市川喜一著作集 > 第2巻 キリスト信仰の諸相 > 第13講

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物だけでなく、御霊の初穂をいただいているわたしたちも、
神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で
うめきながら待ち望んでいます」。

(ローマ書 八章一九〜二三節)

第四部 希望の諸相

   第三講 希望としての創造

             ― 聖書救済史における希望 ―

救済史の構造

約束と成就の構造

 わたしたちが信仰の拠り所としている聖書とはどのような書物でしょうか。一言でいうと、聖書は救済史を証言する書物であると言えます。救済史というのは、神が人間を救い、世界を完成される働きの歴史です。今回は聖書全体が証言する救済史の観点から、わたしたちの希望の姿と内容についてお話をしたいと思います。
 聖書の救済史には独特の構造があります。それは「約束と成就」の構造です。すなわち、聖書の神は人間を救い世界を完成する働きを進めるにあたって、まずあらかじめ約束の言葉を与え、その約束を成就するという形でその働きをなされるということです。この構造はイスラエルの預言者たちの「主の言葉」の体験と、異教祭儀との激しい戦いとによって確立された理解です(土着の神話的祭儀的宗教との預言者の戦いについては本書第二部「信仰の諸相」の第一講「言葉の出来事としての信仰」を参照のこと)。
 典型的な例を一つだけあげますと、預言者アモスはこう言っています。

「まことに、主なる神はその定められたことを、僕なる預言者に示さずには、何事もなされない」。(アモス三・七)

 神は為そうと定められたことを、まず預言者を通してあらかじめ民に語り、その言葉を成就するという形でその働きを進められるというのです。神は世界の救済完成の働きを進めるにあたって、まずイスラエルの民を選び、その民の歴史の中で最終的な働きのための準備を進めてこられました。イスラエルはこのような預言者たちの使信によって、自分たちの存在と歴史を神が約束を成就される働きの結果であると理解し、自分たちの将来を神の約束に基づいて待ち望むようになりました。そのような神への信仰がイスラエルの宗教であったのです。
 イスラエルは、自分たちがアブラハムの子孫として一つの民族を形成しているのも、自然に増え広がったのではなく、神の約束に基づくものであることを知っていました。イスラエルは約束によって生まれたイサクの子孫なのです。イスラエルが奴隷状態に置かれていたエジプトから解放されて、現在このカナンの地に定住しているのも、神が父祖たちになされた約束を成就してくださった結果です。いまダビデ王朝の下に国家として存続しているのも神の約束に基づくことなのです。過去の出来事も、現在の状態もすべて神の約束の成就として起こったことです。さらに、預言者は将来の神の働きをあらかじめ告げることによって、その将来の観点から現在を生きるように民に求めたのです。預言者はしばしば神の裁きが迫っていることを語りました。契約に背く民に対する審判も含めて、神がご自身の誠実にかけて将来必ず行うと予告された言葉を広く「約束」と言うならば、この約束の観点から現在を生きること、これが預言者が求めた信仰です。
 約束が示す将来は、ふつう現在の事実とはかけ離れた姿を見せています。たとえばアブラハムに与えられた「あなたの子孫は天の星のようになる」という約束は、すでに老年のアブラハムと不妊の妻サラの二人には考えられない将来でした。それにもかかわらず、アブラハムはこの約束をされたヤハウェの信実に自分の生涯をかけて生きたのでした。この信仰が義と認められて、彼には約束通り男の子が生まれたのです。
 このように約束はその告知と成就との間に緊張に満ちた空間を形成します。信仰はこの約束が生み出す張りつめた場に生きるのです。イスラエルの歴史はこのような場における歴史でした。そして、イスラエルはその歴史の中で多くの約束を与えられ、その成就をも体験してきました。個人の生涯においても、民の歴史においても、出エジプト、カナン定住、ダビデ王国の形成、バビロン捕囚というような大きな出来事にいたるまで、イスラエルは多くの約束の成就を体験してきたのです。

旧約と新約

 しかし、イスラエルは神の約束の最終的な成就はまだ来ていないことを知っていました。この約束と成就が積み重なったイスラエルの歴史全体が最終的な約束を形成しており、その成就を待っていることを自覚していました。その成就の期待を彼らはメシアの到来とか、新しいアイオーン(世)の到来という形で表現したのです。
 福音はイエス・キリストの出来事を、このイスラエルの全歴史が待望していた最終的な約束の成就であると告知しています。すなわち、イエス・キリストの出現、生涯とその働き、十字架上の死、復活の出来事を聖書(旧約)の成就であると宣言するのです。イスラエルの歴史の記録が旧約聖書であり、イエス・キリストの出来事の告知が新約聖書ですから、このことは「旧約は新約を約束待望し、新約は旧約を成就する」と表現することができます。これが救済史の基本構造、聖書全体の構造です。「時は満ちた」という宣言は、この構造を一言で表現しているのです。
 しかも、キリストの出来事はイスラエルの歴史の成就であると同時に、人類に対する神の究極の約束を形成しているのです。旧約に見られた約束の重層構造が最終的な形で現れているのです。約束の重層構造というのは、一つの約束の成就がさらに大きな約束を形成するという構造です。福音はキリストの十字架と復活が旧約の成就であると宣言すると同時に、神が最終的に完成しようとしておられる新しい世界の約束であると告知します。第一講でお話しましたように、キリストはすべてのキリスト者の初穂として復活されたのです。キリストの復活は終末の死者の復活を約束し、保証しているのです。

救済史における創造

創造信仰の成立

 さて、聖書は「初めに、神は天地を創造された」という大宣言で始まります(創世記一・一)。神が天地万物を創造されたという信仰は、聖書の基本的な信仰内容です。この創造信仰は聖書の救済史においてどのような位置を占め、どのような意義を持っているのでしょうか。この問題を考えるために、創造信仰成立の過程を振り返ってみましょう。
 神が天地万物を創造されたという宣言が聖書の開巻冒頭にありますから、わたしたちはイスラエルに初めからこのような創造信仰があったのだと考えがちですが、実は、聖書に見られるような形の創造信仰は長い年月をかけて成立した信仰なのです。もともとイスラエルというのは、モーセに率いられてエジプトから脱出した諸部族が連合して契約を結び、モーセに現れた神ヤハウェを自分たちの神として礼拝するようになり、イスラエルという民族を形成したのです。彼らのもっとも原初的な信仰告白は申命記に見られるとされています。そこでは彼らの神への信仰がこのように告白されています。

「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と密の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました」。(申命記二六・五〜一〇)

 ここに見るかぎり、イスラエルの原初の信仰は自分たち民族の救済神ヤハウェを礼拝する信仰であったと言えます。このような民族神礼拝の信仰が、王国時代の預言者たちの活動により、世界の諸民族の主としてのヤハウェ信仰に展開し、バビロン捕囚期にバビロニヤの創造神話と接触して、天地の創造者としての神への信仰に至ったとされています。事実はこれほど単純ではなく、イスラエルにも古来の創造物語の伝承があり、複雑な過程をたどって現在の形の創造物語が形成されたと考えられます。その霧に閉ざされた複雑な過程の中で、雲海の上にそびえる美しい山頂のように、ひときわ壮大な創造信仰が輝いています。それは捕囚期に出た無名の預言者(第二イザヤ)です。彼は繰り返しヤハウェは天地万物を創造された神であることを語るだけでなく、現在のイスラエルの存在も、将来のイスラエルの救済も、さらに新しい時代の到来もすべて神の創造の働きとして宣べ伝えるのです。

「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の、力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない」。(イザヤ四〇・二六)

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。(イザヤ四三・一 その他、四一・一七〜二〇、四三・七、一五、二一など)

 このように彼において創造は将来の救済の根拠としての意義を担うことになります。捕囚期のこの大預言者において神の終末的な救済が力強く語られるようになりますが、その終末的救済という主題の中で、創造信仰が救済の根底として重要な位置を占めることになります。終末的な救済は神の新しい創造として語られるようになります。

救済史の初めの業としての創造

 こうして本来救済史的な内容をもつイスラエルの信仰の中で、バビロン捕囚を転機として、創造の信仰が重要な構成要素としての地位を占めるようになります。このことは、ネヘミヤ記九章にある捕囚後の信仰告白を申命記六章の原信仰告白と比べるとよく分かります。ここでは捕囚に至るまでの民の罪を認めて懺悔し、それにもかかわらず与えられた主の救いを賛美しており、基本的には申命記六章の信仰告白と同じ救済史的信仰告白となっています。ところが、その救済史の系列の最初に「あなたのみが主。天とその高き極みを、そのすべての軍勢を、地とその上にあるすべてのものを、海とその中にあるすべてのものを、あなたは創造された。あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む」(六節)という天地の創造のみ業が置かれていることが目立った相違となっています。
 こうして、捕囚後に祭司たちによってイスラエルの歴史を語る多くの伝承が総合されて「モーセ五書」が成立するに至るのですが、その冒頭にイスラエルをエジプトから救い出して契約を結ばれた神の最初の働きとして天地の創造が置かれることになるわけです。したがって、「初めに、神は天地を創造された」という時の「初めに」は、救済史の初め、すなわち神が人間を救済し、世界を完成される諸々の働きの系列の初めという意味になります。この「初めに」という一句にはさまざまな哲学的な解釈が施されていますが、聖書は本来救済史の証言でありますから、この句はまず何よりこのように理解されなければならないと思います。

終りの創造としての復活

終りの日の復活

 さて、「初め」があれば「終り」があります。「初め」は「終り」を予想します。「初め」に天と地を創造された神は、「終り」にはどのような業をされるのでしょうか。福音は主イエス・キリストの十字架と復活こそ、その「終り」の業であると宣言しています。世界の片隅で起こったキリストの十字架の死と復活という出来事が、天地創造に対応する神の業であるというのは、いったいどういうことでしょうか。このことをもう少し詳しく見てみましょう。
 預言者たちは厳しい神の裁きを語りましたが、その裁きを超えて最後にはイスラエルが救われることをも語り告げました。彼らが体験した主なる神の慈愛と信実が、そのような希望を語らざるをえないようにするのです。ところが、このような預言者たちの終末的な救済の希望は、なお歴史内の希望でした。すなわち、地上でのイスラエルの回復の希望です。しかし、その後イスラエルが世界の諸強国の支配の下で苦難の歴史を歩むうちに、預言者たちの終末的救済の希望が地上の歴史の枠を超えた超越的な世界での救済という形をとるようになります。旧約聖書の最後の時期に成立したとされるダニエル書は、このような形での終末的希望を典型的に示しています。
 ダニエルに与えられた啓示によれば、四つの獣によって象徴される四つの世界の支配が続いた後、「人の子」のような者が天の雲に乗って現れ、永遠の支配を開始するというのです(七章)。このような秘密めいた象徴的言語で終末を語る黙示録的文書が、預言者たちの活動が終ってから新約時代に至るまでの中間期に数多く生み出されました。
 これらの黙示文書は強烈な二元論で貫かれています。すなわち、人間は神を信じる信仰深い義人たちと、この世の支配に服して義人を迫害する罪人たちとにはっきりと分けられます。そして、現在の世は悪しき者たちが支配する時代であるが、やがて義人たちが支配する新しい世が到来するとされます。神は二つの世(アイオーン)を創造されたというのです。今のアイオーンはサタンが支配する悪しき時代であるが、神は終りに新しいアイオーンを創造して、そこで神の民を栄光に導かれるという信仰です。
 来るべき新しいアイオーンにおいて神がどのような業をされるのかについては、多くの黙示文書の間で相違があって必ずしも一致していませんが、新しいアイオーンは神による新しい天と地の創造であって、そこでは義人たちは死者の中から復活して、神の栄光にあずかるようになるという信仰が有力になっていました。イエスの時代のユダヤ教主流派であるファリサイ派では、終りの時の死者の復活は主要な教義になっていたのです。

終わりの創造としての復活

 新約直前の時期のイスラエルでは、このような黙示録的な信仰が広く受け入れられ、人々は新しいアイオーンの到来を切に待ち望んでいたのです。そのようなイスラエルに向かって、福音はイエス・キリストの十字架と復活によって、古いアイオーンが終り新しいアイオーンが始まったことを宣言したのです。神に背く古いアイオーンは裁かれて滅びなければならないのですが、それがキリストの十字架の上で成し遂げられたのです。キリストが十字架の上で「わたしたちの罪のために死なれた」時、罪の中にある古い人類は裁かれたのです。古いアイオーンが滅んだのです。そして、キリストが「三日目に復活された」時、新しい人間が創造されたのです。その時、新しいアイオーンが創造されたのです。
 キリストの復活は新しい創造、終りの日の創造の始まりです。初めの創造においても、終りの創造においても、神の創造の業の中心は人間です。初めの創造においては、天地の万物が創造された後、最後にアダム(人)が創造されたと記されています。終りの創造においては、まずキリストが「初めの者」として復活して、「死者の中から最初に生まれた方(プロトトコス)」となられました(コロサイ一・一八)。終りの創造は、この復活されたキリストを原型として成し遂げられ、完成されるのです。ですから、初めの創造と終りの創造の対比は、アダムとキリストの対比として描かれます。パウロも復活の体を論じた箇所(コリントT一五・三五〜五五)で、復活をアダムとキリストの対比で、すなわち初めの創造と終りの創造の対比で語っています。
 その箇所では、死者がどのような体で復活するのか想像できないからといって復活を否定する人たちに対し、パウロは「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」(三六節)と言って、種の比喩を用いて復活の体を論じていきます。まず、「あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」(三八節)と言って、復活の体は創造者である神が与えてくださるものであることを示します。
 それから、「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(四二〜四四節)と論を進めて、現在の「自然の命の体」を与えてくださった創造者が、「霊の体」をも与えてくださるのであると復活を根拠づけています。「自然の命の体が蒔かれる」と言うのは神の創造の働きですから、「霊の体が復活する」のも神の創造の働きとして語られているのです。「自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と言っていますが、このように現在の体の存在を将来の復活体の存在の根拠にすることは、創造信仰によってはじめて可能になります。
終りのアダムとしてのキリスト
 ここで「自然の命の体」をもって生きる人間と「霊の体」をもって生きる人間が、アダムとキリストに代表されて語られます(四五〜四九節)。キリストは「最初の人アダム」に対して「最後のアダム」、「第二の人」と呼ばれています(四五、四七節)。キリストはアダムなのです。アダムが初めの創造において人そのものであったように、キリストは終りの創造において人そのものなのです。アダムが初めの創造において存在へと呼び出された現在の人類を代表するように、キリストは復活して終りの創造によって創造される人間を代表する方となられたのです。
 アダムは土から造られ、命の息を吹き入れられて生きる者となりました。アダムは土からでき土に帰る者、「地に属する者」、古いアイオーンに属する者です。それに対してキリストは死者の中から復活した者、もはや土に帰ることのない「天に属する者」、新しいアイオーンに属する者です。そして、アダムが「最初の人」でありキリストが「第二の人」であるという順序、「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです」(四六節)という順序が、聖書の救済史のもっとも基本的な枠組みを構成しています。わたしたち人間はすべて、まず最初に「地に属する者」アダムの似姿に造られ、最後に「天に属する人」キリストの似姿に変えられて救われるのです。「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」(四九節)。

御霊のうめき

初穂としての御霊

 「土からできたその人の似姿となっている」というのは既成の事実です。その現在の事実と同じように確かに、将来かならず「天に属するその人の似姿にもなる」と希望することはどうして可能になるのでしょうか。パウロはさらに、その時のことについてこう言っています。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(五三節)。この「必ずなります」という確信はどこから来るのでしょうか。それはキリストを信じてキリストに結ばれて生きる者に賜る聖霊から来るのです。
 聖霊は神からの命です。来るべきアイオーンの生命です。イエスが神から受けて、それによって生きておられた命です(マルコ一・一〇)。その霊がイエスを死者の中から復活させたのです(ローマ八・一一)。イエスはわたしたちと同じ土からできた体をもって地上に生きた方です。しかしその中で、この聖霊によって来るべきアイオーンの命を生き、その命の働きによって終末の次元を世に示されたのです。イエスの場合、この自然の命の体の中にありながら、終末の生命である聖霊に生きる生き方は完璧でした。死に至るまで、十字架の死に至るまで、おのれを空しくして神の御旨に従われたのでした。それで、イエスは「自然の命の体」を脱ぎ捨てた後、その霊にふさわしい体、すなわち「霊の体」を与えられて復活されたのです。第一講で申し上げましたように、イエスの復活はすべて御霊によって生きる者たちの初穂なのです。イエスが復活されたという事実は、すべて同じ御霊によって生きる者の将来を保証しているのです。
 わたしたちもキリストを信じることによって賜物として聖霊を受け、聖霊によって生きるようにされました。しかし、この御霊の命はそれにふさわしくない体の中に生きています。今わたしたちは「朽ちるもので蒔かれ」ています。すなわち、この生まれながらの自然の命に与えられている体は、土からできたもの、土に属し、土に帰るように定められた体です。その中で終末の世界の生命である聖霊は、まだ見ぬ自分の体である「霊の体」を慕ってうめかないではおれないのです。

「初穂として御霊をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。(ローマ八・二三)

 わたしたちは「体の贖われること」、すなわちこの「自然の命の体」が「霊の体」に変えられること、「朽ちるものが朽ちないものを着る」ことを切にうめき待ち望まざるをえないのです。これは御霊のうめきです。この御霊のうめきは自分の内面だけのうめきではありません。全被造物のうめきと響きあっています。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」。(ローマ八・二二)

 ここの「被造物」が何を指しているのか解釈は分かれていますが、いまは立ち入らないで、全世界とその営み、とくに人類の歴史と理解しますと、ここで言われていることがよく実感できるように思います。たしかに今は全被造物が「虚無に服し」、「滅びへの隷属」の下にあることが感じられます。すべての努力と営みが結局は無に帰するのではないかという不安と無意味さに縛られているように感じられます。しかし、御霊によって復活の希望を抱いている者は、被造物が滅びるために造られたものでないことを知っています。初めの創造で人間のために造られた天地万物は、終りには「霊の体」をもって栄光の中に現れる神の子たちのために、まったく新しい天地として造り変えられることを知っています。

「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」のです。(ローマ八・二一)

 これは昔預言者たちが「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と語っていたことです(イザヤ六五・一七)。それは神の終りの創造の完成です。その希望がいまこのような姿で、御霊に生きる者の中に宿っているのです。この希望をユダヤ教黙示文学の用語で表現したものがヨハネ黙示録です。
 創造信仰の完成としての復活信仰をこのように見てきますと、復活信仰は創造信仰を土台としていることが分かります。イスラエルの長年の歴史の中で、創造信仰が救済史の中に組み込まれて現在のような旧約聖書が成立したのは、この新約の復活信仰を準備するためであったと言えます。「神は天地万物を創造された」という信仰は、「神は死者を復活させる」という信仰によって完成されるのです。復活信仰は創造信仰の冠です。
 創造信仰は過去の神の業によって現在の世界の存在を説明したり、根拠づけたりするものではありません。それは将来の神の業を根拠づけるのです。創造信仰は希望の信仰です。すでにアブラハムは、このような希望としての創造者の信仰に生きておりました。その信仰によって彼はわたしたち復活信仰に生きる者たちの父となったのです。

「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」。(ローマ四・一七)

 創造信仰とは「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じることです。もしこのような神を信じることができなければ、わたしたちの将来は現在の事実の当然の帰結以外のことを期待することはできません。現在の罪の帰結としての滅び、土に属する存在であることの帰結としての死以外の将来はありません。わたしたちは完全に因果の法則に縛られた者です。この因果の法則の鎖を断ち切って、現在のわたしたちの事実からはでてこないものを期待することができるのは、「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じる時、すなわち創造信仰に生きる時だけです。
 信仰によって義とされるということも、この創造信仰の中で成立する信仰です。わたしたちの中には存在していない義を、神がキリストの十字架の贖罪と聖霊の賜物によって存在するようにしてくださるのだからです。そして、今回詳しく見てきましたように、復活の希望はこの創造信仰を土台として成立するものです。わたしたちの現実のどこからも「霊の体」は出てきません。それは「存在していないものを呼び出して存在させる神」が約束し、初穂であるキリストの復活によって保証された将来です。
 主イエスが「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ一〇・二七)と言われたのは、イエスがこのような創造者としての神の信仰に生きておられたからです。奇跡というのは、この「存在していないものを呼び出して存在させる」神の働きです。創造信仰に生きる者は奇跡を信じます。人間の経験の法則や因果の法則を超えたことが起こることを信じています。ですから、過去や現在の事実に縛られないで、将来を待ち望みながら生きることができます。その希望の中で最大の、そして究極の希望が復活の希望です。
 聖書の神は「望みの神」、「希望の源である神」と呼ばれています(ローマ一五・一三)。神を知らないことは「この世の中で希望を持たず」にいることです(エペソ二・一二、テサロニケT四・一三)。そして、一切の希望は「存在していないものを呼び出して存在させる神」から来ます。創造信仰は希望の信仰です。