者としてひれ伏す者だけが、十字架の贖罪の御業を通じて、聖霊の賜物を受け、復活に至る生命の世界に入る。十字架は、いささかでも自分を「義人」とする者をきびしく退ける。十字架はまことに「恩恵の支配」の最終的な実現である。