市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第15講

補論 神の子の誕生

        ― 二〇〇〇年 クリスマス福音講話 ―

誕生物語の位置

二つの誕生物語

 新約聖書にはイエスの誕生物語が二つあります。マタイ福音書(一〜二章)の誕生物語とルカ福音書(一〜二章)の誕生物語です。ところが、マルコ福音書とヨハネ福音書には誕生物語はありません。とくに、福音書と並んで新約聖書の二本柱の中の一方をなすパウロ書簡に誕生物語がなく、パウロはイエスの誕生の次第に全然関心を示していない事実が目立ちます。時期的にはパウロ書簡(五〇年代)がもっとも早く、次にマルコ福音書(七〇年前後)がきます。マタイ福音書とルカ福音書(八〇年代以降)はマルコより後であることは確実です。ヨハネ福音書は成立時期が分かりませんが、マルコより後であると見られています。また、四つの福音書を揃えて読むことができるようになるのはずっと後のことで、初期にはどれか一つの福音書しか知らない地域が多かったのです。マルコ福音書やヨハネ福音書だけを奉じている集会の人たちは誕生物語を聴いていません。そうすると、福音宣教の初期には、時期的にも地域的にも、誕生物語を知らない信徒が多かったことになります。
 この事実は、誕生物語がなくても、十字架され復活したキリストの福音は「信じる者を救いに至らせる神の力」として働いていたことを示しています。誕生物語は福音の不可欠の要素ではないのです。それがなくても福音は福音でありうるのです。では、誕生物語は福音の中でどういう位置を占め、どのような意義を担っているのでしょうか。今年のクリスマスは、この点を主題として誕生物語を聴いていきましょう。

誕生物語の内容については、マタイ福音書講解の「誕生物語の福音」を見てください。

聖霊による誕生

 誕生物語の核心は、聖霊の働きによって人間の母親から神の子が生まれたという告知と、この出来事が旧約聖書の預言の成就であるという宣言です。マタイの誕生物語とルカの誕生物語は、それぞれの視点から緻密に構成されており、多くの相違点があり固有の特色を示していますが、この二点は共通しています。
 マリアの懐胎が聖霊によるものであることは、マタイでは天使によって夢の中でヨセフに示されましたが(マタイ一・二〇)、ルカでは直接マリアに天使が語りかけています。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。(ルカ一・三五)

 この誕生物語の核心をなす告知は、福音の告知と並べてみると、内容的に並行していることに気づきます。福音はこう告知しています。

「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。 (ローマ一・二〜四)

 この福音の告知と並行して、二つの誕生物語(とくにマタイ)は、イエスの誕生の出来事が旧約聖書の預言の成就であることと、イエスがダビデの家系に属する方であることを強調しています。そして、両方の誕生物語(とくにルカ)が、神の子イエスの誕生が聖霊によるものであることを強調しています。マリアから生まれたイエスが、聖霊によって地上に生まれた神の子であるという告知こそ、誕生物語の核心です。これは、福音が「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」と告げていることを、イエスの誕生に重ねて語っているのです。
 このように誕生物語が福音の告知と並行した内容になるのは当然です。福音書というのは、もともと地上のイエスの出来事や働きを物語ることによって復活者キリストを告知しようとする文書なのですから。おそらくマリアから漏れていたイエス誕生にかかわる秘話が、イエスを復活者キリストと信じる人たちの間で伝えられていく過程で、聖霊によって復活したイエスが神の子として立てられたという福音の告知と重ねられて、現在のような聖霊による神の子イエスの誕生を核とする誕生物語が形成されたのではないかと考えられます。
 そのような重ね合わせが生じる機縁となったのは、イエスの復活を詩編第二編の成就であると理解した最初期の教団の聖書解釈ではないかと推察されます。この詩編(七節)の「お前はわたしの子、今日わたしはお前を生んだ」という言葉がイエスの復活において成就したという理解は、パウロが福音宣教のさいにイエスの復活がこの詩編の成就であるとして引用していることにも見られますが(使徒言行録一三・三三)、これはパウロだけの理解ではなく、むしろ初期の教団の理解を代表して、ルカがパウロに語らせていると見られます。
 聖霊という神の大能の働きによって復活して神の子としてお生まれたになったイエスは、地上にお生まれになるときも聖霊によって神の子としてお生まれになるのです。誕生物語はマリアからの誕生という地上の出来事を用いて、聖霊により復活して「神の子」として生まれるイエスを指し示しているのです。

受肉

 復活して高く上げられ、神の右に座す神の子キリストは、神と向かい合いつつ、神と同質の存在でなければなりません。神と同質の神の子は、すべての被造物に先立って存在する方でなければなりません。復活者キリストの信仰は、必然的にキリストの先在の思想へと導き、イエスの誕生をそのキリストの地上への「降誕」と見る見方を生み出します。この見方はかなり初期に成立していたようです。五〇年代に活動したパウロの書簡に、すでにつぎのような信仰告白が引用されています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。(フィリピ二・六〜一一)

 「神の身分であり、神と等しい者である」キリストが、「人間と同じ者になり、人間の姿で現れ」たのです。その方がイエスです。従って、イエスの誕生は神と等しい方の地上への降誕となります。神の子の誕生です。このキリスト理解の延長線上に、マタイとルカの誕生物語が形成されることになります。
 この「神の身分であり、神と等しい」方であり、同時に神と向かい合う方として神とは区別される方を、ヨハネは「ロゴス」(言葉)と呼び、その方が地上に降誕されたことを、「ロゴスは肉体をとって、わたしたちの間に宿った」と言い表したのです(ヨハネ福音書一・一〜一八)。この方は「父のふところにいる独り子なる神」であり、ヨハネ福音書のイエスは、ほとんど人間の姿をとって地上を歩む神として描かれることになります。
 この「神の身分であり、神と等しい者であるキリストが、人間と同じ者になり、人間の姿で現れた」出来事を、キリスト教神学は「受肉」と呼んできました。クリスマスはまさにこの「受肉」の秘義を告知する祝祭なのです。
 ところで、先のフィリピ書に引用されていた初期のキリスト告白の文を見ますと、前半は神と等しいキリストが人間の姿をとって地上に現れたこと、すなわち「受肉」を言い表していますが、後半は「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順に」地上の生涯を歩まれたイエスを、「神は高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」ことを言い表しています。すなわち、神はイエスに「主《キュリオス》」という名をお与えになったのです。その結果、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。この後半は、「復活」という語は使っていませんが、イエスの復活を告白する文であることは明かです。
 このキリスト告白は循環しています。前半の「受肉」は後半の「復活」を前提にしています。イエスは復活されたからこそ、「神と等しい」キリストとなられたのです。そして、そのキリストが十字架の死に至るまでおのれを空しくして歩まれたから、神は高く上げて「主」とされたのです。この循環を成立させるのは復活信仰です。すなわち、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」信仰告白です(ローマ一〇・九)。人間の論理でこの循環の中に入ったり、根拠づけたりすることはできません。

人にして神

 このように見ると、「受肉」は逆方向に見た「復活」であることが理解できます。「イエス」は一人の人間の名です。「キリスト」は本来復活して神の右にあげられた方、神と等しい方の名です。この名が個人名のようになったので、このような神と等しい地位の方を指し示す称号として「主《キュリオス》」が用いられるようになります。「イエスは主《キュリオス》である」という告白が、キリスト信仰の核心です。「キリスト」をその本来の意味で用いると、「イエスはキリストである」と表現しても同じです。そして、この告白は、先に引用したローマ書(一〇・九)からも明らかなように、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことと一体です。この復活信仰は、人間イエスが神と等しいキリストになられたという方向で言い表される信仰告白です。
 それに対して「受肉」は、神と等しいキリストが人間イエスとして地上に現れたことを言い表す信仰告白ですから、すでにイエスが復活したキリストであることを前提にしています。すなわち、復活信仰をキリストからイエスの方向に向かって言い表したものです。復活がなければ受肉はありません。受肉は復活信仰の必然的な帰結であり、逆方向に見た「復活」であり、その一つの表現です。
 この「イエスからキリストへ」と「キリストからイエスへ」という二つの逆方向を含む復活信仰が、「キリストは人にして同時に神である」というキリスト教独自の神学を成立させます。この信仰は数百年の論争を経て、ついに四五一年になって「カルケドン信条」として主流のキリスト教会(のちのカトリック教会と東方正教会)の公式信条となります。

参考に「カルケドン信条」の全文を引用しておきます。
「この故に、我らは、聖なる教父らに倣い、すべての者が声を一つにして、唯一人のこの御子我らの主イエス・キリストの、実に完全に神性をとり完全に人性をとり給うことを、告白するように充分に教えるものである。主は、真に神であり、真に人であり給い、人間の魂と肉をとり、神性によれば御父と同質、人性によれば主は我らと同質、罪をほかにしてすべてにおいて我らと等しくあり給い、神性によれば代々の前に聖父から生まれ、人性によれば、この終りの時代に、主は我らのためにまた我らの救いのために、神の母である処女マリヤより生まれ給うた。この唯一のキリスト、御子、主、独り子は、二つの性より(二つの性において)まざることなく、かわることなく、分けられることもできず、離すこともできぬ御方として認められねばならないのである。合一によって両性の区別が取除かれるのではなく、かえって、各々の性の特質は救われ、一つの人格一つの本質にともに入り、二つの人格に分かたれ割かれることなく、唯一人の御子、独り子、言なる神、主イエス・キリストである。これは、はじめから預言者らまた主イエス・キリスト御自身が懇ろに教え、教父らの信条が我らに伝えた通りである。」(引用は新教出版社『信条集・前編』より)

 この信条は、キリストにおける神性と人性をめぐる教義上の混乱に決着をつけるために、キリストは完全な神性と完全な人性を備えるとした上で、その両者の関係を「まざることなく、かわることなく、分けられることもできず、離すこともできぬ」という否定の表現で規定したものです。しかし、キリストにおける神性と人性をめぐる論争は、神性と人性という相容れない本性を、時間の要素を無視して(復活という出来事であることを無視して)、同一存在の中に押し込めようとして起こった理性の混乱です。
 人であるイエスと神性をもつキリストは、復活と(その逆方向の表現である)受肉によって結ばれているのです。「イエスはキリストである」という告白の「である」は、復活と受肉の信仰の上に成り立っているのです。「イエス・キリスト」の「・」は復活と受肉を指しているのです。イエスの人性とキリストの神性が、復活・受肉という出来事によって結ばれているのです。逆に言えば、わたしたちがイエスが死者の中から復活されたことを信じ、イエスを《キュリオス》と告白するとき、わたしたちは復活・受肉によって結ばれたイエス・キリストの人性と神性の両方を告白しているのです。こうして、「イエス・キリストは人であり神である」というカルケドン信条も、復活信仰の表現と見て、新約聖書(先に引用したローマ書やフィリピ書の信仰告白文)に見られるような時間軸をもつ動的な枠組みで理解しなければなりません。そうすることで、不毛な理論的論争の場から脱して、実りをもたらす信仰告白となるのです。
 このように、イエスを復活されたキリストと宣べ伝える福音の告知は、半世紀ほど後には、神と等しいキリストがイエスとして地上にお生まれになったという誕生物語を生み出したのです。そして、誕生物語はカルケドン信条に至るキリスト論の方向を道備えしたのです。さらに、この誕生物語は逆方向から見た復活者キリストの告白であるだけでなく、この福音の担い手たちの体験の告白であり、賛美でもあるのです。

神の子の誕生と完成

神の子とする御霊

 先に、誕生物語の核心は聖霊による神の子の誕生であることを見ました。ところが、この聖霊による神の子の誕生という誕生物語の主題は、この物語を担った一人ひとりの体験でもあるのです。使徒パウロは次のように書いています。

「あなたがたは、再び恐れに陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、わたしたちは「アッバ、父よ」と叫ぶのです。この御霊ご自身が、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊に証してくださるのです」。 (ローマ書八章一五〜一六節 私訳)

 わたしたちキリストを信じる者も、御霊によって神の子として誕生し、「アッバ、父よ」と叫ぶようになったのです。わたしたちがキリストにあって受けた御霊は「子とする御霊」なのです。わたしたち人間の中に神の子が誕生しているのです。このわたしたちの中の神の子が「アッバ、父よ」と叫ぶのです。
 このように自分の中に神の子が誕生したことを体験した者たちが、この誕生物語を語り伝え、書きとどめたのです。その結果、この誕生物語には福音に生きる者たちの信仰告白と賛美が重なっています。たとえば、マリアが「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と言った言葉は、そのままこの物語の担い手たちの告白でもあるのです。マリアは身ごもって男の子を産むが、その子に神はダビデの王座を与えられると告知した天使に、「わたしは男の人を知らないのに、どうしてそのようなことがありえましょうか」と反問しています。しかし、「神にできないことは何一つない」という天使の言葉に、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、自分を投げ出すのです。この言葉には、人の思いには不可解なあの十字架の言葉に自分の全存在を投げ入れた一人ひとりの信仰告白の言葉が重なっています。このような自分が神の子となることは不可能、不可解です。しかし、もはや他に行くところはなく、この福音の言葉に委ねざるをえない者は、マリアと共にこう告白せざるをえないのです。そのように自分を福音に投げ入れて、御霊の働きを受け、自分の中に神の子が誕生するという体験をしたのです。
 神の子イエスの誕生は賛美に取り囲まれています。とくにルカの誕生物語は賛美の花輪のようです。マリアの賛歌、ザカリアの賛美と預言、天使の賛美と羊飼いの礼拝、神殿でのシメオンとアンナの賛美など、イエスの誕生は天と地の賛美で取り囲まれています。この賛美には、御子イエス・キリストによって救いを体験した誕生物語の担い手たちの賛美が反映しています。自分に神の子の身分を与えてくださった神への賛美が溢れています。その賛美の中では、処女から子供が産まれることが可能かどうかというような問題は吹き飛んでいます。自分が体験した「神にできないことは何一つない」という告白の中に溶解しています。

御霊と肉の対立

 わたしたちは、キリストにあって賜っている御霊が、「わたしたちが神の子であることをわたしたちの霊に証してくださる」ことを知っています。しかし同時に、わたしたちは自分が人間であること、人間の本性の中に生きていることを、それ以上に確かな事実として知っています。わたしたちも人であると同時に神の子であるのです。この二重性は、わたしたちの場合には葛藤あるいは内的な戦いとして現れてきます。 

人間としての弱さを表現するのに、よく「あの人も人の子だから」と言います。神性をもつ者を「神の子」と言うのであれば、人間としての本性を「人の子」と表現することも理解できます。しかし、新約聖書(とくに福音書)では「人の子」は黙示思想の終末的・超自然的な審判者を指す称号です。キリストの神性と人性を指すのに「神の子」と「人の子」を用いたために、福音書の終末的な「人の子」が理解されなくなったという経緯も考慮に入れ、使用を避けます。

 わたしたちは現に人間として生きています。わたしたちは、この人間本性から離れることはできません。この人間としての本性の中に神の子が誕生したのです。この神の子は、神から生まれたのですから神の本性を担っています。この神の本性を担った神の子を宿すようになって初めて気づくのですが、わたしたち人間の生まれながらの本性は、神の御霊によって生まれた神の子の本性と違っており、むしろ相反する方向に向いているのです。その結果、御霊によって自分の中に神の子を宿した者は、二つの相反する本性の間で戦うことになります。
 この内的な戦いをもっとも明確に自覚し表現したのは使徒パウロです。パウロは御霊の質に対立する人間の生まれながらの本性を「肉」と呼びました。そして、御霊と肉が相反する方向に向かっていることを明らかにした上で、キリストに属する者たちに「肉によらず、御霊に従って歩む」ことを求めるのです。御霊によって歩むことが、キリスト者の倫理の唯一の源泉です。人間本性の中にありながら、御霊によってその人間本性を克服して生きることが求められているのです。

キリストに達するまで

 では、このように御霊によって人間本性を克服して生きることを課題とする人生は、どのような地点に到達することを目標にしているのでしょうか。この点についても、この課題を担ってキリストのしもべとしての生涯を走り抜いた使徒パウロが語るところを聴きましょう。
 パウロは、獄中で死に直面しつつ書いた手紙の中でこう言っています。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿に合わせられ、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。(フィリピ三・一〇〜一一 一部私訳)

 パウロが目指している目標は「死者の中からの復活に達する」ことです。「キリスト」を死者の中から復活された方という意味で用いるならば、「キリストに達する」と言ってもよいでしょう。パウロが「キリストを得る」(フィリピ三・八)ことを目標とすると言うときも、この意味であるはずです。パウロはこの目標に向かってひた走りに走ってきました。しかも、「既にそれを得たというわけではなく・・・・後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・・目標を目指してひたすら走る」のです(フィリピ三・一二〜一四)。
 パウロをはじめ多くの聖徒たちがこの目標を目指して走り、わたしたちの模範となりました。しかし、最初にこの目標に達した人はイエスにほかなりません。イエスは十字架の道を歩み抜いてキリストに達した、すなわち死者の中からの復活に達したのです。この意味で、イエスはキリストに達すべく召された多くの兄弟たちの長兄です。神性にあずかることを目標として歩む新しい人間の原型です。
 先に「クリスマスは受肉の秘義を告知する祝祭である」と言いましたが、栄光に満ちた「神と等しい」キリストが、この卑しい死すべき人間の姿をとって現れたという受肉の目標は、この卑しい人間性を栄光ある神性にまで至らせるためのものであったのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(コリントU八・九)。
 クリスマスはわたしたちに改めてこの目標を思い起こさせます。パウロによって明確に設定されたこの目標は、世々の聖徒たちによって受け継がれ、この道を最初に歩んでキリストに到達されたイエスを模範として生きる人たちを数多く生み出し、キリスト教の伝統を形成してきました。非常に大雑把な言い方ですが、そのキリスト教の伝統の中で、ギリシャ正教会やロシヤ正教会など東方キリスト教は、とくにその中の神秘主義的な傾向において、人間が神性を獲得すること、端的に言えば「人間の神化」を目指してきたと言われます。
 それに対して、ローマカトリック教会とプロテスタント諸教会を中心とする西方キリスト教は、この目標を目指して生きる現実の人間の中で起こる人性と神性の対立、パウロの言う「御霊と肉」の対立に取り組むことを主題にしてきました。わたしたち日本のキリスト教は西欧キリスト教諸国からの伝統を受け継いで、どちらかというとキリスト教を人間性に対立するものとして受け止めてきました。しかし、本来のキリストの福音は、人間性を完成する力です。福音は「救いに至らせる神の力」です。「救い」とは人間性の完成に他なりません。人間性が神性によって完成されることです。
 人間性と神性の対立に止まるのではなく、神性による人間性の完成に向かうべきであるということは、西方キリスト教より東方キリスト教を重視するように主張しているのではありません。西方キリスト教は人間の現実を直視した貴重な伝統を保持しています。わたしたち日本のキリスト教は、両者の源流である新約聖書の福音に帰り、そこから日本の文化と伝統の中で、神性による人間性の完成という受肉の秘義を追求していかなければならないのです。
 新しい千年期を迎えるこの年のクリスマスにあたって、イエスの誕生が世界にもたらした救いの秘義に、これからもさらに深く思いをひそめてまいりたいと思います。