市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第7講

7 権威ある新しい教え 1章 22〜28節

21 それから、彼らはカペナウムに入って行った。そしてすぐ、イエスは安息日に会堂に入って教えられた。 22 すると人々は彼の教えに驚嘆した。イエスが律法学者のようにではなく、自ら権威を持つ者として人々を教えられたからである。 23 するとただちに、会堂の中にけがれた霊につかれた人がいて、叫び出して 24 言った、「ナザレ人イエスよ、われらにかまわないでくれ。あなたはわれらを滅ぼすために来たのだ。あなたが誰であるのか、わたしは知っている。あなたは神の聖者だ」。 25 するとイエスはこれを叱りつけて言われた、「黙れ。この人から出て行け」。 26 すると、けがれた霊はその人をけいれんさせ、大声をあげてその人から出て行った。 27 人々はみな驚愕し、互いに論じて言った、「これはいったい何事か。権威ある新しい教えだ。けがれた霊に彼が命じると、霊は彼に従うのだ」。 28 こうして、イエスの噂はたちまちガリラヤの全地方いたるところに広まった。

カファルナウムの会堂

 イエスと弟子の一行は「カファルナウムに入って行った」。このガリラヤ湖畔の町「カファルナウム」はイエスのガリラヤ伝道の拠点として重要である。マタイ福音書によると、

「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海辺の町カファルナウムに行って住われた。・・・・この時からイエスは教えを宣べはじめて言われた、『立ち帰れ。天国は迫っている』」。(マタイ四・一二〜一七)

 イエスはこのカファルナウムに居を定め、そこから宣教活動を始められたわけである。この町は「イエスは自分の町に帰られた」(マタイ九・一)と言われる町であり、マルコ(二・一)もそれを前提に「在宅された」という表現を使っている。ペトロとアンデレはこの町の人であり、ペトロは自分の家にイエスを迎えている。イエスはこの町に住み、この町の人を弟子とし、この町の会堂で教え、この町の多くの病人を癒された。この町から出てガリラヤの諸地方を巡回して神の国を宣べ伝え、この町に帰ってこられた。
 このようにカファルナウムはイエスの宣教活動の中心地となり、イエスの多くの力ある業を見たにもかかわらず、遂にイエスを受け入れなかったので、イエスの断罪の言葉を聞くことになる。

 「ああ、カファルナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落とされるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日まで残っていたであろう。しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。(マタイ一一・二三〜二四)

 「イエスは安息日に会堂に入って教えられた」。当時ユダヤ人のいる所ではどの町にも会堂があった。地域のユダヤ人(すなわちユダヤ教徒)は必ず安息日には会堂に集まって、聖書の朗読と勧めに耳を傾け、賛美と祈りを捧げたのであった。会堂には祭儀を行うための祭壇はなく、聖書の巻物を収める聖櫃と説教者のための講壇があるだけである。会堂の建物とそこでの礼拝は、現代のプロテスタント教会とたいへん似ていると考えて間違いはない。会堂はユダヤ教徒の宗教生活の中心であっただけでなく、律法の研究機関であり、子供たちを教育する学校であり、地域の民事や刑事の紛争を裁き、刑の執行をする裁判所でもあった。この会堂における礼拝、研究、教育、裁判を通じて民衆に律法を教えていくことが、ユダヤ教の基盤を形成していたのである。
 安息日の礼拝で説教する者は通常ラビであるが、会堂のメンバーであれば誰でも担当することができた。また他所から呼んで来て依頼することもできた。聖書の朗読箇所は日課として指定されている場合もあり、説教者が選択する場合もあったようである。当時の会堂は、資格のある牧師しか説教するすることが許されていない現代の教会よりもはるかに自由で平等だった。
 イエスは正規の神学教育を受けたラビではなかったが、安息日に会堂に入り、聖書が朗読された後(あるいは自ら朗読された後)講壇に座して、ご自身の中に到来している「神の国・神の支配」の事態を語り出されたのである。イエスはユダヤ人に対する宣教活動を会堂で始められた、すなわち公の場で「神の支配」の到来を宣言されたわけである。

権威ある言葉

 会堂でイエスはどのように語られたのか、その典型的な実例として、イエスが故郷のナザレの会堂で「神の支配」到来の宣言をされた時のことが、ルカ福音書四章(一六〜三〇節)に伝えられている。それによると、イエスはイザヤ書の中の、御霊を受けて福音を宣べ伝え、「主の恵みの年」を告げ知らせる人物の出現を予言している箇所(六一・一〜二)を引用し、「この聖句(予言)は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と言って、ご自身の中に「神の支配」が実現到来していることを宣言されたのであった。「ヨセフの子」によるこの宣言が会堂に集まる人々にとって、すなわち聖書によって「神の支配」到来の日を待ち望んでいるユダヤ教徒にとっていかに大きな驚きであったか、ナザレではイエスへの殺意に変わりうるほどのものであったことからもうかがわれる。(カファルナウムの会堂における実例についてはヨハネ福音書六章五九節参照)
 カファルナウムの会堂の聴衆の驚きについて、マルコは簡潔にその事実だけを伝える。「すると人々は彼の教えに驚嘆した」。そして、彼らの驚嘆の理由を、イエスの教えの内容ではなく、イエスの言葉の持つ力に見ている。「イエスが律法学者のようにではなく、自ら権威を持つ者として人々を教えられたからである」。イエスが神の国のことを語られる時すでに、彼の言葉には不思議な力があって聞く者の心を捉えた。それまで律法学者も「天(神)の支配」のことを語ってきた。しかし彼らの「天の支配」は律法のくびきを負い、律法を守ることであった。彼らは律法研究の専門家として、書き記された律法(モーセ五書)を究極の権威とし、それに昔の人々の言い伝えを加え、実際の生活の中で律法をどのように守ればよいか、厖大な体系にまとめ、民衆に教えていた。彼らの教えは律法についての解説であった。
 それに対して、イエスは聞き手の心に直接ご自分の言葉を語りかけられる。「昔の人々に…と言われていたことは、あなたがたが聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。…」(マタイ五・二一〜二二、その他)。イスラエルがその全歴史を通じて、これこそモーセによって与えられた神の啓示であるとして聞いてきたものを超えて、「しかし、わたしは言う」と語ることができるのは、聖書が自分の中に成就していると自覚しうる者だけである。イエスは終わりの日に聖書を成就する者として現れ、もはや他者の権威によって与えられている律法を解説する者としてではなく、自らの中に権威を持つ者として、直接イスラエルに律法を超える言葉を語りかける。民衆は、律法学者の教えとイエスの言葉との次元の違いを直観的に感じて驚嘆するのである。

>悪霊の追放

 すると、「会堂の中にけがれた霊につかれた人がいて、叫び出した」。人間は霊である。肉体と不可分に結ばれてはいるが、霊の世界に属する者である。人はそれを認めようとしない時も、自分が霊の次元の存在である事実を変えることはできない。そのような者として、人間は様々な霊との関わりの中で生きているのである。人は神の霊を受けることもできるが、悪い霊に支配される状態に陥ることもありうる。「けがれた霊につかれた」状態では、その人の普段の生活の中に突如として別の人格(その人にとりついている霊)が語りだしたり行動することがある。会堂にそのような人がいて、その人にとりついている霊が自分を圧倒するイエスの言葉に直面して、抵抗し、叫び出したのである。霊はイエスが誰であるかを知っている。
 「ナザレ人イエスよ、われらにかまわないでくれ。あなたはわれらを滅ぼすために来たのだ」。ここで霊は「われら」と複数形を使っている。一人の人に複数の霊がとりつくこともあるが、この場合は、「わたしは知っている」というこの霊の用語や、二五〜二六節の霊が単数であることからして、この人にとりついているのは一霊であると考えられるので、この「われら」というのは自分のような種類の霊の仲間一般をさしていると理解すべきであろう。この霊はイエスが自分たちのような霊を支配する権威のある方であることを知っており、今自分が安住して居座っている場所から追放しないように哀願し、抵抗するのである。「滅ぼすために来たのか」と疑問文にする読み方も可能であるが、その読み方に従ったとしても、イエスの意図がわからないので尋ねているのではなく、それを知って驚きの声をあげたと理解すべきであろう。
 「あなたが誰であるのか、わたしは知っている。あなたは神の聖者だ」と霊は叫んでいる。霊は霊界のことを人間よりよく知っている。地上の人間がまだ誰もイエスが誰であるかを知らない時、霊はすでにそれを知っていた。イエスが神から遣わされた方であり、神の霊によって語る方であり、神に属する方であることを知っていた。この叫びに対してイエスは「黙れ」と命じて、それ以上もの言うことを許されなかった。このようにイエスが誰であるかを知る者に公表を禁じられたというイエスの態度は、いわゆる「メシアの秘密」の動機としてマルコ福音書全体を貫いている。これが何を意味するかについては後で適当な所で触れることにするが、ここではこの動機がイエスの活動を伝える最初の記事から現れていることを指摘するにとどめる。
 イエスが霊に向かって「この人から出て行け」と命じられると、「けがれた霊はその人をけいれんさせ、大声をあげてその人から出て行った」。イエスが悪霊を追い出される時は、秘密の儀式もなければ呪文もない。ただ単純な命令の言葉だけである。悪霊がイエスの言葉に従ってただちに出て行くのを見て、われわれもカファルナウムの会堂の人たちと一緒におおいに驚く、「これはいったい何事か。権威ある新しい教えだ。けがれた霊に彼が命じると、霊は彼に従うのだ」。
 マルコが「人々はみな驚愕し」とたいへん強い言葉で人々の驚きを伝えているのは、この出来事が指し示している事態、すなわちイエスの中に到来している「神の支配」の事態がいかに人の思いを超えるものであるかを印象づけるためであろう。会堂の人たちは「教え」という言葉を使っているが、イエスの教えはもはや教えではなく、われわれが知らなかった新しい次元の言葉である。それは霊を従わせ、病気を癒し、暴風を静め、罪を赦す言葉である。マルコがイエスの宣教活動の最初にこの記事を置いたのは、イエスの言葉がすべて「権威ある新しい言葉」であること、その言葉を発するイエスが「新しい」時代をもたらす「権威ある」かたであることを宣言するためであった。この方において新しい時代が旧い契約の民のただ中に到来しているのである。福音が「新しい」という時、それはもはや次のものによって古びることのない最終的な事態、すなわち終末の事態を指している。終末の現実が力をもってこの世界の中に突入して来ているのである。イエスの言葉は終末の現実を地上にもたらす力ある言葉である。悪霊の追放や病気の癒しは、このようなイエスの言葉の質と次元を指し示す「しるし」である。

「こうして、イエスの噂はたちまちガリラヤの全地方いたるところに広まった」。