市川喜一著作集 > 第3巻 マルコ福音書講解T > 第3講

3 イエスのバプテスマ  1章 9〜11節

9 その頃こういうことが起こった。イエスがガリラヤのナザレから出て来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった。 10 するとただちに、水の中から上がられると、天が裂けて、御霊が鳩のように自分に下って来るのを見られた。 11 そして、天から声があった、「あなたこそわたしの子、わが愛する者である。わたしはあなたを喜ぶ」。

ヨハネとイエス

ヨハネがユダヤの荒野で神の審判の切迫を叫んだとき、「ユダヤ全地方の人々とエルサレムの全住民」とがヨハネのもとに出て行って、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けたのであるが、ヨハネの宣教の声は遥か辺境の地ガリラヤにも及び、ガリラヤからもはるばるヨハネのもとに来て、バプテスマを受ける人たちがあった。その中に、ナザレの人イエスがおられた。
イエスがナザレの出身であるとの伝承は確実である。イエスはいつも「ナザレのイエス」と呼ばれている。この呼び名において、「ナザレの」はわれわれの社会では姓にあたる役割を果たしている。ナザレは辺境の地ガリラヤでも、そこから何のよきものも期待できない無名の小さい町であって(ヨハネ一・四六)、この呼び名はイエスの出身の辺境性と庶民性をより強く印象づける。
イエスがナザレから出て来られたことを語るのに、わざわざ「ガリラヤの」ナザレから、と説明を加えているのは、マルコのガリラヤ重視の傾向(これについては後に適切な所で触れることになる)の一つの表れである。マルコは、マタイやルカのように、イエスの現住地はナザレであっても、ダビデの家系に属する者として、その本籍地はユダヤのベツレヘムである、というような説明はいっさい加えない。むしろ、イエスがガリラヤの人であることを読者に強く印象づけようとしている。イエスの出身も活動も、エルサレムの教会権力から遠い、辺境の地の庶民の中であることは、イエスの福音を理解する上で考慮に入れるべき大切な要素であろう。
ここでイエスが初めて舞台に登場されるのであるが、マルコはイエスの系図、誕生、家族、年齢、経歴、職業、容貌などにいっさい関心を示さない。それは、マルコがイエスの伝記を書こうとしているのではないからである。マルコはただ一つ、イエスという方の中に神が現実に働き給うたという事実だけを語ろうとする。その事実が「神の子イエス・キリストの福音」だからである。そして、その事実はイエスがヨハネからバプテスマをお受けになった時、神の霊がイエスに下ったことから、具体的に始まるのである。
イエスがガリラヤのナザレから出てきてヨハネの前に立たれた時、それは人類の歴史の中で最大の対面であった。古い時代を締めくくる最後の預言者、いや預言者以上の者、「女から生まれたもっとも大いなる人物」と言われるヨハネと、新しい時代を世界に導き入れる神の子、新しい人類の頭(代表者)なるイエスが、ここに顔を合わせて立っているのである。
イエスは何故ヨハネからバプテスマをお受けになったのかという疑問は、ごく初期の教団においてすでに感じられていたようである。一つは、罪のないイエスがなぜ「罪の赦しを得させるバプテスマ」をお受けになったのか、という教義上の疑問であり、もう一つは、洗礼者ヨハネを信奉する教団と競合関係にあった初期のキリスト教団にとって、イエスがヨハネの風下に立つような印象を与えるこの出来事は、釈明を必要とする重荷であったと考えられる。それで、この点については何も触れないマルコを補うように、マタイは次のような記事を入れている。

「そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、『わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか』。しかし、イエスは答えて言われた、『今は受けさせてもらいたい。すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである』。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした」。(マタイ福音書三・一三〜一五)

 マルコは、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった動機については何も語っていない。しかし、後でイエスご自身がヨハネについて語っておられること(マルコ一一・二七〜三三、マタイ一一・二〜一九)から見て、イエスはヨハネの宣教を神から出たものと受けとめておられたことは確実である。イエスはヨハネの宣教に神からの呼びかけを聞かれ、それに従うことによって、イスラエルの歴史の中に流れてきた神のみ業の連鎖(救済史)にご自身を結びつけられたのであった。まことに、ヨハネはこの方がイスラエルに現れてくださることのために水でバプテスマを授けていたのであり(ヨハネ一・二一)、イエスはヨハネからバプテスマを受けることにより、神の御計画通りにイスラエルに現れられたのである。
 さらに、イエスに関する新約聖書の証言を総合すると、イエスは「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(フィリピ二・七)かたであるので、現実の人間と完全に一つになり、人間のどん底を担うために、われわれ罪の下にいる人間と同じように、ヨルダン川でバプテスマをお受けになった、と言える。イエスは自らは罪なきかたでありながら、罪の中にある人間性を引き受けて、神の審判の声に服しておられるのである。ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネはこのイエスの姿をその時すでに理解していた、としている。ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て言った、「見よ、世の罪を負う神の小羊!」(ヨハネ一・二九)。このヨルダン川のバプテスマの延長上にゴルゴタの十字架がある。イエスのお心と生涯は、ヨルダン川からゴルゴタまで一直線である。「その有り様は人と異ならず、おのれを低くして、死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで従順であられた」(フィリピ二・七〜八)。

聖霊降臨

 イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった。それは、ヨハネの面前でヨルダン川に全身を沈め、沐浴する行為である。イエスが水の中から上がられると、天が裂け、神の霊が鳩のように自分に下ってくるのを見られた、とマルコは記している。マルコは一〇節の初めに、「するとただちに」という語を置いているが、これは語の位置からして、「水の中から上がられるとただちに」ではなく、「バプテスマをお受けになるとただちに」の意味である。この「ただちに」という語はマルコ特愛の語で、行為と出来事を重視するマルコ福音書において、行為の気迫と出来事の差し迫った継起を印象づける。ここでも、バプテスマをお受けになるイエスの行為に対して、御霊を注ぐという神の行為が「ただちに」応えるのである。
 マルコは「天が裂けて」と語る。それは新しい時代、終末の時の開幕を告げるしるしである。それまでは、人の罪(存在の奥底での神への背き)のために、「天は閉ざされ」、天にいます神と地にいる人との直通の交わりは断たれ、人は地に放置されていた。かろうじて、選ばれた民イスラエルが、神の霊に感じ神より遣わされた人(預言者)の声によって、間接的に神の啓示を保持するだけであった。その預言の霊も、イエス出現の前数百年間はイスラエルに響くこともなくなっていた。人の魂は、閉ざされた天の下で、渇き、呻き、「どうか、あなたが天を裂いて下ってくださいますように」と祈らざるをえなかった(イザヤ六四・一)。今、その時が来たのである。「天が裂けて」神が地に臨まれたのである。しかし、それは稲妻がひかり、雷鳴がとどろくという黙示録的光景においてではなく、神が選ばれたひとりの人に神の霊が下るという形で実現したのである。
 御霊が「鳩のように下る」とは、どのようなことであろうか。鳩が何を象徴するのかについて多くの議論がなされてきたが、それらの議論はみな、聖霊が鳩のような形をとって下った、という理解を前提にしている。しかし、その頃のユダヤ教には霊を鳩にたとえることは知られていなかったと言われる。そもそも霊の形を表現しようとすることは無理であり、また無意味であると考えられる。「鳩のように」は聖霊の形ではなく、聖霊が下るときの下り方を描いていると理解すべきであろう。鳩が地面に降りるとき、スーッと音もなく滑るように降りることもあるが、バタバタと激しい羽音を響かせて降りることもある。そのどちらであるかを決定する手がかりは本文中にはないが、前者であればわざわざ「鳩のように」と描写する意味がないので、後者の意味であろうと考えられる。
 かなり以前のことであるが、集会でわたしが福音を語った後の祈りで、ひとりの女性が聖霊を受けて異言で祈りだした。その女性は祈りの後で、「背後の窓から大きな鳥がバタバタと羽音をたててわたしの方に飛んでくるような感じがした」と言った。それを聞いて、わたしはイエスのバプテスマの記事を連想したのである。イエスは、鳩が激しい羽音をたてて降りてくるように、聖霊の激しい波動を全身に感じられたのではなかろうか。そのような理解の仕方も許されると思われる。いずれにせよ、御霊の下りかたではなく、御霊がこの時イエスに下ったという事実が重要であり、本質的なことである。
 御霊は、この時イエスの上に下っただけでなく、その後もイエスの中に留まり、イエスを通して働き、力ある業をされたのである。イエスは神の霊に満ちた人として、世に現れ、その働きをなされた。昔、預言者たちが何らかの意味で神の霊の感動を受け、啓示にあずかり、神の言葉を語ったのであるが、それは特殊な状況において与えられた一時的、過渡的なものであった。彼らは、やがて終わりの時に神の霊が留まる人物が現れて、新しい時代をもたらすことを予言した(イザヤ一一・一〜五、四二・一、六一・一など)。今やその時が来た。天は裂け、新しい時代が始まった。地上のひとりの人イエスに神の霊が下り、留まり、満ち溢れて、その御業をされる時が到来した。まことに、イエスの本質は「御霊の人」である。

御言(みことば)体験

 聖霊を受ける体験は、御言葉を受ける体験である。「あなた対わたし」の次元で直接語りかける御言葉を受ける体験である。これが、聖霊体験の本質面であって、幻や異言などの不思議な現象は外面的な現れにすぎない。御霊(みたま)を受けるとき、言葉は聴くが語りかける方の姿は見えない。しかし、語りかける人格の圧倒的な実在は実感する。まことに、「天から声があった」としか表現のしようのない体験である。
 イエスはこの時、「あなたこそわたしの子、わが愛する者である。わたしはあなたを喜ぶ」という言葉を聴かれた。「あなたはわたしの子である」という語りかけにおいて、原文では「あなた」が強調されていて、「あなたこそは」というような勢いになっている。数えることもできない地上の人間の中で、ただ一人ナザレのイエスだけがこの語りかけを受け、この時「神の子」として世界に現れたのである。
 しかし、イエスが神の子として現れたのは突然のことではない。選民イスラエルの二千年にわたる長い歴史の中でなされてきた神の準備の御業の完成として、時満ちて出現されたのである。そのことは、この時イエスに臨んだ御言葉が、イスラエルの歴史の中で与えられていた預言の言葉であったことからも明らかである。イエスは預言を成就する者として出現されたのである。その預言はこうである。

「見よ、わたしが選んだ僕、わが魂が喜ぶわが愛する者。わたしはわが霊を彼に与える。彼はもろもろの国びとに道を示す」。(イザヤ四二・一、なおマタイ一二・一八参照)

 これは、イスラエル預言者の最高峰といわれる捕囚期の大預言者「第二イザヤ」の中の一節である。彼は地上で神の御心を実現する「主の僕(しもべ)」の出現を予言した。この時イエスに臨んだ言葉は、数カ所に及ぶ「主の僕」預言の最初のものの冒頭の一節である。イスラエルでは最初の一句で全体を代表させる習慣であったことを考えると、イエスはバプテスマにさいして受けた御言葉によって、御自身が「主の僕」預言の全体を成就する者として召されていると自覚されたと考えられる。イエスは御霊を受けることによって「主の僕」として召されたのである。このことは、イエスの御生涯の全体を理解する上できわめて重要な鍵である。預言者の生涯はその召命体験によって決定されるからである。
 ここで、冒頭の句「見よ、わが僕」が、「あなたこそわたしの子である」となっていることが注目される。「見よ」が「あなたは〜である」となっているのは、イエスへの直接の語りかけの言葉として当然である。問題は「僕」が「子」となった事情と意義である。イザヤ書のヘブル原典ではもちろん「僕」を意味する語が用いられているのであるが、ギリシア語訳では僕(しもべ)と子の両方の意味をもつ《パイス》が用いられた。マタイ福音書一二章一八節の引用ではこの《パイス》を保持している。ところが、イエスの召命を伝えるこの箇所では、「子」という意味だけの《フィオス》という語になっている。このようなギリシア語用語の変更においては、復活後イエスを神の子《フィオス》としてヘレニズム世界に宣べ伝えた初期の教団の信仰が影響していると考えられる。しかし、訳語はともかく本質的には、「主の僕」としての召命を受けられたイエスが、その召命の言葉の中に「わが子よ」との呼びかけを聴いておられることが重要である。
 「あなたこそわたしの子である」という御言葉については、普通、詩編第二編七節の「あなたはわたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」からの引用であるとされる。しかし、この詩編の聖句は初代教団の宣教において、イエスが復活によって神の子として立てられた時に成就したとして引用されているものである(使徒行伝一三・三二〜三三)。また、語学的にも、イエスの召命の時の御言葉は、詩編とイザヤ書の混合引用ではなく、イザヤ書からだけのものであることが有力に主張されている(J・エレミアス)。このような点を考えると、イエスはこの時「主の僕」として召す御言葉の中に、同時に「あなたこそわたしの子」という直接の天からの呼びかけを聴かれた、と理解すべきであろう。神はイザヤ書の「主の僕」を指し示す言葉で語りかけられたが、イエスはその御言葉を「わが子よ」という御声として聴かれた、ということである。その時、「わが愛する者、わが心の喜ぶ者」という言葉は、主人と僕の関係を超えて、父と子の愛における一体性、父と子の意志の全き一致を示すものとなる。イエスは聖霊により、父と一体となって生きる現実に入っていかれたのである。しかも、父と一体であるイエスが、予言されている「主の僕」の使命を実現すべく召されていることを自覚されたのである。
 このように、「子にして僕」、「僕にして同時に子」という二重性が、イエスの人格と生涯を理解する鍵になる。父と一つである子として、ただひとり父を知る者として、イエスは父を世に示すことをおのが使命とされた。同時に、「主の僕」の姿、特にイザヤ書五三章に語られている世の罪を負って苦難を受ける僕の姿を、おのが進むべき道として受けとられたのである。この二面がイエスの生涯においてどのように現れたかは、本講解全体の課題であって、今ここで扱うことはできない。ただ、イエスがバプテスマをお受けになった時に体験されたこと(召命体験)が、イエスの人格、働き、生涯を理解する鍵であることを、ここに述べておく。イエスの活動全体はここから発するのである。この一点から理解するのでなければ、イエスというお方を正しく理解することはできない。

長兄としてのイエス

 最後に、イエスの聖霊体験とわれわれの聖霊体験との関係について一言触れておく。イエスのこの時の御霊の体験は、われわれイエス・キリストを信じて聖霊を受ける者たちの霊的体験の原型である、と言える。もちろん、同じく神からの御霊を受ける体験であるといっても、イエスの場合とわれわれの場合では根本的に違う点がある。それはまず、イエスは本来罪なき方として、すなわち魂の奥底まで神への背きの全然ない方として、神から直接聖霊を受けになったのであるが、われわれは生まれながらの自我を立てて神に背く者、すなわち根源的な罪の中にいる者として、そのままでは神の霊を受けることはできない、という点である。われわれは復活されたイエス、すなわち主イエス・キリストを信じ、この方に合わせられることによって、キリストの十字架の死において成し遂げられた贖罪にあずかり、復活されたキリストを通して神からの聖霊の賜物を受けるのである。われわれは直接神から御霊を受けることはできない。キリストにあって、キリストを通して聖霊を恵みの賜物として受けるのである。
 このような根本的な違いにもかかわらず、地上の人間が神の霊を受けて生きるという点では、イエスの場合もわれわれの場合も同じ質の事態である。だからこそ、イエスはわれわれ信じて神の子とされる者たちの長兄と呼ばれるのである(ロマ八・二九)。イエスはヨハネの宣教に神の呼びかけを聴かれ、ヨルダン川の水に自らを浸すことによって御霊をお受けになった。われわれは福音、すなわち復活された主イエス・キリストの言葉を、神からの最終的な呼びかけとして受け、このキリストの中に自己をすべて浸し入れることによって(水のバプテスマはこの信仰の告白である)、神が約束してくださっている聖霊を、恵みの賜物として受けるのである。そして、イエスが御霊によって「あなたはわたしの子、わが愛する者である」という御言葉を聴かれたように、われわれも注がれる聖霊によって神の愛を実感し(ロマ五・五)、神の子とされていることを知り、「アッバ、父よ」と祈り始めるのである。キリストにあって賜る御霊は「子たる身分を授ける霊」だからである(ロマ八・一五〜一六)。また、イエスがこのとき聖霊によって「主の僕」としての召命を受けられたように、われわれも聖霊を受けるとき、もはや自分の意志や願いによって生きるのではなく、神の意志を行うことが人生の目標となり、使命となる。
 聖霊体験には様々な相があり、今ここで詳しく扱うことはできない。ここでは、イエスのこの時の体験はわれわれの聖霊体験の原型としての意味をもつことを指摘するにとどめる。そうであるから、神の霊によって歩まれたイエスの生涯は、われわれキリストにあって聖霊によって生きようとする者たちの生き方の原型となるのである。われわれがイエスの弟子であるというのは、イエスの思想や教訓を学んで、それを自分の力で実行しようとする者ではなく、聖霊によって生きる生き方を、イエスを原型として学ぶ者であることを意味している。イエスは完全に神の霊によって生き抜かれたが、われわれは生まれながらの人間本性に引きずられて、御霊に従うことに失敗することが多い。この点で弟子は師に及ばない。しかし、生涯イエスに従うことにより、人生の様々な局面で御霊に従うことを教えられ、鍛えられて、師の姿にまで至ろうとするのである。福音書によりイエスの生涯を学ぶ意義の一つはこの点にある。

イエスのバプテスマの記事は、地上のイエスの姿を語ることによって復活者イエスを宣べ伝えようとする福音書において、復活者イエスの舞台への登場を告知しているが、この点については「終章 91 復活者の顕現」を参照。